6-3

 出会いは突然だった。

 勇太郎はその日、まだ少し花開いていた桜並木に目もくれず、空白を持て余していた。人は大抵どこかへ赴くための手段として歩を進めるが、勇太郎はただ、歩くために歩いていた。


 陸上部員としての三年間は、三年が経つ前に呆気なく終わりを告げた。最初はこの世の終わりだと自棄になったが、起きてしまったことをウジウジと引きずっていても仕方がない。好き勝手に陸上に取り組んできたんだ。周りに心配をかけていいことにはならない。ひとまず自分のことは置いておいて、明るく振る舞おう。今度は自分が誰かに貢献する番だ。そうは意気込んだものの、勇太郎はぽっかりと空いた時間をうまく活かせないでいた。


 コンビニに入る。同じ高鳥の高校生が三人、サラリーマン風の男が一人、立ち読みをするガラの悪そうな男が一人。そんな殺伐とした空間の中、可憐でありながらどこか儚い彼女の姿は際立っていた。

 間に合わせたようにただ服を着ていただけのその少女は、しかし、パンやガムを自らのポケットに忍ばせて、その場を後にした。勇太郎の率直な感情は、憐れみという形で少女に向かっていた。



 万引きを働いた少女は、公園にある中で最も目立たない位置にあるベンチで、盗んだパンを食べていた。勇太郎はその境遇と退屈に引き寄せられたのか、こういう教室の隅のような場所に視線が向くようになっていた。


 どうするつもりかは全く考えていなかったが、自然と声をかけていた。

「それ、ウマいよな。俺も好きなんだ」

 彼女は怯えた。

「な、なんですか」

 勇太郎は視線の高度を合わせる。

「なんであんなことしたの?」

「見てたんですか」

 見た目は自分と同年代の女の子が、何故こんな状況に追い込まれなければならないのか、何故ここまでやつれているのかを想像すると、勇太郎はどうしても、彼女を糾弾する気にはなれなかった。


「あ、いや、なんていうか……」

「……こうでもしないと、生きていけない」

 自分の全く知らない世界で懸命に生きる人がいることの、その一端を、勇太郎は思い知った。

「ごめん。俺がどうこう言うことじゃないよね」

「え?」

「何となくわかるよ。本当はあんなこと、したくなかったんじゃないかなって」

「……あの、私」

「ん?」

「いえ、なんでも」

「そっか」

 勇太郎の手は、紙切れにペンを走らせていた。

「何か困ったことがあったら……あ、でも、いらなかったら全然、捨てていいから。……じゃあ」

 差し出がましいとは思ったが、勇太郎は自分の電話番号を少女に渡し、その場を立ち去った。どんな顔をすればいいか分からない。ただ、彼女をこのまま放っておく訳にはいかない。彼女が電話をかける手段を持っているとは思えなかったが、せめてもの苦肉の策だった。



 それからおよそ一ヶ月ほど経ったある夜、寝床に入ろうとした勇太郎のもとに電話がかかってきた。発信者は『公衆電話』となっている。勇太郎は何を考えるでもなく、反射的に応答した。

「もしもし」

『……ハッ、ハァ……あの、この前は』

 涙声だった。あの万引きしてた女の子だ。

「え?」

『この前は、……ありがとうございました』

「いや、ちょっと、どうしたの?」

『あの、私もう……』

「うん」

『この前の公園で……嫌! やだ! やめ、やめてくださっ……んん! んんんんー!』


 なんだよ、これ。

 勇太郎は手を震わせながら、それでも携帯をしっかりと握り続けた。


『あっ、もしもーし』

 今度は男の声。

「おい、今のはなんだよ、なあ!」

『いやさ、この子が大事そうにこの番号持ってたからさ。もしかしたら飼い主さんかな? と思って。どうよ。いい声で鳴いてたでしょ?』

「何をした。その子に何したんだよ!」

『もう、そんな怒んないでよ。ちょっと遊んでただけじゃん。是非さあ、一緒に』

「オイ、お前。そこにいろよ」

『ちょっ、わかったよ。もう今日で終わりにするからさ、もうちょっとだけ俺らで仕込んでからアンタに……』


 電話を切った勇太郎は、そこから一目散に駆けた。名も知らぬ少女のために。足が使い物にならなくなろうが、どうでもよかった。

 公園に着く。男の気配は無かった。逃げたか。

 ひと月前と同じベンチで、彼女はうずくまっていた。衣服が乱されているのを隠しているようだった。勇太郎は寝間着の上を脱ぎ、肌着姿で少女に近づく。


「風邪ひくよ。これ着な」

 勇太郎の顔を見るなり、少女は泣き崩れてしまった。勇太郎は手に持った寝巻きを肩にかけ、少し間を空けて隣に座り、スマホを取り出す。しかし、どうなのだろうか。思案を巡らせた。

