4-6

 弥生が施設でミオリと出会ってから半年ほど経った頃、児童相談所の判断で、里子として、私と養育里親のてら夫妻とのマッチングが勧められていた。その後実際に二人と会う回数を重ねていくと、反対にミオリと過ごす時間は減っていった。どちらかが相手を避けたというわけではないが、或いは、それとなく漂う別れの予感に備えて、お互いに自然と免疫を付けようとしていたのかもしれない。


 そんな夏の日の夕暮れ、弥生はいつものように学校から施設に帰っているところだった。どういうわけか見知らぬ人に物を貰うことが多く、今でもタクシーの運転手から飴を貰ったり、レストランで隣の席のおじさんにワインを奢られたり、そんなことがよくあった。

 物をあげたくなる何かがあるのだろうか。その日も、どういうわけか農家のおばさんから麦わら帽子を貰って弥生はご機嫌だった。


 施設に戻ると、ミオリが改まってこちらに話しかけてきた。

「しーちゃん、ちょっといいかな?」

「何?」

「こっち来て」

 手招きされた弥生がミオリにそのまま付いていくと、人気のない雑木林に着いていた。

「ミオリン、どうしたの?」

 ミオリは、悲しそうな目をしていた。


「私ね、しーちゃんとずっと一緒にいられないの」

「え?」

「ごめんね」

 一番仲の良い、わかり合える友達から突然そんなことを言われたものだから、九歳の弥生はひどく混乱した。

「なんでそんなこと言うの?」

「……ごめん」

「ねえ、『ごめん』じゃわかんないよ」

「まっこちゃんはずっと私に優しくしてくれて、明るく話しかけてくれるから大好きだし、ずっと友達でいたい。だから私もまっこちゃんに喜ぶことをしてあげたいんだけど、私はみんなと同じように生きられないから……だから……」


 そう言うと、ミオリはその場に膝から崩れ、泣き出してしまった。涙の背景に何があるのか、弥生には一欠片の想像もつかなかったが、自然と目の前で大泣きする親友に寄り添っていた。

「大丈夫だよ、泣かなくても。私はね、ミオリンが私の話を聞いてくれるだけで嬉しいし、楽しいから。だから大丈夫だよ」

 ミオリは弥生の腕に抱えられても、しばらく泣き止まなかった。弥生はただ、ミオリの背中をさすったり、頭を撫でたりしていた。


 里親に引き取られることを、ぼちぼち言ったほうがいいとは思っていたが、弥生はそのタイミングを完全に逸してしまった。この時は、ミオリを元気づけることを優先しなければならなかったから。


 しばらくして、ようやくミオリは落ち着いた。まだ呼吸は荒いが、涙は出尽くしたようだ。

 その代わり、弥生の腕がびっしょりと濡れていた。そして、あれだけ泣いた後だというのにミオリは綺麗に見えた。弥生はこの時、初めて生身で人の感情とぶつかって、受け止めた。その瞬間だけは間違いなく、二人で一つだった。この子となら、どんな困難にも立ち向かえるのではないかという全能感さえあった。


 ずっと一緒にいられないと言われたのに、ずっと一緒にいたいと思ってしまった。


「泣き止んだ?」

「うん」

「ミオリン、私いいこと思いついたんだ」


 後日、弥生はばやしさんという指導員に頼んで写真を撮ってもらうことにした。

 小林さんは写真が趣味で、デジタルカメラを持ち歩いて「これ凄いのよ。なんといっても、七○○万画素ですから」としきりに自慢していた。当時としては高精細だったのだろう。


「ミオリちゃんの写真を撮ってほしい?」

「はい。小林さん、カメラ得意なんでしょう?」

「それは全然いいけど、ミオリちゃんってあんまり写りたがらないのよ。相手にしてくれるかどうか……」

「大丈夫です。ミオリンには言っといたから」

「そうなんだ」

 弥生に促されて花壇のある庭まで軽い気持ちでやってきた小林は、目を疑ったようだった。


 おしゃれ好きの年長勢が集まってミオリをサポートしている。髪をセットする子がいれば、カットした模造紙をレフ板に見立ててミオリに光を当てる役割の子までいるという有様だ。当のミオリは、緊張からか表情が堅い。

「えっ……こんな本格的なの?」

「あっ、来た来た。小林さーん!」

 弥生とミオリより三つ年上の中原なかはらあゆが小林に駆け寄る。

「ミオリちゃん、可愛いでしょ。バッチリ準備したんで、あとはお願いします」

「はあ……」


 小林指導員は急に自信をなくしたようだったが、それでもカメラを構えてミオリの撮影に取りかかった。

 ミオリは白いシャツの上に、青を基調としたキャミソールワンピースを合わせている。

「ミオリちゃん、美人さんだねえ」

 被写体がいいと撮る側も楽しくなってくるもので、小林もシャッターを押すごとに創造性を掻き立てられていく。そうして、より良いものが撮りたくなるのがカメラマンの性らしい。弥生はその様子を見て、なんだか誇らしくなった。

