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以前とは異なり、シャーリーにはまばらながら客入りがあるこの様子だと、店で暴力沙汰があったことは知られていないようだ。片隅でひとり座るワタルは、それはそれでどうなんだと思った。
「おっ、野呂サンか。ワタル来てるヨ」
「変わりないか、ニラジ?」
「ベツに」
入店した野呂の小脇には封筒が抱えられている。いい手土産だといいが。
ニラジがついでとばかりにワタルの席にサラダを置いた。
「ホラよ」
「客だぞ」
特に何かを言うことなくワタルの正面に着席した野呂は例によってバターチキンカレーを注文すると、封筒をテーブルに置いて切り出した。
「これ、翻訳してもらったぞ」
「恩に着るよ。オッサンはもう読んだのか?」
「まあな。お前も読んでみろ」
ワタルは封筒から中身を出す。サラベス共和国の日刊紙〈プラデーラ〉から二件の記事が抜粋されていた。
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○偉大な日本のドクター:ショウエイ・ヤマシナ
太平洋戦争に敗れてから、日本が国際社会に復帰するまでに数年かかった。戦時中から敗戦の時期にかけては我らがサラベス共和国に点在していた日系移民も総引き揚げを余儀なくされたが、敗戦から約十年後、日本政府は再びこの南米大陸を含む海外への移住を国民に向けて推進することになった。食糧難による国力の低下と、経済難が主な原因だ。それに伴い、サラベスにも大規模な日本人居住地区が設けられた。
後のドクター・ヤマシナがサラベスに移住してきたのはちょうどこの時だった。日本人居住地のうちの一つ〈デ・ラパス〉はしかし、お世辞にも生活環境が整っているとはいえず、日本人の移住者には一応土地が与えられるものの、開拓から何から、すべてを自分たちで賄う必要があった。もちろんそれが順調にいくはずはなく、弾圧や内部抗争にも発展。しかし何より彼らの心を締め付けたのは、自分たちは国に
そして、当然ながらそんな環境は疫病の温床である。開拓もままならず、原因不明の病に倒れていった移住者は後を絶たなかった。数々の医師が救助にあたったが、彼らを率いたのは当時二十歳だったショウエイ・ヤマシナだ。彼はいわゆる医師免許を取得した正式な医師ではなかったものの、医師である父親に知識と技術をインプットされており、的確な処置で数々の人命を救うことに成功した。
その後正式にサラベスでの医師免許を取得し、開拓者たちを影から支えた。立派な街に成長したデ・ラパスは現在、国内屈指の農地面積を有している。ドクター・ヤマシナは現在第一線を退いており、祖国日本での講演活動なども精力的に行っている。
彼はこう語っている。
「サラベスは私にとってもう一つの故郷だが、それは自ら勝ち取って手に入れたものだ。ただ、そんな私を作り出し、形取ったのが日本であることは言うまでもない。当時の日本が我々をどう見ていたのか、今では知ることはできないが、私の知識と経験が日本を少しでも豊かにする手助けになるのなら、私はそれを惜しみなく提供する」
(二〇〇四年 四月二十五日の記事)
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◯日本の新興会社がサラベスでのエネルギー開発事業に乗り出す
サン・ガレーロ高山帯の微細藻類を繁殖させるために、サラベス政府主導のもとさまざまな研究開発が進められているが、いずれも難航している。しかしそんな中、ちょうど地球の裏側から救いの手が差し伸べられそうだ。
現在、アメリカや中国のいくつかの企業がこの一大プロジェクトを支援している状況だが、ここに新たに参入するのが日本で四年前に立ち上げられた「ムサシバイオロジクス」で、サラベス政府との交渉は大詰めとなっているようだ。
今までの外国企業は、ほとんどがCSR(企業の社会的責任)活動の一環として藻類バイオマス事業に協力する体制を整え、大規模な投資を行ってきた。しかしこのムサシバイオロジクスは、異国の地サラベスでのエネルギー開発プロジェクトをメイン事業に据えているのだ。社運を賭けてサラベスに飛び込んできたことから、その熱意が窺える。
とはいえ、サラベス政府と折り合いが付かずに藻類バイオマス事業から撤退した企業が数多くあるのも事実だ。一部報道では、コルドバ大統領の無謀な要求によっていくつかの企業から見切りをつけられたとの見方が示されており、大統領の横暴な姿勢には批判が集まったばかり。
藻類バイオマスの有用性が取り沙汰されて以降、今までこれといった成果が見出せていないだけに、一部の国民は政府に対する疑問符を付けているようだ。「支持率回復のためにバイオマス事業を持ち出しているだけ」「高山帯を開発して自然を破壊し『結局、燃料は作れませんでした』となれば、ただでは済まされない」といった声が挙がっている。それだけに、ムサシバイオロジクスの参入で事態が好転するかどうか、注目が集まる。
(二○一五年 六月三日の記事)
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どう反応するのが適切なのか、ワタルは迷った。何せこの記事が直ちに名取と結びつく訳ではない。
「内容は大体わかったよ。でもどうして名取はこれを?」
「さあな」
野呂はコップに手をかけ、氷の溶け出した水を喉に流し込んだ。そんな些細な仕草がいちいち様になる。
「
「名前はね。ただ、こういう詳しい事情はあまり知らなかった。生きてるのか?」
「元気で生きてるよ。八十五歳だったかな……さすがに第一線は退いてるらしいが、いずれにしてもまずはここだな。名取との接点があるのかどうか」
ワタルの分のカレーセットが運ばれてくる。
「チョット、しまってしまって」
ニラジに命じられるまま、ワタルはリュックに書類を詰め込む。スパイスの香りが、記事の閲覧に集中していて忘れていた空腹感を呼び戻した。
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