5-3
昭和創生ホテルはいわゆる一流ホテルに名を連ねている訳ではないが、煉瓦造りの意匠という歴史を感じさせる佇まいで八王子の片隅に鎮座していた。
レストラン〈創樹〉はホテルの一階に剥き出しになっており、宿泊客でなくても利用できるようになっている。新調したプリペイド式のスマートフォンの仕様を頭に入れつつ、ワタルがロビーから様子を窺っていると、眠い目を擦る山科が三種のパンとコーヒーを携えて二人掛けの座席に腰を落ち着けた。
さり気なくレストランに入店したワタルは、コーヒーだけを持って山科の対面に位置取る。
「君か」とだけ言って、山科はすぐ喉を調整するように咳払いをした。この日初めて声を発したのだろう。
「この前は話が途中になったね。今日は午前中は時間があるから、君の聞きたいことにできる限りは答えよう」
「……今日はいいんですか?レコーダー」
「いいよ、いいよ」
山科は朗らかに微笑んだ。
「聞きたいこと、山ほどありますが……僕が知りたいのは、四人の人物についてです」
目が覚めたように、山科は瞼を上下に開いた。虹彩が全貌を露出させている。
「四人か……ハハッ、これは長くなりそうだね」
「ご容赦ください」
時間はそこまで経っていないが、山科はコーヒーを飲み干してしまった。
「悪いが、入れてきてくれないか」
快諾したワタルがコーヒーのお代わりを調達し、差し出すと、山科は合図のように首を縦に振った。
「まず、ムサシバイオロジクスの社長、古郡武蔵についてです。ご存知ですか?」
「ああ、知っているよ。でもその前に、君が何故ディレイドとなったか。それに関する私の仮説をお話しする必要があるだろうね」
やっぱりか。
ワタルにとっては、余計な動揺によってこれ以上感情を掻き乱されたくないというのが本音だった。そのため山科が自分から話を持ちかけてこない限り、触らないことにしていたのだ。
しかし、受け入れなければならないのだろう。
山科の口振りだと、それを大前提としてこれからの話が展開していくようだ。
ワタルは訳もなくコーヒーに口をつける。苦い。舌はまだ十五歳なのだろうか。熱い液体を身体に流れ込ませるものの、指先の震えは治まりそうにない。ワタルはそれを無意味に遊ばせることなく、角砂糖を融かす動きに急がせた。
「これはこの前も言ったけれど、塩見紀一郎という精神科の先生が半ば強引に私に話をしてきた。君の話をね。『知能は充分発達しているのに、身体の成長に周りの三倍ほど時間がかかっている子がいたんです。先生の見解をお聞かせください』そんなことを言われた。信じられなかったけど、事実なら大変だと思ってね」
この手の偉大な学者は、どんな難題に直面しても最初から諦めるようなことはしないのだろう。ワタルは山科の、優秀な求道者としての一端を垣間見た気がした。
「ただ、もちろんすぐに答えが出せるはずはないから、その後も度々彼とは連絡を取って、ああでもないこうでもないと言っていたんだ。そんな時、サラベスの高山帯に生息するイグアナが五十一年生き永らえたという事例に行き当たった。イグアナは普通そんなに長生きはしない。もって二十年とか二十五年なんだよね。こりゃどういうことかなと思って調べたら、そいつが卵として生まれる前、母親が毒蜘蛛に噛まれたことが判明したんだ」
「毒蜘蛛?」
やはり、蜘蛛は鍵を握っているようだ。しかしワタルは、特に蜘蛛に関する思い出を持ち合わせてはいなかった。
文脈から察するに、母親の身に何かがあったのだろうか?
