4-7

 全身に纏わりつく痛みが、ワタルの意識を回復させた。

 スパイスの香りはもう鼻腔に残存していない。視界が捉えたのはニラジではなく、コンクリートの壁。廃工場のように見える。

 ワタルはといえば、シャーリーのものより遥かに無機質で、ホームセンターにはまず売っていないであろう金属製の椅子に座らされ、四肢を括り付けられていた。


「目が覚めましたか、ワタルさん。いや、本名は有根航彌……だったかな」


 後方から、中高年の男が姿を現した。ニラジに銃を突き付けた三白眼の男とは違い、日本人に近い。ただ彫りは深く、ハーフだと言われても納得はいく。

「念のため山科を張っていたらまさかの大捕物ですよ。この機会を逃す訳にはいかないと思いましてね、多少強引な真似をしてしまいました」


 白が交ざった髪を後ろに流し、銀縁の眼鏡をかけている。身長は一八十センチ程だろうが、目線を低く設定されているワタルにとって、男はその数字以上に大きく感じられた。


「馴染みのカレー屋からの電話であれば、怪しむことなくパートナーが応答してくれる……あなたならそうするだろうと思っていました。あのカレー屋の店主……ニラジさんといったかな。店を畳んで国に帰るそうですよ」

 ワタルの懸念を察したかのように、男は告げた。

 ニラジは故郷に愛着を抱いていないどころか、嫌悪している。それが急に帰国することになるとは、作為的な何かが介入したとしかワタルには考えられなかった。

「金でも渡したのか?」

「いい線を突いていますが、違いますね。一度金を与えてやった人間はつけ上がるものです。ですから、そういう方法はあまり取らないほうがいいんですよ」

 男の口調は、ワタルにビジネス関係のセミナーを受講しているような感覚を抱かせた。


「なあ、殺さないのか?一度は俺を殺そうとしたじゃないか」

 男は不敵な笑みを浮かべ、待ってましたとばかりに頷く。

「確かに、あなたを殺そうと刺客を差し向けた勢力はいます。しかし、一緒にされるのは心外ですね。あれは素人集団だ」

「えっ?」


 ワタルは男に質問を投げかけたくなったが、逡巡した。俺はまだ生きている。考えなければならない。つまり、男の言葉を信じるなら二つの勢力がこの身を狙っていたということで、以前殺しに来た連中は今自分を拘束しているこの男とは関係がないということになるだろう。

 となると、この男の目的はなんだ?


「ワタルさん。あなたを殺そうとしたのは、ムサシバイオロジクスのふるごおり武蔵むさし社長です」

「ムサシ……」

 護摩所から聞いたばかりの固有名詞。モザイクが少しずつ晴れようとしているのだろうか?ワタルは純粋な興味にも似たのような感情を久しぶりに抱きながら、生唾を飲み込んだ。


「なぜ殺されようとしているのか、見当もつかないでしょうね。簡単に言いますと、その体質に問題があります」

「……ディレイドのことか」

「やはり、呼称は〈ディレイド〉でしたか。私もそう呼んでいました。あなたにとっては不本意なことでしょうがね」


 今更何を言われようが、ワタルにとっては問題ではない。生き方を選択したのは他ならぬ自分だ。


「まあそれはいいとして、まず、私があなたを知るに至った経緯についてお伝えしましょう。私は長い間、ある先生に師事していました。結構昔ですが、国を動かす職務を歴任していた方ですから、ワタルさんも聞いたことはあるかもしれませんね。先生は六年前に亡くなりました。晩年は第一線から身を引いていましたが、不祥事の一つも残さずに職務を全うなされた」

「そりゃあ、立派なことで」

「ええ、私もそう思っています」

「アンタ、政治家のパシリか?」

「どうでしょうね」

 だとすると、ワタルは何となく納得できた。目の前にいる男の胡散臭さは、一般市民に醸し出せる類いのものではない。


「先生は死の間際、私にメッセージを託したんです。『一つ、やり残したことがある』とね。それがワタルさん、あなたですよ」

 こうも身に覚えのない場所で自分が俎上に置かれているとは、ワタルには想像もつかなかった。

「なんでだよ」

「私も詳しくは聞いていませんが、あなたがその体質になってしまった原因の一端は、連続殺人事件の被害者でスロウというバーの常連、名取均さんにあるんです」

「名取?ちょっと待てよ」


 あまりにも淡々と語られていく文言に、ワタルは怯んだ。スロウのことは把握したばかりだろうか。知っていたならもっと早く襲撃に来ていてもよさそうなので、盗んだスマホから割り出したのだろう。

 そして、名取の名前まで出てきた。

 少なくともワタルは以前まで名取のことを、スロウの常連客の一人として、そして、今は殺人事件の被害者としてしか見ていなかったのだ。

 ディレイドを生んだ原因が名取にある?

 ワタルには全く覚えがない。


「どういう……」

「まあ落ち着いてください。さて、私の先生は失態を犯した名取さんを、敢えて秘書として手元に置いたのだそうです。名取さんを介してあなたを監視するために」

 監視?