「もう大丈夫だよ。でも、ここには来ないほうがいいかも」

 少女は、焦点の定まらない虚ろな瞳をただ外気に触れさせていた。恐らく、どこも見ていない。


「私は、いない人間だから」

「え?」

 勇太郎は、スマホをポケットに戻した。ミオリの言っている意味は分からない。

 しかしそれは、今は問題ではない。怒りと憎悪を隠し、できるだけの笑顔を、勇太郎はミオリに向けた。

「そういえば、名前言ってなかったよね。俺、崎村勇太郎っていいます。高鳥の中学校まで、わざわざ電車で通ってて……」

 そんな情報、今のこの子にとってはどうでもいいんじゃないか? 勇太郎は言葉を探した。

「君は?」

「……ミオリです。私の名前」

「ああー。いい名前じゃん」


 すんなり名乗ってくれるとは思っていなかったので、勇太郎は当たり障りの無い返答をするに留まった。

「名前なんて、久しぶりに使った」

 受け流すには残酷過ぎる言葉だった。思わずミオリから目を逸らした勇太郎は、その視線の先で、ひっそりとカモミールが咲いていることに気づく。ベンチを離れて歩み寄り、しゃがみ込んだ。

「こっち来て」

 手招きされるままに、ミオリは勇太郎に近づく。ミオリもまた、そのカモミールの花に気づいた。


「きれい……」

「でしょ?」

 勇太郎はこの時、ミオリの表情に初めて生気を見出した。

「カモミールってあんまり見かけたことなかったけど、夜でもこんなに素敵なんですね」

「花、好きなんだ」

「ええ、まあ」

「……カモミールの花言葉って、知ってる?」

「いや、全然……」

「『逆境に耐える力』だよ。こう見えてね。こういう低い位置に咲くから、人間に踏まれちゃうこともあるんだけど、でもその度に成長するんだ。優しいけど、タフな花なんだよ」

「すごい……知らなかった」

「……まあ、だからどうって訳じゃないんだけど……あ、そうだ。うち花屋なんだけど、今度見に来てよ。綺麗な花、たくさんあるから」

「いいんですか?」

「うん」

「ありがとう」


 深く礼をしたミオリが頭を上げると、今までとは対照的な、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

「いいんだよ。どうせ暇な花屋だし」

「いや、それだけじゃなくて……声かけてくれたのも、ここに来てくれたことも。本当にありがとう」

 勇太郎の心には靄が残った。こんなにも素敵な笑顔を、一体何が奪ったんだ?

 勇太郎が考えていると、ミオリは思わぬことを口にした。


「私ね、今年で四十九歳なの」



 五月の中旬、ミオリはガーデンSAKIに通うようになっていた。保子も次第にミオリと打ち解けていき、久々に母性を発揮し始める。そんな様子なので当然、崎村家の食卓にはミオリが話題に上るようになった。ただ一つ、彼女の境遇や過去については言及しないという暗黙の了解を前提として。

 そして勇太郎は、ディレイドのことだけは保子に言えずにいた。さすがに信じてはもらえないだろうと、そう踏んでのことだった。


 その日は、勇太郎が切り出した。

「あのさ、母さん」

「ん?」

「ミオリちゃん、うちで働かせてあげられないかな」

 それがミオリにとっての最善策かどうかは分からない。ただ、勇太郎は、ミオリの笑顔をもっと見たかったのだ。


「まあ私も、彼女に事情があることはなんとなく察してたけど……」

「俺も詳しくは聞いてない。ただ少なくとも、住所は持ってなさそうなんだ」

「……」

「でも、エゴなのかな。助けたいっていうのもあるんだけど、それ以上に、もっと一緒にいたいっていうか……」

「こればっかりは難しい問題だよ。周りの目もあるし……」

「そうだよね」

「まあ、でも、私個人の感情としてはね、ミオリちゃんと暮らしてもいいとは思ってる」

「え?」

 勇太郎は予想外の母の発言に目を丸くした。


「だって、あんなにお花の似合う子他にいないもの」


 結果的には、ミオリは崎村家の一員となった。過程の全てがいい出来事、という訳にはいかなかったが、ミオリは着実に家庭に馴染み、それこそ一輪の花のように、勇太郎と保子の日常に彩りを与えたのだ。

 高鳴る気持ちが恋であったかどうかは、勇太郎にはよく分からなかった。それでもミオリの、水色の浴衣姿を見た勇太郎は、これまでに抱いたことの無い、むずむずするような感情を覚えていた。女子と二人きりで花火大会に行くということで、変に緊張していたということもあったのかもしれない。


 出店の数は決して多い訳ではなかったが、それでもミオリは目を輝かせていた。それを横で見ていた勇太郎は、幸せだった。打ち上がった花火も、二人のためのもののように思えていた。花火大会が終わると、帰りの道は見物客でごった返す。


「あのさ、ミオリ」

「なに?」

「その……捕まってて。はぐれないように」

 勇太郎は、ミオリに右手を差し出す。

「うん」

 少し照れくさそうに、ミオリは左手を勇太郎に握らせた。

 言葉は少なかった。しかし勇太郎は、ずっとこのまま手を繋いで、歩いていたいと思った。

 幸せって、これなのかな?


 しばらくして、ミオリはトイレに行きたいと言い出した。仕方がないので、人通りは少なかったが、公園の公衆トイレに二人は立ち寄った。自分もついでにトイレを済ませた勇太郎は、ミオリが出てくるのを待った。


 十分、二十分、三十分。ミオリは戻ってこない。

 先に帰った? そんなはずはない。いけないとは思ったが、女子トイレを覗く。しかし、誰もいない。勇太郎はそのまま二時間、三時間と待ったが、遂にミオリは来なかった。


 俺は夢を見てたのか?


 そう思えるほどに、浮ついた情緒が沈み込む。雨が降り出した。

「ミオリ……」

 頭が働かない。ただひたすらに嗚咽を漏らすことしかできない。スコールだけが、勇太郎の身体に染み込んでいった。

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