1-6
渋谷という街は、透明人間に優しい。この蒸し暑い中人波を回遊するのに気が滅入るとはいえ、ワタルにとって、社会を構成する一員であるかのように世界に紛れられる時間というのは、贅沢な気休めだった。
ハチ公口前から「斜めに横断してくれ」と言わんばかりのスクランブル交差点をお望み通りに踏んでやったワタルは、そのまま代々木公園方面へと向かう。これだけの繁華街であっても、中心部を外れればさして目立たない土地や街路が出てくる。途中で右折して裏通りに入るとめっきり人通りは落ち着き、そのうち車両進入禁止の赤い標識に出くわした。これから会う男の副業の拠点は、その狭い道に面するビルの三階にさり気なく構えられている。もちろん看板などは出ていない。
一階・郵便ポスト横の集合キーボックスに暗証番号を打ち込み、鍵を回収して三階へ上がる。部屋に入るといつもならマッサージチェアで宮村がくつろいでいるのだが、いない。代わりに机の上のノートパソコンに電源が入っていて、花びらの浮かんだプールで両脇に外国人の女を携え、その肩に手を回した宮村の映像が映し出されている。
レイ美容クリニック院長・
『おっ、ワタルくん。来たんだね』
「来たんだね、じゃないよ。どういう状況なんだよ、それは」
『ごめんね。僕、いまシンガポールにいるんだ。でもワタルくんから話があるって言われたら、聞かない訳にはいかないからね。ま、テレワークってやつだよ』
「そうか」
ワタルは「ワーク」という言葉からはかけ離れた光景を見ている気がしたが、口にはしなかった。宮村は何がきっかけで機嫌が悪くなるかわからない爆弾のような男なので、余計な茶々は入れない方がいい。
『そういえば野呂さんから確かに受け取ったよ、敷島晴博の中学の卒業アルバム。助かったよ。あれはいいネタになる』
「そうなのか? ちょっと見たけど、敷島は整形なんかしてなさそうだぞ」
『いや、彼の顔が見たかったんじゃないよ。探してたのは別のもの』
「なんだよ」
『それはほら、企業秘密ってことで』
美容クリニックの創業者として一般知名度も高いこの男は相当後ろ暗いこともやっているらしく、あらゆる方面にその息がかかっていると聞く。裏稼業の詳細はワタルも野呂も知らないが、他人の卒業アルバムを欲しがるのは、どういう訳だろうか。まあ、あまり首を突っ込まないほうがいいだろう。
「あ、そうだ。ちょっと聞きたいことが……」
『しかし、今日の僕も美しいよね。そうは思わないかい?』
会う時は毎回、宮村はこの類いの発言をする。聞いた話では、自分の美しさに見惚れて鏡から目を離せなくなってしまうこともままあるらしい。別にいつ見ても同じだろ。ワタルは、自然とため息を漏らしていた。
「そうだな、そのサングラスもよく似合ってるよ」
『は?』
「え?」
しまった。
宮村は女の肩に回していた手を解き、サングラスを外す。
『あのさぁ、僕、本当はサングラスなんてかけたくないんだよ。今は陽射しが眩しいから仕方なくかけてるけど。この長く整った睫毛を、筋の通った瞼を、麗しく蠱惑的な瞳をさぁ、隠さなきゃいけないんだよ? それがどれだけ辛いことか! ハァ……もっと考えて物を言ってほしいね』
「……悪かったよ」
どうやら刺激してしまったようだ。世迷言を捲し立てる宮村の口唇は、俄かに震えているように見えた。
『いつまでも若くいられる君には分からないか。あのね、整形なんてやらずに済むならその方がいいんだよ。死ぬほどの痛みを伴うことだってあるんだ』
宮村は手で合図し、両脇の女をプールから追い出した。
『僕は君が羨ましいよ。長いこと、若い姿のままでいられるんだから』
「代わってほしいくらいだよ」
