1-3

 ビルを後にした二人はそのまま、高鳥方面への帰路をなぞる。ワタルはトップスのみ、黒いボタンが付いた襟のある白シャツに着替えていた。仕事もひと段落したので大手を振って歩きたかったところだが、どうも視線を感じる。一人ではないだろう。二人、もしくは三人……?


「急で悪いんだけどさ。なんか、尾けられてないか?」

「ほんと?嫌だなぁ、もしかして僕の豊満なボディをいいように……」

「いや、俺だな。ゴマちゃんを狙うだけなら、さっきまでいくらでも隙があったんだから」

「ああ、そっか」


 ワタルは護摩所に一万円札を差し出す。

「タクシー代ってことかな?」

「ああ。ありがとう、今日はゴマちゃんのおかげで助かったよ」

「こちらこそだよ。楽しかったね。また何かあったら呼んでね」

 軽やかな足取りで高級風俗店の並ぶエリアへと向かう護摩所を、ワタルは見送った。もうそろそろ、高鳥に着くか。


 ワタルはわざと人気の無い道を進み始める。一等地といえど、資産価値の高い住居やビルしか建っていない訳ではない。むしろ一等地だからこそ、路地裏は汚いものなのかもしれない。昼間に大雨が降ったせいか、土砂と木の葉が地面に入り乱れる。いいね。こういう、狭くむさ苦しい場所は安心する。そしてワタルははっきりと、視線の正体を知覚した。


「さっきから何だ? コソコソしてねえで出てこいよ」

 前方に二人、後方から一人。帽子とマスクで顔を隠すという出で立ちは、ワタルにとっては答え合わせも同然だった。


「こんなもんか」

「え?」

 ワタルはボストンバッグからカメラを取り出し、目元だけでも気の抜けた表情をしていると分かる、正対する二人を撮影する。

「オイ、何してんだよ!」

 背後に控えていたもう一人の男が攻撃を試みるが、ワタルは肩にかけたバッグを手放すと同時に、背を向けたまま男の拳を避けて腕を掴み、背負い投げの要領で水溜りに叩きつける。他の二人と比べて体が大きいからか、いい音が鳴った。

「暴れるんじゃないよ」

 抑え込んだままその大男を撮影する。

「テメェ!」

 前の二人が勢いに任せてかかって来る。前衛はナイフを持っているが、刃がワタルを掠めるより先に、ワタルの靴底が相手の軸足を刈った。倒れ込んだ前衛からナイフを奪い取り、そのまま後衛に向けた。後衛は動きを止める。ワタルはそのまま残りの二人にもナイフを振りつつ、ボストンバッグを回収。

「こっちは仕事帰りなんだよ」

 刃は向けたまま徐々に三人と距離を置き、最後にナイフを投げて、ワタルはその場を走り去った。

 


 ワタルが追っ手を撒いたのは、時計の針が二本共に天辺を回ろうという頃合いだが、そんなことはつゆ知らず、辺り一帯、眠りの気配は無い。この飲み屋街を抜ければそこは高鳥だ。

 昼間の記録的な豪雨につられて地上に出てきたミミズが「こんなの聞いてないよ」とでも言いたげに惨めに干からびている。空には月が浮かんでいるが、誰も気に留めてはいないと見える。もっとも、月だって好きでこの地を照らしている訳ではないだろう。そんなことを考えながら、ワタルは賑わうアーケードを通り抜けて暗闇の中に戻ろうとしていた。ここはちょうど、ここを抜ければ、真柴ともお別れだ。


「ちょっといいかな?」

 ワタルは警官に話しかけられた。気づかなかった、すっかり油断してしまっていた。

「はい?」

「ああ、すいませんね。白いシャツだったから制服かと思って」

「いや……そんな若くありませんよ」


 もう一人、これまで金魚のフンだった眼鏡の警官が口を開く。

「それじゃまあ一応ですね、身分証明するもの何か見せてもらえますか。お手数ですけど」


 結論から言えば、その類の物は持っていなかった。ただ、ここで逃げ出したり動揺を見せたりすれば、怪しさに拍車をかける事は間違いない。ワタルにとっては、先程の三人組より警官の方が厄介だ。

「ちょっと今、持ってないんですよ」

「ああ、そうなんですね……」


 二人の警官は顔を合わせ、コソコソと何かを相談する。十数秒に渡るやりとりが決着すると、

「ちなみに、そのバッグって……?」

 一人が、ワタルが右肩に提げているボストンバッグに言及した。日帰りの旅行に使えそうな代物だったが、この中に入っているのはカメラや服なので、何も隠す必要はない。

「別に何も入ってませんよ」

 堂々と中身を見せた。やましい事は何もない。だが、審判員二人の表情は曇った。

「へえ、じゃあこれは何?」

 警官が指差したのは、タオルや脱いだ服に紛れた、どう見ても不自然な曲がり方をした針金だった。


 そこからは迅速な判断だった。

 バッグの持ち手側を抱え込み、盾のように構えてそのまま警官の一人に突撃し、弾き飛ばす。倒れ込んだ腹部をゴールキックの如く強く蹴り込む。彼が呼吸を取り戻そうとする間に、バッグをもう一人の警官目がけて振り上げ、その顔面にあてがう。コンクリートに落ちた二つのレンズはひび割れ、フレームから外された。


