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例えば、教師という立場を利用して教え子を辱めるような輩が週に一、二回は日本のどこかしらに出没する。執拗に車間距離を詰めるのも、酒に酔って他人を攻撃するのも、いい歳をした大人だ。ただ、少々不謹慎な言い方をすれば、そういった考え無しの理性が飛んだ犯罪者に関しては、検挙の難易度自体は低い。
しかしより厄介なのは、計画的な犯罪者に他ならない。この間も交番の警官が二人、それも少年に暴行されたそうだが、未だに捕まえられていない。それだけでも大変なのに、もう一人、姿の見えない凶悪犯が野放しのままだ。
「井口さん、顔、顔!」
視線を、机の上のカツカレーから声のした方へ移す。
「ああ、お前か」
前の席に忙しなく座ったのは、部下の
「とんでもない顔してましたよ。ただでさえ怖いんだから気をつけないと。あ、ここ座ってよかったですか?」
「もう座ってんじゃねえかよ」
そう言い終わる前には、住吉は蕎麦をすすり始めていた。
「で、何考えてたんですか」
「あ?」
「……やっぱり、例の事件のことですか?」
「だったら何だよ。まだ犯人は捕まってねえんだ。ヘラヘラしてるお前がおかしいんだよ」
この時、既に事件から十日ほど経っていたが、手がかりは無いに等しかった。
*
九月六日。
私立
冷房の効いた車から降りるなり、湿気が身体に纏わりつく。昼間、拷問のような熱線を放っていた太陽が情緒的な夕日に移ろいだとはいえ、まだ暑さは残っていた。
「あーあ、もう九月だってのに。ほら、摩天楼が見えてやがる」
特に返答もなく、蝉の声だけが頭上で矢印を飛ばす。それ自体はさして不自然なことではないが、漂う空気に井口の心はどこか引っ掛かりを覚えていた。
「……井口さん、もしかして蜃気楼のこと言ってます?」
ただでさえ暑いのに、そうニヤつく住吉を見て井口は余計に気分が悪くなる。揚げ足取りを生業とする男に隙を見せるのは、格好の給餌に他ならない。迂闊だった。
自省をしつつ、井口は正門から学園の敷地へ足を踏み入れる。現場となった高鳥不二学園は由緒正しい中高一貫の進学校だそうで、各界に有名人を多数輩出しているが、井口はその名を知らなかった。しかし、そんな立派なところで殺人か。正門から向かって南側(左側)が高校棟、北側(右側)が中学棟になっている。築年数はかなり経っているが、だからこそ醸し出される荘厳な佇まいが確かに名門といった感じで、井口は何となく敷居の高さを感じた。
事件が起きた現場は中学校の裏手にあるゴミ捨て場だという。学校の裏門と通じてはいるが、その門から見てもやや奥まっている。少し道に迷い、ようやく人だかりを見つける。こんなところだと、警備員が常駐している訳でもないだろうから、門が閉まっていても侵入は容易だ。被害者は大きな物置の中で座るように倒れていて、首には何か細いもので絞められた痕跡がある。
井口は、現場付近を洗っていた機動捜査隊員に説明を求めた。
「身元は?」
「
「なるほど」
改めて遺体に近づく。二十六歳。死に行くには早過ぎる。井口は手を合わせた。
乾いた液体がこびり付いたようになっている。恐らく漂白剤でコーティングされているのだろう。これをやられると、犯人の痕跡が検出されにくくなってしまう。
横から住吉が、苦虫を噛んだような顔で遺体を覗き込んでくる。
「やっぱり犯人、学校関係者ですかね?」
「その可能性は高いかと」
どこから現れたか、鑑識員の
「あれ、本木さん。いつの間に」
「まだいたのか」
「お疲れ様です。やられましたね。ご遺体、漂白剤をかけられてます。これは面倒ですね……」
本木は語気に不機嫌さを滲ませている。
「で、この場所ですが、学校の裏門から狭い道を通り部室棟と校舎の隙間を縫うようにして来なければ、この半地下のゴミ捨て場には辿り着けなません。初めてこの学校に来た人がこんな場所を選ぶとも思えませんね。機捜の方もそんな風に言ってましたよ」
その通りだと井口は思う。ただ、問題はそれだけではない。
「確かに目立たない場所ではあるが、学校のゴミ捨て場なんて誰かしらが然りに利用するだろうし、死体も早ければ翌日には見つかるよな」
「誰かに死体を見つけさせたかったとか?」
住吉はそう返したが、発言に胸を張ってはいなかった。
「だったらもっと分かりやすい場所に遺棄すればいいだろ」
こうなってくると、犯人の思考を推測すること自体あまり意味を成さないのかもしれない。もう少し情報が欲しいところだ。
「口を挟むようですが」
本木がバッグに手を突っ込み、何かを探す。