『ワタルくんは自分を低く見過ぎだよ。君には価値がある。何故気づかない? どれだけの人が可能な限り若く、美しくいたいと望むのか。僕はそれを知ってるし、ずっと見てきたんだよ。君は、知ろうとは思わないのかい? なぜそんな身体に……ディレイドになったのか』
「またそれか」
『君は奇跡なんだよ』
ワタルは、事務所の壁に掛けてあるトゥールーズ・ロートレックの複製画を睨む。
「……俺が立てるようになったのは、ある程度言葉を覚えた後だった。同じ年に生まれた子供が学校に通い始める頃、俺だけ明らかに身体が小さかった。母親は自分を責めたよ」
『……』
「これ以上言わせるなら、もう行くぞ」
宮村はわざとらしく咳払いをし、サングラスをかけ直した。
『何か話があるって言ってたかな?』
「ああ、この前のことだ。敷島晴博のマンションでアルバムを盗み出したあと、妙な連中につけ狙われた。まあ、なんとかかわしたけど……何か知らないか? 他人の卒アル盗む人間なんて宮村さんくらいだろ。ちょっと気になってさ。あんたのことだから、敵も大勢作ってるんだろうし」
『いや、〈盗む人〉じゃなくて〈盗ませてる人〉だから。全然意味合いが違うよ』
ワタルが返答を放棄したことを察し、宮村は続ける。
『でも、誰なんだろうね。僕の敵っていうと……ちょっと心当たりがありすぎるな』
「敷島の仲間ってことは?」
『何言ってるの。あの淫乱ミュージシャンの卒アル欲しがる人間なんて、僕か痛いファンくらいでしょ。大の男が三人で奪いに行くほどの価値はないよ。だからそもそも、僕の邪魔をしに来た訳とは考えにくいんじゃない?』
「まあ、そうか」
『となると、考えられる可能性は一つだね』
「それって……」
『君自身が、そいつらの標的』
ワタルはその可能性を視野に入れていない訳ではなかったが、そうであって欲しくはなかった。心当たりが無いのだ。宮村ほどではないにせよ、火種なら嫌と言うほど撒いてきているだろうから。
慎ましく、影を踏むように生きるしかなかった少年は、生きてさえいれば、じきに光を浴びることができる日が来ると信じていた。自分が本当に人間なのかどうかを疑いながら。
五十年、ワタルは、ただ生きていた。陽の当たらない仕事をこなす日々は今も変わっていない。誰かの意志で動くだけ。そんな日々でも、なけなしの尊厳を人様に侵されるのは御免だった。自分がこの世に生きた証などいらないが、生かしてくれている人達には報いたい。生にしがみつくのをやめるのは、孤独を自覚する時だ。
「宮村さん、俺は人間に見えるか?」
『まあ、獣には見えないよね』
「……」
『探してあげてもいいけど。君のストーカー』
「マジか。助かるよ、知るに越したことは無い」
相手が誰なのか。不安だけでなくワタルには興味もあった。何しろ、名指しで対決を挑まれるのは初めてのことである。
「分かりづらいかもしれないが、一応写真を撮った。後で送る」
『オーケー。見つかり次第ワタルくんの情報流して、そっちに向かわせるよ』
「は?」
『そのほうが面白いじゃん。それに、三人くらいどうってことないでしょ?』
ワタルは、宮村が変人であるというシンプルな事実を今一度思い起こした。とはいえ、宮村が本気を出せば政財界人を引っ張り出してくるのも朝飯前。謎が一つ明らかになるのは歓迎である。
「わかったよ。スロウには来させるなよ?」
『わかってるよ。君はともかく、野呂さんの顔に泥を塗るような真似する訳ないでしょ』
「ならいい」
ワタルは、壊す勢いでノートPCを畳んだ。叩きつけたという表現の方が正しいかもしれない。部屋を後にしたワタルは、むせ返るような渋谷の密度に、再び呑まれていった。
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