 ワタルは、名取が野呂にマスカットサングリアを注文した時に浮かべていた切なげな表情を思い浮かべた。

 

 名取は、何を依頼しようとしていたのだろうか。


「先生は名取さんに、『有根航彌が不審な動きを見せたら報告しろ』という密命を課していたようです。名取さんはずっと経過を見守っていましたから、あなたがディレイドであるということを身をもって認識させられたことでしょう。背負っていた十字架が経年につれて段々と色濃くなっていくような、そんな感覚だったかもしれません。ただ、あなたのようなディレイドの存在が表沙汰になることは今に至るまでなかった。名取さんから逐一報告を受けていたとはいえ、先生は心のどこかでずっと気になさっていたはずです。いつか誰かに足元を掬われるんじゃないか、と。だから私に、ワタルさん。あなたの存在を伝えてくださったのだと思います」


 言葉の意味はわかる。しかしワタルは、その本質をすんなりと理解する訳にはいかなかった。


「その遺志を継いだって訳か?」

「うーん……どちらかと言えば、裏切ってしまうことになるのかもしれません」

 歯切れの悪い物言いにただならぬ背景を予測したワタルは、体表に汗を滲ませた。

「私はあなたを痛めつけたい訳じゃありません」

「よく言うよ。この状況で」

「しかしこの後の対応次第では、傷ついてもらうことになるでしょうかね」

 男は丸椅子を提げてワタルに詰め寄り、面接でも始めるかのように正対し、着席した。


「あなたが寝ている間に、唾液を採取させて頂きました。この後解析に回します」

「は?」

「あなたはデータ化される訳です。貴重なサンプルになるでしょうね。これを古郡に示せば……あとは最後の仕上げだ」

「……名取殺したの、か?」

「お気付きになりましたか」

「どういうことなんだよ」


 ワタルの問いに答えるでもなく男は身を乗り出し、膝に肘を置いた。

「お喋りが過ぎたようですね」

「まあ古郡からすれば気は楽だろうな。ディレイドなんてあくまで人間の例外に過ぎない。無戸籍同然の裏社会の人間なら殺してもそこまで問題にはならない。フッ、そういうことか」

「ですが、古郡が使ったのは野良の多重債務者です。犯罪の経験が豊富な訳でもない。現に、あなたに迎撃されていますからね。勘弁してくれと言いたかったですよ。古郡のせいで、こちらもあなたに接触しづらくなった」


 ワタルは、汗に塗れた丸刈り頭を思い浮かべた。彼を尋問したのはついこの間。今度は自分が拘束されている。因果を感じずにはいられない。

「名取を殺したってことは、太田も殺したのか?誰だ、アンタか?」

「……、とだけ言っておきます」

 実行犯が誰かなど、ワタルにとってはどうでもいい。連続殺人に関わったということに関しては、イエスと捉えていいだろう。

「名取はともかく、太田はどうして……」

「ちょっとした脅しですよ」

 口調だけは粛々としているが、醜悪な野心が男の表情筋から微かに覗いている。


「さて、本題に入りましょう。ワタルさん。私は、ディレイドの件を公表しようと考えています。ついては、あなたに矢面に立って頂きたい。〈有根航彌〉として」

「……」


「今まで苦しかったでしょう。もう日陰で暮らす必要はないんです」

「存在が認められた時点で俺は豚箱だ。死刑すらあり得る。どこにも自由はねえよ」

「それはあなたの都合でしょう。まあ、隠すことは我々も得意ですから、どうにかなりますよ」

「お前らが俺の健全な生活を保証するメリットはなんだ?」

「……」

「それにな、世間が信じると思うか?俺が五十年生きていたことは、ある程度昔の俺を知る人間にしか証明できない。片手で足りるくらいだろうな」

 

 この男は、正気ではない。

 ワタルは思わず口角を上げる。それとは反比例するかのように、結膜は血走り、眉間が怒張した。


「嫌だと言ったらどうなる?」

「そうですね。取引をしましょうか」

「取引?」

「一つ、条件を提示しましょう。それを満たしてくださるのなら、私はあなたに二度と手出しをしない。約束します」

 ワタルは意思表示をしなかったが、男は首を縦に振り、大袈裟に息継ぎをした。


「ワタルさんはご存知ないかもしれませんが、今のあなたと同じ……いわゆるディレイドの状態にある人間がもう一人います」


 知性の発達に対して、身体の成長が通常の三倍ほど遅れる。

 つまり、異常。イレギュラー。


 ディレイドがもう一人存在したところで、ワタルに恩恵がある訳ではない。一億分の一が一億分の二になったところで、現状が報われることはない。


 しかし、孤独ではなくなるのかもしれない。


「ワタルさん。その人を見つけ出して私に引き渡してくれませんか。それが条件です」


 生贄という訳か。どこまでも小賢しい。 

 ワタルの目尻から滲み出た一粒の涙が、頬をくすぐった。


「手出しをしないと言われても、俺が古郡に狙われ続けるのは変わらない。条件を飲む理由がない」

「野呂丈雄さんの身に危険が及ぶとしても?」


 ワタルは痛感した。相手は一見下手に出てきているようで、こちらの意を汲むつもりは全くない。これは対話や交渉などではなく、脅迫だ。

 

 折れるほど強く歯を食いしばったワタルの口唇に、涙の筋が分け入る。塩辛さに思わず唾を吐き出した。せめてもの抵抗の意志を込めて。

「汚いですよ、。そうだ、どうやら真柴・高鳥近辺でディレイドを探し回ってる記者がいるみたいです。あなたの情報を垂れ込んでおきましたから、じきに接触があるでしょう。協力を得てはいかがでしょう」

 言葉とは裏腹に晴れやかな表情を見せた男は、どこに携帯していたのか、スタンガンを手にしていた。

 

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