2-7
スロウの地下に存在する物置部屋は一見すると雑多ではあるが、棚に並べてある骨董品は地域・年代別に分かれているし、幾多の段ボールに積まれた本も野呂の自己ルールに基づいて整理されているという。ここで大地震に巻き込まれたら助からないだろうな、と思いながらワタル毎晩眠りにつく。そして朝、目を覚まし小窓から僅かに差す朝日が埃を照らし出すのを確認すると、人生がまだ続いていくことを認識する。この日も、ワタルのそんな一日の始まりに変わりは無かった。
ありきたりな設定だが、野呂にとってワタルは〈親を亡くした友人の子供〉ということになっている。厳密に言えば、親と決別しているという点は事実である。バーの常連客たちは時々店を手伝っているワタルのことを知っているし、そういった他者とのコミュニケーションの時間は貴重だ。
名前を隠した人間の生活は寂寞たるものだ。戸籍上では五十歳だが容赦が明らかに学生のワタルが契約の類を結ぼうとすれば齟齬や誤解が生じる。公的機関に世話になることのないワタルを辛うじて人間たらしめるのは、理解者と手渡しの現金くらいのものだった。
ワタルは裏稼業の報酬を野呂から現金で受け取って命を繋いでいるが、ひとたび見放されるようなことがあれば路頭に迷うことになる。その懸念は密かに、ワタルの頭を
ワタルの日課はジョギングである。日課となってからは呼吸のように行っているから、しないと精神状態の据わりが悪くなる。日頃荷物をリュックサックにまとめているのもこのためだ。
心肺機能は見た目通り少年のそれなので多少の無理が利く。これはワタルの身体の利点といえた。走っている時、運動をしている時は自分にのみ与えられた特権を享受できている実感があって、ワタルは少しだけ得意な顔を浮かべたくなる。
だからといって、走っている時に必ずしも後ろ向きな思考を止められる訳ではない。
他方、ワタルはもう無闇に外に出ないほうがいいと思っていた。中学校死体遺棄事件の犯人がのうのうと市井に潜んでいることで警察も気が立っているだろう。この前襲ってしまった警官にばったり遭遇でもしたらシャレにならない。
冷静になって振り返れば、あれはまずかった。逃げ切ることが最優先だったとはいえ、自分の首を絞めただけだ。
コンビニ、飲食店、銭湯、コインランドリーあたりを回っていくのが基本的な生活様式であるから、あまりスロウから離れさえしなければ生活圏を変えることは難しくない。件の二人の警官は真柴から高鳥方面へ帰るワタルの背後から声をかけてきた、という状況から考慮するに真柴署の人間である可能性が高い。そのため、真柴方面に足を踏み入れるのは危ない。もう真柴近くのコインランドリーや銭湯は使わないほうがいいだろう。
野呂にアポを取った名取がスロウを訪れるのは午前十時ということになっていた。あと二十五分程時間はあるが、ワタルは余裕を見てスロウに赴いた。
「おう、ワタルか」
開店はしていないにもかかわらず野呂は白シャツに黒のベストをかっちり着合わせていて、ワタルは体内時計の感覚を乱しそうになる。
「時々思うんだけど、オッサンってちゃんと寝てるのか?」
「そんなに寝ないよ。いくら寝たってどうせ眠くなるんだから」
そうは言うが、野呂が眠い目を擦る様子をワタルは見たことがない。
十時を回っても、名取は来なかった。
「駄目だ、出ないな」
野呂が連絡を試みたが繋がらない。
何の断りもなく依頼が取り下げられることは珍しくない。しかし、ワタルには再び動揺が走っていた。心臓が掻きむしられるようでいたたまれない。
「オッサン、とりあえず俺が迎えに行ってみるよ」
直情的な提案が、ワタルの口を衝いて出た。
*
野呂から聞いた住所が示す地点には、外壁の大半を
名取が住んでいるのは正面から見て右下の一○三号室。換気扇の前に小型の黒い自転車が置かれている以外は何もない。
アパートを一通り視野に収めたワタルは、一○三号室の呼び鈴を一度押し、数秒待ってもう一度押した。
もしかすると名取すれ違いでスロウに向かっているのかもしれない。反応のない時間の一刻一刻が過ぎるにつれ、そんな考えがよぎる。
視線をドアノブに下ろした。開けてはいけない気がするが、開けろと言われているような気もして、ワタルは一度ポケットに入れた手に汗を握った。
その次の瞬間にドアノブを握っていたのは紛れもなくワタルの手であり、脳による伝令に間違いはない。それでもワタルは、その手で握る対象がドアノブに移っていることに対して俄かに驚きを覚えていた。無意識だった訳ではない。そして鍵が閉まっていないドアを開く瞬間には、躊躇を要さなかった。
生活感は、ある。存外奥行きのある空間だが、掃除がされていないのか廊下は比較的埃っぽくなっていた。壁際にタッパーのようなものが積まれていたり、箱が置かれていたりする。
居間に進んだワタルの目を引いたのは、壁に沿って積み重なっている十数個のケージだった。ガラスの向こうでは蜘蛛が複数蠢いている。多種類存在していることはわかるが、ワタルが蜘蛛に対して抱いているのは、毛の生えているものが所謂タランチュラなのではないかという正しいのか間違っているのかわからない認識だ。脱出を防ぐためか、ケージには大げさな施錠がなされている。
留守なら引き返そうと思ったワタルは、一方で名取がスロウにいる可能性もないだろうと踏んでいた。もし名取がスロウに来た場合、野呂から連絡が来ることになっている。
しかし何よりの根拠は、まだ名取が留守にしていると決まった訳ではないことだった。
ワンルームの間取りに収められている人間が自分一人であるという感覚が、ワタルにはなかった。野呂に師事する前に殺しを専門的に請け負っていた時期もあるゆえの経験則だろうか。
この部屋において扉を隔てる空間はトイレと風呂だけだ。ワタルは息を呑んだ。
曇りガラスの浴室ドアを開けた向こうにあったのは、やや小ぶりの浴槽と洗剤類のみ。
まあ、思い過ごしかもしれない。
そう思ったワタルは続いてトイレのドアに手をかける。
重い。
木製の引き戸。重いはずがない。高ささえ与えれば、乳幼児でも開けられる。
数ミリの隙間。これ以上ドアを引くべきか。今ならまだ戻せる。
しかし俺は、半ばここに導かれたようなものだ。
ワタルの呼吸は早まらなかった。脈拍も変動はしなかった。ただ、筋肉だけが硬度を増し、身構えた。
扉を開く。何かが擦れ、冷たい音が床を響かせた。
目をかっ開いたまま瞬きをしない、何かを叫んでいるようなその口を閉じられない、表情と呼ぶには生易しい、絶望という存在そのもの。
そこに〈いた〉のは、人間の抜け殻だった。
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