第101話 枯れた世界

 その少女は、商人として成功を収めた男と、ジンクリット公族の遠縁にあたる娘との間に生まれた。

 人並み以上の富と、それを上回る父親と母親の愛を受けて育った少女の毎日は、幸せに満ちあふれていた。

 だがその幸せは、少女の年齢の桁が一つ増える少し前に、驚くほど唐突に、驚くほど呆気なく崩れ去ることとなる。


 その日少女は、母親とともに母方の実家を訪れ、昼を大きく過ぎた頃に、商品の仕入れがてら迎えに来た父親の馬車に乗って帰路についた。

 そこを野盗に狙われてしまったのだ。


 夕暮れ時の草原を駆けていたところ、無人の馬に横合いから突っ込まれ馬車が横転。続けて現れた三人組の野盗が、護衛兼御者として雇った男を真っ先に殺し、抵抗を試みた父親を、少女を護ろうとした母親を惨殺した。


「パパ! ママ!」


 もう二度動かなくなった両親に縋りつき、泣きじゃくる少女を、野盗たちは狩りでも楽しみような笑みを浮かべながら取り囲む。


「わりぃなぁ、お嬢ちゃん。俺たちの顔を見ちまった以上、生かしておくわけにはいかねぇんだわ」

「安心しなって、お嬢ちゃんなら親父さんとお袋さんと同じところに逝けるからよ」

「積荷の心配はしなくていいぜ。俺たちがしっかり有効活用してやるからよぉ」


 そう言って野盗の三人は、心底楽しげにゲラゲラと嗤う。人の財産を、命さえも奪うことが楽しくて仕方がない、ひどく下卑た嗤い声だった。


 散々嗤った後、野盗の一人がその手に持っていた長剣媒体ソードを両手で握り、少女の目の前で、これ見よがしに振りかぶる。


「いや……いやああああああああっ!! パパっ!! ママっ!!」


 怯えながら両親の亡骸にしがみつく少女に、長剣媒体ソードを振りかぶった野盗は満足げに笑みを深めた。


「こう見えて俺たちゃ慈悲深いからよぉ……苦しむことなく一発で殺してやるぜ、お嬢ちゃん!」


 そして、少女に向かって光刃を振り下ろ――



「子供の手前だからな」



 不意に、独り言じみた老爺の声が少女の耳朶に触れる。

 

「首を刎ねるのは勘弁してやろう」


 老爺が言葉をついだ瞬間、少女の目の前にいた野盗の三人が、糸の切れた操り人形マリオネットのようにその場にくずおれる。

 遅れて、野盗たちの胴をはすに横切るように血が滲み始める。

 目の前で起きた出来事が何一つ理解できなかった少女は、ただただ呆気にとられるばかりだった。


「もう大丈夫だ」


 そう言って、先よりも優しい声音で話しかけてきたのは、旅装と外套に身を包んだ、髪も髭も真っ白な老剣士だった。

 剣の軌跡はおろか長剣媒体ソードの光刃を具象した瞬間すら見せなかったこの老剣士が、野盗たちの胴を背中の皮一枚残して心臓ごとはすに斬り裂いたことを少女が知ったのは、それから随分あとのことだった。


 少女はしばし、呆気にとられたまま老剣士を見つめていたが、


「う……う……うぇえぇえええええぇええええええええぇぇえぇえええっ!!」


 両親を殺された悲しみと、九死に一生を得た安堵が一気に押し寄せ、再び――否、先以上に大きな声で、大粒の涙をこぼして、泣きじゃくった。

 老剣士は表情に哀切と憐憫を滲ませながら、少女を優しく抱き締めた。


 それが、少女の剣の師匠であり、両親を失った少女の親代わりとなってくれた恩人でもある、〝閃神せんじん〟ゼクウとの出会いだった。



 ◇ ◇ ◇



「……っ」


 地面に倒れていた、戦いの汚れが目立つ白色の騎士服に身を包む朱髪朱眼の騎士――テストは、ゆっくりと瞼を押し開く。

 今の今まで自分が気絶していたことを把握しつつも、ゆっくりと上体を起こし、


「久しぶりに、あの時の夢を見――……」


 眼に映る超常の景色に絶句した。


 闇色の空に拡がる幾億幾兆の輝きは、夜空に浮かぶ星々のように見えてその実、大河を思わせる大いなる流れに沿って蠢いていた。

 上体を起こした際に手をついた、青白い光を明滅させる大地の感触はまさしく石そのものだが、不思議なことに石ほどの硬さも冷たさも感じない。

 今まで培ってきた常識から大きくかけ離れた、夢と言われた方がまだ納得ができる世界を前に、さしものテストも我を忘れるほどに呆気にとられてしまう。


 それなりの時間を要して我に返ったテストは、いまだぼんやりとしている意識を冴えさせるために何度もかぶりを振り、軽く頬を張ってから立ち上がった。

 周囲に意識を張り巡らせるも、人の気配はおろか生き物の気配すら感じられない。

 今度は目で周囲を確認してみるも、この世界に飛ばされる前に同じ場にいたはずの、ヨハンも、クオンも、他の者たちも、仇であるグランデルの姿さえも見当たらなかった。


 ようやくグランデルと相対できたにもかかわらず、わけのわからない世界に飛ばされたことに歯噛みする。が、自分が全くグランデルに歯が立たなかった事実をモニア平原の決戦でクオンに言われた言葉とともに思い出し、今度は血が滲むほどに唇を噛み締めた。