「私だけこんなに撮られても……ねえ、みんなも写ろうよ」

「そうだね。いいですか? 小林さん」

「もちろん」

 小林指導員が、子どもたちがあそこまで楽しそうにしているのを見るのは久しぶりだっただろう。

 親代わりたる自分たち指導員の立ち振る舞いが、良くも悪くも子どもたちに影響を残す。それでいて、どれだけ目をかけようが、それは本物の愛情ではないのではないかと危惧してもおかしくはない。

 子供たちが施設を出てからの道筋が決して明るいとは限らないことを知っていても、一介の指導員にできることには限界があるのだろうと、十六年経って改めて、弥生は感じていた。


「そうだ、いい場所があるんだよ。ヒマワリがいっぱい咲いてるの」

「そうなんですか? じゃあミオリン、そこでも撮ろう」

「う、うん……」

 移動しようとした時、弥生は思いついたように叫んだ。

「あっ、ちょっと待って!」


 慌てて建物に駆け戻った弥生は、麦わら帽子を持参して元の場所に戻った。

「これ、昨日もらったんだ」

「ちょっと弥生ちゃん、また知らない人に物貰ったの? 怪しい人もいるんだから、気をつけないと」

「でも、くれたから……なんでくれたんだろう?」

「帽子が似合うからじゃない?」

「そうかな? でも、多分ミオリンのほうが似合うよ」

「えっ!?」

 隙あり、とばかりに弥生はミオリの頭に帽子を乗せた。

「ちょっと……」

 瞬間、その場にいた全員が、思わずミオリに釘付けになった。

「なんですか。早く行きましょうよ。ヒマワリ畑」

「あっ、そうだね。ほら、みんな行くよ」

 小林指導員が子供たちを促した。


 後日、プリントされた写真が撮影に関わった子供たちに配られた。半数以上がミオリの写真で、カメラマンが力を入れて撮っているのが素人目にもよくわかる。


「ねえ、どうして写真を撮ろうと思ったの? まっこちゃんが提案したって聞いたけど……」

 弥生はミオリに尋ねられた。本当は、答えに見当は付いていたのかもしれない。


「だってミオリン、あんなこと言うから……」

「あんなこと?」

「ずっと一緒にはいられないって」

 ミオリは口角を上げたが、少し目を伏せた。

「ごめん、なんか変なこと言っちゃったね。あの時は」

「でも、写真ならずっと残るでしょ? 写真を撮れば、ずっと一緒にいられるかなって」

「ありがとう」


 弥生は、「かわいそう」と言われるのには慣れていた。しかし、このたった一回の「ありがとう」によって、今まで言われてきた数多の「かわいそう」は、全部吹き飛んでいった気がした。

「しーちゃん。離れることがあっても、ずっと友達だからね」

「うん!」


 次の日の朝、眠い目をこする弥生のもとに、血相を変えたあゆが駆け寄ってきた。

「マユちゃん、大変だよ! ミオリちゃんがいないの!」



「写真が配られた日を最後に、ミオリは忽然と姿を消してしまった」

「……それ以降は、ずっと会ってなかったんですか?」

「うん。でも、一ヶ月くらい前になるのかな。竹乃堀のあの公園でミオリを見かけた。目を疑うってあのことだね。私はもう二十五だけど、あの子はまだ紛れもなく少女だった」

「僕が初めて彼女を見た時、同い年くらいかなと思いました」

「君、今いくつなの?」

「一五です」


 一六年で身体が五、六歳分しか成長していないと考えると、彼女の本当の年齢は、単純計算で四十五歳くらいということになる。勇太郎もそれを察したのだろう。


「飾磨さんは、ミオリちゃんとほぼ同い年"だった"んですよね?」

「そうだね、一六年前は」

「ミオリちゃんの言ってたこと、信じてなかったわけじゃないけど、本当にそうだったんだなって」

「……言ってた?」

「僕は彼女の口から聞いたんです。心は成長するのに、体だけがなかなか成長しなくて、周りと同じように生きることができなかった。それで、色んなところを転々としてたって」

「そう、なんだ」


 弥生は今まで、状況証拠を並べてミオリがディレイドだと見当をつけていたが、九九パーセント答えに近づいていたとしても、それはあくまで推測だった。

 しかし、この勇太郎という少年はミオリ本人から説明されている。ディレイドだという事実を。

 都市伝説は実在したといえるのだろう。そして今、そんなことはどうでもいい。


 この少年・崎村勇太郎は、私の知らないミオリのことをもっと知っているかもしれない。

 弥生は、嫉妬にも似た高揚感を覚える。


 それにしても、元気がない。

 崎村少年は、このままだと駅のホームから身を投げてしまうのではないかと思わせるような儚さすら帯びている。目を見ても、どこか焦点が定まっていない。

「……この際だからさ、なんでも相談してよ。そのほうが楽になることもあると思うから」

 思わず、ミオリはそう言っていた。


 勇太郎はチラリと弥生を一瞥すると、僅かに腫れた目よりも、か細く口を開いた。


「あの学校で事件があったのは、知ってますよね」

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