「ああ。その上で、ソルアマゾネスを体内に取り込んでいた。誤飲なのか何なのか、詳しい経緯はわからなかったがね。つまり、これと同じことが人間で起こったのではないか?僕はそう仮説を立てた」
「そんなことが……」
「結論から言えば、かなり有力だよ」
「ちょっと待ってください、母が蜘蛛に咬まれたことがあるなんて知らないですよ」
山科は腕を組んだ。
「それはそうだろうね。本人も知らなかったんだから」
「え?」
仮に咬まれたことに気づかなかったとしても、その後治療なり受けるだろう。現に、母は無事に俺を産んで育てたのだから。
ワタルは名取の部屋に羅列された蜘蛛のケージを思い返した。
名取は、細江誠晃の……
「まさか」
「一九七○年、今からおよそ五十年前だね。細江誠晃の甥で大学生だった名取均は、趣味で蜘蛛を飼っていたんだよ。その中には猛毒を持ったものもいて、名取は誤ってそいつを逃がしてしまった。で、その蜘蛛が、十三人の一般市民を咬んでいったという訳だ。そして、問題なのはこの先だよ」
「細江誠晃がその事件をなかったことにしたんだな」
山科は肯定する代わりに、コーヒーを口に注いだ。
「蜘蛛に咬まれた十三人は、やがて同じ病院に担ぎ込まれた。北教大学病院という所だ。それは何故か。私がサラベスで開発した解毒剤はそこに流されていたからなんだ」
「講演で言ってましたね。せっかく作った解毒剤が売られたとかなんとか」
「ああ。名取が逃がしたのはマンシャスドクシボグモという毒蜘蛛で、恐ろしいのは、咬まれる瞬間にはそこまで痛みを伴わない点だ。蚊と変わらない。しかし段々と痛くなってきて、胸や頭がズキズキと痛み始め、やがて身体が痙攣を起こす。ひどければ高熱にうなされて失神したりする。そうやって苦しんだ十三人の被害者のうちの一人が、当時妊婦だった君の母親・光代さんだよ」
「母親か」
怒涛のように流れ込んでくる情報に、ワタルは一旦疑いを抱くことを忘却し、身を委ねていく。
「マンシャスドクシボグモはサラベスにも生息している。だから私の解毒剤が効くと思ったんだろう。十三人は漏れなくそれを使って治療を受けた。治療したのは、細江の息がかかった
「異常?」
「私は解毒剤にソルアマゾネスを加えていた。専門的な話をすれば、γ-グロブリンという蛋白質を活性化させるためにね。だけどこれは生ものみたいなもので、効果を持たせたまま長期保存をするには、冷凍保存する必要がある。というか、しないとまずい。ソルアマゾネスがこう……変異してしまうからね。恐らく北教大学はそれを怠ったってことになる。ただ、十三人はそれでも問題なく症状が完治した。白山に適当な診断をさせて、報道にも規制をかけた。名取が毒蜘蛛を逃がした件は公にならずに済んだって訳さ。細江も胸を撫で下ろしたことだろう。しかし、母親のお腹の中にいた君には影響が残っていたんだ。ソルアマゾネスが母体の自己免疫疾患を引き起こして、胎児の下垂体に影響を及ぼす。そうなると下垂体の機能不全で、身体の成長が遅らせられるという……そう考えれば、君の今の状態を説明できる。もはや、それ以外にないだろう」
ワタルは口元に手を当て、すぐに離す。どこに視線を持っていけばいいのか、迷いが生じていた。
「なんだよ、それ」
人生が狂った原因が、五十年生きてきてやっと、突如として明かされた。
画期的な出来事のはずだ。
しかしワタルの感情は、恐ろしいほどに動かなかった。自分で自分に拍子抜けするほどに。
正解がわかっても、今はどうしようもない。
「ディレイドの件は、私にも責任があるってことだ。本当に、何と言っていいか……申し訳ない」
「いや、謝られても……もういいんですよ、時が戻る訳でもないですから」
怒りの矛先を向けるとすれば名取や細江なのだろうが、既に死なれている。ワタルの心境は虚無に近かった。
「山科さんは、どうやってそのことを突き止めたんです?」
「私がソルアマゾネスの仮説を説明した時、塩見先生が、君の母親が妊娠中に高熱を出したことがあるという事実を思い出したんだ。その時私もピンと来た。解毒剤が東京に売られていたことと関係があるんじゃないかってね。医師会のコネを通じて白山の存在を突き止めると、義憤に駆られた塩見くんが白山を追及したんだ。白山はディレイドの件は信じなかったそうだが、細江に従い蜘蛛のことを伏せて治療行為を行っていたことは認めた。まあ、そいつにも少しばかり悔悟の念があったんだろうな」
「だいぶ無茶をしますね」
「ああ、無茶だった。そのせいで……」
山科は、惜しげに瞳を閉じた。
「塩見くんは殺されたんだよ」
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