5-2

 その朝、ブロークン編集部では編集長の飯野がひとり、束の間の静寂を楽しんでいた。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、ここ数日は、最後の力を振り絞るセミの叫びを安らかに讃えるような涼しい気候に与ることができている。そろそろ冷房もお役御免だろう。


 東京支部を構成しているのは飯野、新納、弥生の三名のみだ。それゆえ、冷房の設定温度は最初に出勤してきた人間の一存で決められる。飯野は汗っかきなこともあってこの時期は頑張って早くに出勤し二十四度に設定するのだが、そうなると弥生と新納は決まって寒がる。

 若者二人は「ここにいる限り熱中症とは無縁ですよ。ね、編集長」「夏風邪ひいたらごめんなさい」「逆に、鍋とか食べたくないですか?」などと口走ってくるが、知ったことではない。日本においては古来から「察する」「空気を読む」という行いが美徳とされてきた訳だが、本当に素晴らしいものだと思う。そんな下らない冷戦がぼちぼち終わりを迎えると思うと、飯野の心持ちは自然と穏やかになる。


「おっ、そうだ。クジちゃんは出てるかな……」

 飯野はテレビを点ける。爽やかな朝の彩りといえば……目当ては朝の情報番組に絶賛出演中の女子アナ・鯨岡みちるだ。大袈裟に着飾った数多の女子アナに比べれば多少地味な印象は拭えないが、純粋さを体現したかのような屈託の無い笑顔と、何事にも全力投球な姿勢が飯野の胸を打っていた。


 しかし、彼女のトレードマークは見られなかった。世間を騒がせる連続殺人も影響してか、笑顔を見せるどころではなかったようだ。

「まだ捕まんねえのか」

 なんだかよく分からないことになってきた。テレビでは報道されていないが、聞くところによれば名取は細江誠晃の議員秘書をやっていた時期があるということだ。一人目の被害者、太田との関連性は見えてこない。ただ、警察は連続殺人と断定している。殺害の方法が酷似していたか、現場や物証に無視できない共通点があったのか。いずれにせよ、メディアには公表していない情報がある……不謹慎にも、漂うミステリーの予感に飯野は胸を躍らせていた。


 しかし、遅れて出勤してきた弥生の表情は、飯野の胸中とは対照的なものだった。

「おはようございます」

「おう、おはよう。えっ、どうした? 大丈夫?」

「はい」

 いつも飄々としている飾磨弥生の面影は見当たらず、鯨岡みちる以上に顔色が悪い。「なんか今日は、部屋の温度がちょうどいいですね」くらいは言われるだろうと覚悟をしていた飯野は、拍子抜けした。


 デスクに着いた弥生は、しばらくニュース映像に視線を注ぐ。

「編集長、少しよろしいですか」

 まだまだ話は見えないが、いいニュースがある時の話の切り出し方ではないことは確かだ。腹を括る必要がある。飯野は生唾を飲み込んだ。

「うん、まあ、いいよ」


「私、幼馴染がディレイドかもしれないって話したじゃないですか」

「ああ、言ってたね。ミオリちゃんだっけ?」

「私以外にもミオリちゃんを知ってる子を見つけたんです。崎村勇太郎くんっていう、花屋の息子さんで」

「え、マジ?」

 飯野は九割九分、弥生の言い分を信じてはいなかった。確かに態度こそこれまでになく真剣だったが、話が非現実的過ぎた。思い違いだろうと踏んでいたが、もし崎村くんとやらが実在するなら……とんでもないスクープだ。


「五月から八月にかけて寝食を共にしてきたそうなので、私よりも遥かに記憶が鮮明なはずです」

「……」

「昨日も会ったんですけど、私が写真を見せたら涙を流してました」

「ああ、そう……」

 湧き上がる感情が何なのか、飯野には判別が難しかった。いまいち感情移入しきれていないが、得も言われぬ不安が意識の遠くにあるような気がする。


「それで、編集長。その崎村くんなんですが……高鳥不二中の生徒なんですよ」

「ああ、高鳥……え!?」

「連続殺人の最初の現場です。それもあってか、崎村くんはかなり憔悴してて。どうしたの?って聞いたんですけど、そしたら……中学校に死体が遺棄されてたのは、ミオリにこれ以上関わるなっていう自分への警告なんじゃないかって、崎村くんは言い出したんです」

 整合性はともかく、面白い話ではあった。思わぬことが結びつくものだな。


「どうして彼はそう思ったの?」

「夏休みが始まったばかりの頃に怪しい男が花を買いにきたことがあったらしいんです。その時花屋にいたミオリのことをえらく気にしていて、リンドウを一輪だけ買っていった、と。それで事件のあった日、家に帰ろうとした崎村くんが下駄箱を開けると、花の部分がもぎ取られて、茎だけになったリンドウが入れられていたんだそうです」

「ああ……」


 結果として、弥生はかなり崎村少年の領域に踏み込んだ。もしかしたら、少年は心を軽くしたのかもしれないし逆の場合も考えられるが、いずれにせよ弥生は少し良心の呵責を覚えたのだろうか。

 少なくとも、ミオリが良からぬ状況に身を置いている可能性が濃厚になってきたことが、弥生の精神力を減退させていることは想像できた。飯野は弥生に対し、無難に声をかけるに留まった。

「うーん、そうなんだ。酷いことをする奴がいるね。大体花をちぎるなんて……」


 そうだ。ちぎった花はどこにいったんだ?

 飯野が考えを巡らせると、やや突飛ではあるが、筋の通った仮説が組み立てられていく。

 

 飯野は机を叩いた。決して小さくない音に身の毛がよだった弥生が不快感を示す。

「ちょっと、なんですか」

「いや、天啓かと思ったんだけど……考え過ぎか」

 

 飯野に向けられた弥生のすげない視線は、新納の出社に際してすぐに方向を変えた。

「あ、おはよう」

「おはようございます、飾磨さん。編集長、なんか届いてましたよ。郵便受けに」

 新納が握っていたのは小さな茶封筒だった。受け取った飯野は目を細める。

「差出人が書いてないな」

「そうなんですよ」

 恐る恐る封筒を開封した飯野は、中に入っていた三つ折りのコピー用紙を開く。無機質な明朝体で印字された、簡素な文章だった。


【梅乃堀の外れにあるバー〈SLOW〉を営んでいる野呂という男が、ディレイドを匿っている可能性があります。是非取材してみてください】

 

 編集部にデタラメな目撃情報が寄せられることは度々ある。それらに対していちいち構うことはしていないのだが、タイミングがタイミングなだけに奇妙ではある。飯野は、弥生に文面を開示した。


「これって……」

 半ばひったくるようにして紙を受け取った弥生は、その三行に満たない文字列をしばらく凝視した後、荷物を手にオフィスから走り去ってしまった。

「ええっ、飾磨さん!?」


 状況が飲み込めない新納を尻目に飯野は、ディレイドの目撃情報を見せることが果たして正解だったのか、自らの咄嗟の判断を省みた。

 

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