5-5

 ワタルは息を呑んだ。

 ディレイドがもう一人いる。

 ワタルは自分がしてきた生き方しか知らない。正解だったかどうかもわからない。

 単純に、興味が湧いた。 


「ということは、名取の毒蜘蛛に咬まれた十三人のうち、妊婦は二人いたのか?」

「ああ。君に求められた情報だけを提供しようと思っていたからさっきは言わなかったけど、そういうことになるね。当時名取が住んでいた場所は、産婦人科のすぐ近くだった」

「どこで知った?」

「塩見くんの追及で白山が勝手に吐いたらしい。私もカルテを見せてもらったが、確かに君のお母さんの他にもう一人妊婦がいた。名前は高杉たかすぎみき。お腹の子共々、今どこでどうしているかはわからない。ただ……それは由良も同じか。妙だね。せっかく君を釣り当てたというのに、生きているかどうかもわからないもう一人のディレイドを当てにするものか?逆に、もしその行方に見当がついているなら、自分で連れてくればいい話だ」

 確かに。そう聞くと、由良側の狙いがいまいち見えてこない。ワタルはカップの取っ手に触れるが、コーヒーはもう飲み干していたんだったと思い直す。


「君のほうに、何か心当たりがあるんじゃないか?」

「いや、それはないと思います」

 社会的に生きられない以上、ワタルが関わることのできる人間はほとんど悪い大人しかいなかった。もう一人のディレイドが自分と同時期に出生しているのなら見た目は同い年くらいということになるが、そういう付き合いは皆無と言っていい。

「一度は射程圏内に収めていたが、逃げられてしまった……そういう事情が由良側にあるのではないでしょうか」

 山科は、感心したように唸った。

「なるほど。もう片っぽのディレイドが君のように不審な動きを嗅ぎ回る探偵とは限らない。逃げ隠れることに徹してしまえば、いくら素人とはいえ捜索するのが難しくなる。君のように、身分を消して生活を送ってきただろうからね」

「だからといって、俺が由良の力になれることはないんですけどね。連れてきてほしいならせめて名前くらい……」


 テーブルの下、ワタルの腿をバイブレーションがくすぐる。プリペイドスマホには野呂の番号しか登録していない。山科に断ってワタルが着信に応じると、やはり相手は野呂だった。


『今俺のところにな、この店にディレイドがいると聞いたとかいう記者から連絡が来たんだ。とりあえずは誤魔化したが、気をつけろ』

 この首を締めるために真綿が集められていくかのような、狡猾な手回し。銀縁眼鏡の男が言及していた記者のことだろう。

「そうか。それで、その記者は何て言ってたんだ?」

『ディレイドを探してると言ってたんだがな……女のディレイドだと言ってた』

「なに?」


 女だったか。自分とは似て非なる半生を送ってきたのかもしれない。母親の名は高杉幹穂ということなので、ワタルはもう一人のディレイドを便宜上高杉と呼ぶことに決めた。

 道はいつも、一つに絞られていく。

「記者の名前は?」

『ブロークンの飾磨と名乗ってた。聞いたこともないメディアだな』


 通話を終えたワタルは、何かを聞きたげな山科の視線に応えた。

「由良以外にもディレイドを探していた記者がいたようで、どうやら情報を持っていそうです。もう片方のディレイドは女性とのことでした。確認の必要はありますが」

 頭を揺らした山科は、目が冴えてきたのか鋭い眼光でワタルに目配せをしてきた。

「どうするつもりだい?」

 ワタルは、小首を傾げることしかできなかった。

「まだわかりません。俺はどうするべきなのか。ただまあ……由良の思い通りにはさせたくありませんね」


 山科が、自分のスマホを操作し始めた。

「ちょっと待ってくれな……これだ」

 山科がワタルに見せた画面には、ポップな装いではありつつも堅苦しさを感じる広告が映し出されていた。

「サラベス共和国独立一八○周年記念レセプション?」

「そうだ。私はこれに参加することになっている」

 日付は九月二十九日となっていた。ディレイドを引き渡すことになっているのと同じ日だ。

「私が由良のことを何故知っていたかというと、由良もここに出席するからだ」


 由良が姿を見せる……?

 私怨でしかないが、ワタルとしてはその顔を一度肉眼で拝んでおきたかった。

「もしかすると、私のほうから君をここに招待できるように手配できるかもしれない。まあ君に来る気があれば、だが」

「行ってみたいとは思いますが、俺はこんな見た目ですし、どういう立場で参加すればいいのか……」

「それも含めて調整するよ」

「ありがとうございます」

 ワタルは頭を下げた。

「せめてもの罪滅ぼしだよ。男たるもの、自分の道は自分で切り拓く……八十五年、そうやって生きてきたからね。君に道を与えられるのなら、私は心置きなく死ねる」

 

 胸ポケットから取り出したボールペンで紙ナプキンに番号を書いた山科は、それをコーヒー代と共にワタルに残して去っていった。

 日本という国で全うに生きることが出来なかった、それはあの人も同じだったな。

 丸まった山科の背中が視野から消えるまで、ワタルは見つめ続けた。


 ワタルはその電話番号を通じてショートメッセージを送信した。自身のプリペイドスマホの番号を山科に認識させるためだ。


〈有根航彌の番号です〉

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