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「ニラジ、注文」

 スロウのマスター・野呂がぶっきらぼうにニラジを呼びつける。


〈シャーリー〉は高鳥郊外・梅乃堀地区にある、蜘蛛の巣が張られた殺風景な地下レストラン街に居を構えるカレー店であり、本場(この場合の「本場」がどこを指すのかは不明)の味が楽しめると一部界隈で囁かれている。付け合わせにライスかナンを選択できるが、ライスを選ぶと露骨に残念がられる。店主のニラジがそのような客を選ぶ精神のもとで運営するため、繁盛していないどころか一日に数人しか足を運んでこない。現にいま、昼時だというのにワタルと野呂以外に客は来ていなかった。ちなみに、テレビモニターは常にクリケットの試合映像を映している。粗い画質、まばらな歓声、上手いのかどうかよくわからないプレーぶり。こんな映像、どこに何を繋げば見られるんだよ。ワタルはいつも不思議でならなかった。


「野呂サン、ナニ食べますか?」

 ニラジは、IQOSを咥えながら注文を取る。

「バターチキンとナンで」

「ワタルは? ナニ食う?」

「マトンマサラとナン」

「ソレしか食わねえな、オマエ」

「いいだろ別に」


 ニラジには絶対に敬語が使える素養が備わっているにもかかわらず、いつもタメ口でワタルに接する。どこの国の生まれなのかは不明だが、少しでも悪態をつこうものなら「サベツ、サベツ!コクサイ問題!」と喚き立ててくるのでたちが悪い。


「そういや、宮村は元気だったか? 昨日会ったんだろ」

「元気そうだったよ。シンガポールにいるらしい。いけ好かないよ、相変わらず」

「……よく分からないが、元気ならいいか」

 野呂は、無駄な情報をインプットする気分ではないらしかった。

「お前を尾けてたって奴のことは?」

「知らないって。でも、探してくれるらしい。見つかったら情報流して俺に差し向けてくれるってさ」

「おいおい、スロウに来ねえだろうな」

「それは大丈夫。言っといたよ」

「ならいい」

 野呂は目を伏せ、さも息をするようにタバコを咥えた。


「お二人、サラダね」

 トマトやサニーレタスが雑に盛られたところにオレンジ色のドレッシングがかかったサラダが、テーブルに二つ並ぶ。



 カレーとナンのセットが二人分、運ばれてくる。

スパイスの香りは、ワタルが浮かべていた忌々しいシンガポールのプールの風景を消し去り、代わりに空腹感を呼び込んだ。


「いただきます」

 ワタルも野呂も、何かを食べている時は基本的に喋らない。打ち合わせてそうなった訳ではないが、お互い、数少ない楽しみを享受する瞬間だからである。それを邪魔されるのを、特に野呂はかなり嫌う。


 にもかかわらず、途中で静寂は破られた。店のドアが見えるポジションに座っていた野呂が、良からぬ気配を察知して口を開いたのだ。

「ワタル、ありゃ多分この店の客じゃねえな。お前の客だ」


 錆びたドアチャイムが耳障りな金属音を立てたのは、次の瞬間だった。


「よう、グレーの目をしたガキが、この店にいるよな?」


 人相の悪い客達がカレーを食べに来た訳ではなさそうだとニラジが気づくのに、時間はかからなかった。

「知らないね。それより、何名様ダ?」

 飄々と答えるニラジの腹に、一発拳が入る。口から煙の残滓ざんしが溢れ出た。

 ニラジのうめき声を耳にしたワタルは顔を左に曲げ、視野の隅に三人の男を捉えた。


 無礼極まりない入店をしてきた男は顔だけ見れば精悍で、黒いシャツを纏っていた。よほど筋肉を見せたいのか、袖の無いスタイルのものだった。その両脇に、これもまた見るからに粗暴そうな仲間を二人連れている。

 一人は何やらジャラジャラと首から提げ、古着を身に重ねた丸刈りの男で、もう一人は頭の右側だけを刈り上げて残りの髪を左に流した、酔狂なアシンメトリーの男。


 刺客がもう来たか。わざわざ昼飯時を狙ってくるあたりあの整形モンスターは本当に性格が悪いと改めてワタルは理解した。どれだけ外面を繕っても、人間性にメスを入れる術は無いようだ。椅子に座って来客に背を向けたまま切り出す。


「やめろ。俺に用があるんだろ」

 ワタルが野呂に視線を注ぐ。その顔には明らかに「面倒くせえな」と書いてある。野呂はその表情のまま手招きしてニラジを呼び出し、耳打ちをする。その後ニラジは慌ててバックヤードへ去り、野呂はゴム手袋を嵌め始めた。


