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「千葉県の医師会が特別講義をやるっていうんで、私はそこに呼ばれた。で、まあ今日みたいなことをチョチョッと。そしたら『聞きたいことがある』って言って、私より何個か年下の、精神科の先生が話しかけてきたのさ。それが塩見紀一郎」

「それは具体的にはいつだ」

「えー、一九八七年の、年明けだったかな?」

 ワタルが塩見と別れてから、五年以上も後のことだ。山科は続けた。


「『忘れられない患者が一人いる。先生の見解をお聞きしたい』みたいなことを言ってきた。私は精神医学は専門外だと言ったんだけど、『そうじゃない』と」

 その先に続く言葉は、ワタルには予測がついた。


「『その子は初めて会った時には十歳だった。でも、どう見ても幼稚園児ぐらいの体つきだったんだ』って。何を言い出すんだと思ったよ。身体の発達がそんなに遅れることなんて普通はありえない。でも塩見先生は真剣だったからね。一応話を聞くだけ聞いたんだ。彼は喜んでたよ。『誰も相手にしてくれなかったのに』ってね」


 誰も相手にしてくれない。

 今の容貌の自分が「五十年前に生まれた」と言って、誰が信じるだろう。そういう意味では、塩見や山科、そして野呂は本当に奇特な存在だ。ワタルは改めて畏敬の念を覚えずにはいられなかった。


「君が、その子か?……ありこうくんか?」


 野呂の習慣が貼り付いたかのように、ワタルの顔はぴくりとも動かない。しかし、明らかに体温は上がっていく。

 航彌。ワタルが母親から与えられた書類上の名に間違いなかった。


「ええ」

 淀みなくワタルが応じる。


「俺はこの前、殺されそうになりました」

「え?」

「名取が殺されたことと無関係ではないはずです」

 ワタルがそう言うと、山科は思案に暮れたようだった。

「あなたは名取のことも知ってるんですか?」

 山科は口を固く結んでいる。そのぶん、開いた時のリップノイズは部屋中に響いた。


「悪いことは言わない。あまり探らないほうがいい」

 穏やかではない反応だった。


「黙って殺されろと?」

「そういう訳じゃない。ただ、君には……」

 山科は目を泳がせた。

「君が今更知ったところで、どうにもならないんだよ」

「そんなのはこっちが決める。それに、社会から逸脱してる俺だからこそできることもあるんです」


 肩を強張らせながらも首肯した山科は、ポケットティッシュをワタルに手渡す。そこには〈昭和創生ホテル〉と印字されていた。


「まだ一週間は日本にいる。朝食はそこのレストランでとっているよ。この後私は予定があってね。すまないけど、今日のところは」

 異論は受け付けないとばかりに、山科は付き人を控室に呼び戻した。

 

 会館を出たワタルは、率直に言えば心境を整理しきれないでいた。

 殺されかけた後、スロウの常連・名取が殺され、名取が残した手掛かりを辿った先でまた狙われる。

 

 何かに導かれたような心地もワタルを動揺させるには充分だったが、それだけでなく山科が塩見医師の名を知っていることが、ただならぬ必然性を感じさせ、目眩を引き起こす。


 山科とは何者なのか。

 名取とは何者だったのか。

 晴れない霧が重なり、ワタルの視界をろんに揺らす。

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