3 disavowed

3-1

 体感温度が午後のように高い午前十一時頃、井口刑事と後輩の住吉は死体を前に汗を浮かべていた。井口にしてみれば、汗以外にも色々なものを吐き出したい気分である。中学校での殺人事件が未だ解決していないというのに、また別の殺人事件が起きるとは。ここのところ物騒すぎやしないか。今度は古いアパートで、若い男が首を絞められていた。考えたくなかったことを、臆面もなく住吉が口にする。

「連続殺人だったりして」

「やめてくれよ、縁起でもない」


 被害者はその家のトイレから廊下にかけて仰向けで倒れている状態で見つかった。目が飛び出しそうになっていて、なかなかグロテスクな光景だ。

「井口さん、中学校での事件も絞殺でしたよね」

「……ああ」

「似てません?索痕」

 認めざるを得なかった。初めて見た気がしない、細いロープで絞められたような痕跡。


 第一発見者は隣室の住人の女だった。住吉が当たりのいい物腰で事情を伺っていく。

「えっと……男の人の叫び声がしたので、どうしたのかなと思って来てみたら」

「この状態だったと?」

「はい、名取さんは倒れてました。けど、もう一人男の人がいて」


 現場を入念に調べていた井口が、女の言承けに思わず顔を向ける。住吉はといえば、驚きを一切隠さなかった。

「え?だ、誰です?」

「わかならいですけど、四十歳かそれより若いくらいの……あ、黒いコートを着てました」

「人相とかは?」

「さあ、すぐに逃げてしまったので……」


 会話を片耳に収めつつ、井口は居間へ進む。積み上がった蜘蛛のケージ。虫が苦手な訳ではないのだが、存外大勢の蜘蛛を前にした井口は本能的な居心地の悪さを覚えた。




 名取の屍を見つけた時にワタルが思いを巡らせたのは、何故この老人が殺されなければならなかったのかということよりも、現状にどう対処すべきかということだった。名取の首に索状痕らしきものが付いていたこと、良識のレールを逸れてまで野呂に何かしらの相談を持ちかけるつもりでいたことから、名取が自殺ではなく他殺であることは自明だ。


 その上で、気がかりな点、不審な点が多々ある。

 名取が野呂に依頼したいのがどのようなことだったのかは当然気になるところだが、殺害自体がその依頼内容に関係している可能性を考慮せざるを得ないことも、ワタルの頭を悩ませた。そしてワタルは、それらが無関係である可能性をかなり低く見積もっていた。これまで悠長にバー通いを楽しんでいた七十歳近い男が突然何者の凶刃にかかる要因は、日常生活を揺るがすイレギュラーな出来事から見出すのが道理だ。すなわち、スロウでマスカットサングリアを注文したことが名取を今際の際の向こう側に追い込んだとみていい。

 そうすると今度は、死体がトイレに押し込まれていたことにも理由があるように思えてならない。あれは一度ドアを開いて名取の身体を転がすと、元の姿勢に戻すのが困難になるように仕掛けられている。


 本来であれば義務こそないものの通報をするのが望ましいのだろう。しかし、殺人事件の捜査線上に姿を曝す訳には当然いかない。そもそも真柴の片隅のアーケードで警官二人を行動不能に陥らせた件で警察にマークされている可能性すらある。近隣住民を装って匿名で通報するという手もあるが、それにしても、直前に連絡を取っていた野呂が捜査線上に上がると思われるのでそれも望ましくない。


 どうしたものか。ワタルは一度名取の死体から目を逸らし、目のかすみを取り払うように視線を移して便器を睨んだ。

 トイレタンクの蓋の位置が少しずらされている。そのことに、ワタルは違和感を覚えるよりも先に気づいた。躊躇うことなく蓋を外して中を覗き込む。

 スマートフォンが水没している。名取のものだろうか。見たところ、確かに名取は携帯電話の類いを身につけてはいなかった。

 ワタルは水気を切り、慎重にスマホを回収してタンクの蓋を閉める。


 足音が部屋に近づいてきたのは、その時だった。


 一○三号室はアパートの端に位置する。ワタルは間隔の短い足音が止まることを祈ったがそんな気配はなく、明らかにこの部屋に向かってくる。死体もそのままに、ワタルは一か八か狭いクローゼットに身を隠し、その隙間から視野を確保した。トイレの様子は見えないが、正面の掃き出し窓と蜘蛛のケージの一部が目に入る。


 呼び出しチャイムが鳴った後、建物全体を揺らすほどのやかましいノックが響く。

「名取さん?」声からして三、四十代の男といったところか。いるはずのない家主を呼び出したあと、ゆっくりとドアが開けられる。

「留守か?」その呟きから二、三秒。


「うぉああっ!?」


 太く短い、ハスキーな悲鳴がクローゼットのワタルの耳腔をも襲った。恐らくこれまでの名取が発してきた生活音の音量レベルを優に越えているだろう。程なくして、隣人と思しき女が部屋に入ってきたようだった。


「ちょっと名取さん?何が……はあっ!」

「クソッ、なんだよ」


 誰に対してか、最も簡単な方法で悪態をついた男はけたたましくその場を走り去った。隣人はしばらく当惑していたようだが、なんとか一一○番通報に漕ぎつけたようだ。

 警察が来る前にアパートから出なければならないが、タイミングはあるだろうか。


「嫌だ……」

 そんなか細い声の後、足摺りの音が遠ざかる。誰であろうと死体など目にしないで済むならその方がいいに決まっている。よく考えれば、死体を跨がなければ踏み入ることのできない居間に誰も近づいてはこないだろう。

 なるべく音を立てないようにクローゼットから脱出したワタルは、隣人が玄関からこちらを見ていないことを確認し、靴に手をかける。

 隣人の女の、動悸にも似た呼吸音が近づく。玄関から出るのは危険か。

 来た道を戻り、蜘蛛に見守られながら、ワタルは掃き出し窓から部屋を後にした。

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