 にじり寄ってくる黒シャツの男に、ワタルは毅然と対応する。

「今食事中なんだ。後にしてくれるか」

「ふざけられちゃ困るよ。こっちは真剣なんだから」


 そう言うと、黒シャツはカレーセットごと机を蹴飛ばしてしまった。食べかけのナンだけが、ワタルの右手に虚しく残る。


「大人しくついてきてくれれば、悪いようにはしない」

 厳つい顔が近づいてくる。

「いいね、冷静な顔だ。歪ませたくなるよ」

 ワタルはナンを黒シャツの顔面にパサっと投げ当てた。

「あんたには無理だよ」

「フン。今謝ればケツの穴拡げるくらいで許してやるよ」


 次の瞬間には左手で男のボディを狙った。この腕は掴まれたが、即座に左足で男の脛に靴の角を思い切り当てつつ、椅子から立ち上がった。

 ワタルの靴はタップダンス用のシューズを野呂が加工したもので、靴底だけでなく中にも金属が仕込まれており、相応の威力がある(当然足音が鳴りやすいので、身を隠す必要がある時には履かない)。いくら体を鍛え上げていようと、脛を強襲すれば痛みを与えられる。


 よろける黒シャツの重心をずらそうと、すかさずみぞおちの辺りを突く。倒れはしなかったが、後退りをするのを見た丸刈りとアシンメトリーがすぐさま男の身体を支える。

「おう、行けよ!」

 太い声に促された二人がタイミングをずらしてワタルに飛びかかる。前衛の丸刈りはナイフを振りかざしてきたので、掌底に素早く靴先を当て、ナイフを手放させた。その後すぐ、ワタルは椅子を踏み台に飛び跳ね、もう一人、アシンメトリーの顎を膝で横から打ち、床のナイフを足で遠くに滑らせた。野呂がそのナイフを冷静に回収する。アシメ男はそのまま気を失った。

「オモチャだな」

 野呂の鑑定結果を気にも留めず、ワタルは、丸刈りがなんとか立ち上がろうとするところを、左に右に二発殴って追い討ちをかける。その横から黒シャツが右ストレートを浴びせてくるのを水平移動でよけたが、その際背を向けてしまった丸刈りに背中を蹴飛ばされ、前傾。


「ナイスだ、テツ」

 その隙を逃さず、黒シャツがワタルの下腹部にその大きな拳をねじ込んだ。ワタルは思いがけずよろける。しかし、その顔は歪むどころか、寧ろ口角が僅かに上がった。

「クソガキが」

 そう吐き捨てるのとほぼ同時に黒シャツの後頭部が鈍い音を鳴らし、瞬時にその場へ倒れ込む。傍らに立っていたのは、スキレットを握った野呂だ。片足で黒シャツの肢体をどける。もう片方の手には、曰く、玩具のナイフ。

 テツと呼ばれた丸刈り男が背後から再びワタルを攻撃しようとその腕を伸ばす。ワタルはそれを掴み、勢いを利用してそのまま床に叩きつけ、組み伏せた。


「クソ、離せ!」

 顔を上げ反抗的に喚く丸刈り男の眼前に、バーテンダーの鋭い刃が突き付けられた。

「ウチのに何の用だ、おハゲさん」

「誰がハゲだ、坊主だろ」


 丸刈りの男の背骨にスキレットの鉄槌が打たれる。聞くも恐ろしい衝撃音のとほぼ同時に痛々しい叫び声が上がり、男の呼吸が荒くなる。

「口答えするんじゃねえよ。コイツら取り纏めてるのはお前だな?」


 やはりそうか、とワタルは思った。リーダー面をしていた黒シャツは力と勢いに任せただけのチンピラで、立ち回りというものを解しているようには見えない。アシンメトリーは論外だ。その点丸刈りは、ナイフこそ使い慣れていなかったが、三人の中で最も有効に動き、黒シャツの導線をも誘導していた。力任せに暴れるだけが暴力ではないと分かっている。


「誰の指示で動いてる?」

「い、いや、俺たちは……誰とかっていうのは……」

 野呂に続けて、ワタルが丸刈りに質問する。

「敷島晴博って知ってるか?」

「は? 誰だよ」

「知らないならいい。昨日、真柴の路地裏で俺に絡んできたのもお前か?」

「……そうだよ」


 ここまで聞いて、ワタルには疑問が湧いた。この丸刈りの男は襲撃に失敗して、リベンジを果たそうとしていたというところだろう。だとすると当然、その目的は敷島晴博の卒業アルバムなどではないということになる。現にこの襲撃の最中、連中はワタルの荷物には目もくれなかった。言動から察するに、最初から向こうの目的はこの身だったのだろう。ワタルは唇を噛んだ。宮村の目論見通りだった。


「ややこしくなってきたな」

「どうするワタル。全部吐かせるか? このハゲも状況に慣れてきてる頃だろうしな」

 野呂は、スキレットをしばらく見つめた。

「ニラジ、カセットコンロあるか」

「おっ、あの料理の出番だナ?」

 ニラジは、今日の給食の献立が大好物だと知った小学生のような無邪気な笑顔を野呂に向けた。

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