「もう散々挟んでるけどな」
「被害者のポケットに、これが」
彼女が取り出した証拠品袋には、小さくて青いものが入っていた。顔を近づけ、凝視してみる。
「何だこれ?」
一枚の青い花弁が、妖しげに存在感を放っていた。
「おそらくリンドウですが、一枚だけ綺麗に入っているのが気になりましてね。この辺りではあまり見かけませんし」
「うーん……」
井口の関心はリンドウの花弁には向かず、言葉に詰まる。
「っていうか本木、もう他の鑑識員帰ったんじゃないか? 誰もいないぞ」
本木はそう言われると辺りを一通り見回し、
「知ってましたよ」
とだけ言い残し、そそくさと現場から去っていった。
「で、第一発見者は……」
探すと、少し離れたところで、既に住吉が第一発見者と思しき人物に寄り添っていた。
「どいつもこいつも自由だな」
小走りで駆け寄った先に、住吉になだめられる女子生徒がいた。当然ながら、かなり憔悴しているようだ。住吉だけでなく、女性刑事も付き添っている。
「ああ、井口さん。この子が、第一発見者の
言いかけて、住吉は思い出したかのように耳打ちをしてきた。
「ただでさえ死体見つけて動揺してるんで、なるべく優しく、笑顔を意識して。くれぐれも啖呵切ったりしないでくださいね」
「切る訳ねえだろ」
「ああもう、そういう顔がダメなんですって!」
溜め息をつくと、井口は首を何度か縦に振った。
「分かったよ」
口角を上げ、目を可能な限り見開き、その状態を保ったままゆっくりと、井口は第一発見者に近づいていった。
「こんにちは、ハハッ」
「ひっ」
声に気づいて顔を上げた市ヶ谷恵実は、まるでこれから鞭でも打たれるかのような恐怖を体全体で
「ああ、ごめんね。疲れてるところ申し訳ない。あんな事があったんだから、怯えるのは当然だ」
「いえ……大丈夫です」
「それで、無理にとは言わないけど、話してもらえるかな? その……君が、遺体を見つけた時のこと。もう何回か、別の人に話してるかもしれないけど」
「はい」
市ヶ谷恵実は唇を噛み、それでも今度はしっかりと、井口と視線を合わせた。
「ジャンケンに負けたんで、私がゴミをあそこに捨てることになったんです。初めてだったんで場所もよく分からなくて」
「確かにあそこは分かりにくいだろうね」
「やっと見つけたと思って、ほっとして扉を開けたら……いたんです」
「なるほど、物置の扉は閉まってたんだ?」
「はい」
可哀想に。井口は思わず住吉と目を合わせた。
「知ってる人ではなかったんだね?」
「はい。あんまりじっくり見た訳じゃないですけど……私は知らない人だったんで、多分先生とかじゃないと思います」
犯人が決してスマートに動いている訳ではない分付け入る隙がありそうだが、被害者の太田和征が高鳥第二中と何の接点も持っていなかった事も影響して、痒い所に手が届かない状況となってしまっている。
*
「花びらとか見つかりましたけど、あれも結局関係無さそうですもんね」
いつの間にか住吉は蕎麦を平らげていた。
「こうなってくると、犯人が高鳥不二中の人間だっていう前提から考え直さないといけないかもしれませんね」
「いや、でもなぁ」
これだけ捜査が難航すると、署内がピリピリしているのが何となく伝わってくる。例えば強行犯係の
「無関係なんですかね?」
「何がだよ?」
「あっちの方もまだ捕まってないじゃないですか。ほら、真柴署のシマで交番の警官が二人殴られた」
「あれは中学校の事件の二日後だろ。同じ日に起こったなら見過ごせないが……」
「でも警官を襲ったのは、少年だったんですよね? それが高鳥不二中の生徒って事はありませんか?」
「まあ善良な人間が警官を殴りつける訳ねえけど、そこだけで判断するのは早いだろ」
思わず点を結びたくなる状況だが、引っかかる事はあった。
「警官を襲撃した奴は、ピッキング用の針金が見つかったから逃げようとして襲ったんだよな。つまりある程度そういう事には慣れてる可能性が高い。実際に警官二人をボコボコにしてるし、今まで逃げおおせてる。でも中学校の殺しのほうは、どうも雑だった」
「結局逃げおおせてるのは、殺しの容疑者も同じじゃないですか」
「まあ、そうなんだがな」
井口はなんだか考えるのも面倒になってきて、気づくと舌打ちをしていた。
「いずれにしても、早く捕まえねえとな。子供だかなんだか知らねえけど」
住吉はいつの間にか目の前にはおらず、返却口に食器を戻していた。
「え、井口さん何か言いましたー?」
今度は明確な意思によって、井口は舌打ちをした。
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