「この野郎!」

 眼鏡を失った警官の叫び声は、喧騒の中では取り立てて人の気を引かなかった。あとは人の波に飲まれれば、その眼からは逃れられるだろう。

「申し訳ない」

 走り去る時、そんな言葉がワタルの口を衝いて出たが、これは本心だった。針金を見せていなければ、こんなことにはならずに済んだのだ。


 どれほど走ったか、賑わいはいつの間にか無くなっていて、気づくと周りにあるのは人家ばかりだった。朝になれば、各々が普通の暮らしを営みはじめるのだろう。訳もなく、表札の一つ一つを見てまわった。〈山崎〉〈KIKUCHI〉〈倉田裕一・聡美〉〈川畑〉……幸せかどうか知らないが、少なくとも人間として違和感なく生きていけるだけの環境は整っている。比較に意味は無いが、孤独を拭い去ることができないのもまた事実である。死にたいという訳ではない。ただ、こういう生き方をしてまでこの世に縋り付いている意味はあるのか。ワタルは稀にそんなふうに考えることがある。

 

 前方から見覚えのある顔が現れた。

「おお、ワタルくんじゃない!今日は店にいなかったけど、休み?」

「まあ、そんなとこです」


〈Bar SLOW(バー・スロウ)〉の常連客、とりひとし。もう七○歳になるが所帯は持っておらず、細々とアルコールを啜る日々を送っているらしい。聞くところによれば、かつては議員秘書の職に従事していたという紳士然とした男だ。

「名取さんはスロウで飲んでたんですか?」

「そうだね。あそこは俺の第二の家だから。けど、あれだよ。もう遅いから、早く家に帰ったほうがいいよ。ワタルくんも」

「はい」

「それじゃ、野呂さんによろしくね」


 静かに酩酊する名取を見送り、ワタルは再び歩き出す。

 名取はスロウを第二の家と称したが、ワタルにとっては第一の家、唯一と言っていい居場所だ。常連客でさえ、その事実と理由を知る由もないだろう。



 住みたい街ランキングとは無縁の高鳥市は松乃堀、竹乃堀、梅乃堀の三つのエリアに分けられ、地価や治安の良さについては、概ねその地名が体を表している形だ。スロウは、最も貧相な梅乃堀に居を構えている。ワタルが裏口から店に入ると、ブルージーな雰囲気にマッチした紳士的な店主・野呂のろたけ屹立きつりつしているのが見えた。佇まいそのものが、店のインテリアの一部のようである。


「おお、ワタルか。遅かったな。手こずったか?」

「なんか色々あってさ。仕事自体は問題なく終わったんだけど、妙な三人組に付きまとわれたり、職質されたりして」


 バーカウンターの端、動いているのかいないのかどうにも判然としない古時計の真下に位置するいつもの席に座る。

「で、どうしたんだ?」

「三人組は写真だけ押さえて逃げてきたけど、警察のほうは……ピッキング用の針金見られたからまずいと思って、ちょっと」

「ぶったのか?」

「まあ、ちょっとね」

「おいおい」

「悪いことしたなぁ」


 笑うでもなく、怒るでもなく。その顔を鉄仮面にも例えられるその男は、そんな話を聞いてもただただグラスを磨いている。この人は、動揺した事があるのだろうか。ワタルは何度かそう思ったことがある。


「なあ、何でもいいから飲みたいんだ。今日は大変だった」

「『何でもいい』ときたか。いよいよだな。嗜むってことを知れよ」

「仕方ないだろ。外で酒はまだちょっと早い」

「あと何年かかるんだろうな」


 白が混じった、厚い眉毛の下から覗く瞳が、ようやくこちらを向いた。そんなことを言われても、答えに窮するに決まっている。

「知るか。ほら、何でもいいから嗜ませてくれよ」

「まあいいが、その前にモノ渡してくれ」

「ああ、そうか」

「そうかじゃないよ。順番ってものがある」


 オッサンに従い、敷島晴博の部屋からくすねてきた写真アルバムを手渡す。


「しかし不思議だよ。そんな物、リスク負ってまでどうして盗み出したいんだろうね?あの男は」

「金や命よりも、情報の方が大事だと思ってるからだろうな」

「へえ。具体的にはどういう?」

「お前が知る必要はないだろ」

「オッサンは知ってるのかよ?」

「さあ、どうだか」


 カウンターにカクテルが置かれる。なんというか女性に人気のありそうな、いかにも果実酒という感じだ。

「ご苦労だった」

「ジュースじゃないよね?」

「疑うのは結構だがよ。見た目にばかり囚われちゃいけないって、お前が一番よく知ってるだろ」

 言われた通り口に含んだそれは、なるほど思った以上に骨のある酒だった。

「……けどオッサン、これわざと濃くしてるだろ」

「文句言うなよ、酒なら何でもいいんだろ?」


 こうして、ワタルの長い夜が終わった。九月八日、未だ蒸し暑い晩夏だった。


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