『ただ、一つだけ忠告させてもらいますけど、グランデル老の命を狙っているのならやめておいた方がいいですよ。、間違いなく返り討ちにあいますからね』



 それが、クオンに言われた言葉だった。

 そして、その言葉に嘘偽りはなかった。


 ゼクウの仇を討つために練り上げた技は、何一つグランデルに通じなかった。

 全力以上で振るった剣は、赤子の手を捻るように苦もなくあしらわれた。

 冷静になった今だからこそ、否が応でも痛感させられてしまう。

 自分とグランデルの間にある、決定的なまでの〝力〟の差を。


 血が沸騰せんばかりの怒りと、それを上回る屈辱が沸々とわいてくる。

 けれど、グランデルがいなくなったこの状況で復讐に囚われても仕方がないと思ったテストは、深く深く深呼吸をすることで無理矢理怒りと屈辱を鎮め、割り切ることに決める。

 そこからさらに時間をかけ、完全に心を落ち着けたテストは、今一度周囲に視線を巡らせた。


「それにしても……〝ここ〟が、なのか?」


 ミーミルでの出来事は、ヨハンの口から直接聞いている。

 だから〈狭間はざまの世界〉についても、そこを通じて現世と繋がっているのが〈魂が巡ビフレる地スト〉かもしれないというヨハンの推測についても聞き及んでいる。

 聞き及んでいるからこそ、としか思えなかった。

 

 現世と天上を結ぶ、死した魂が行き交う世界――〈魂が巡る地ビフレスト〉。

 

 もしそうであったとしたならば、闇色の空にまたたく幾億幾兆の輝きは亡くなった人たちの魂かもしれない――ふと、そんな考えが脳裏をよぎり、言いようのない寒気を覚える。


「……近くにいないというだけで、あの場にいた人間全員がこの世界に飛ばされている可能性が高い。今はヨハンたちと合流することを優先しよう」


 寒気を誤魔化すために、少しでも気を抜くと仇のことばかり考えようとする復讐心を抑えるために、あえて、これからの行動方針を口にする。

 今の自分が、常よりも不安定であることを自覚しているがゆえの行為だった。

 

 行く当てなどあるはずもないので、とりあえず、ただひたすらに前へ進むことにする。

 闇色の空には幾億幾兆の輝き以外にも、チラホラと浮遊する大地が浮かんでいるのが見て取れた。

 ゆえに、今いる大地が浮遊大地の一つであることは疑いようがなく、ヨハンたちを探しつつも大地の端がどうなっているのかを確認するために、テストはただひたすらに前へ進むことに決めたのだ。


 青白く明滅する大地を歩きながら、注意深く周囲を観察する。

 この世界を、あえて現世に当てはめて表現するならば〝枯れた世界〟だった。

 草木は一本も生えておらず、生物らしい生物も見当たらない。

 川や湖といった水場も存在しない。

 大地と同質の、青白い光を明滅させる大小無数の岩山が拡がっているだけだった。


 そして、だからこそ、テストは自分が置かれている状況に危機感を募らせていた。草木も生物も水場もないということは、食料と水が調達できないことを意味している。とてもじゃないが、人間が生きていけるような環境ではない。

 王都奪還戦の最中さなかにこの世界に飛ばされたため食料や水など携行しているわけもなく、下手をすると、こうして歩き回ることさえも悪手になりかねない状況だった。


 とはいえ、動かないことには何も始まらないのも事実。

 目的は不明だが、帝国は、現世とこの世界を繋げようとしている。

 そのことを鑑みれば、この世界のどこかに帝国が食料と水を備蓄した――後者は保存が利かないため微妙かもしれないが――根拠地ベースを築いている可能性は極めて高い。

 だから、こうして歩き回ることは決して悪手ではないと、テストは自分に言い聞かせる。


 ひたすらに、ただひたすらに歩き続け……とうとう大地の端にたどり着く。

 知らず息を呑みながらも大地の端――ここまでくると、もはやへりと言った方が正しいのかもしれないが――に立ち、その下に拡がる景色を覗いてみる。

 大地の下には空と同じ闇が拡がっており、その闇を圧する幾億幾兆の輝きと、空以上に数多くの浮遊大地が浮かんでいた。

 どうやら浮遊大地は、上に行けば行くほど数が少なく、下に行けば行くほど数が多くなっているようだ。


 テストは大地の端から離れると、地面に転がっていた小石を一つ掴み、浮遊大地の外に向かって放り投げる。

 小石は緩やかな放物線を描いた後、底すら見えない闇の中へ落ちていった。

 宙に浮いているのはあくまでも浮遊大地だけだということを確認したところで、小石が落ちていった方角に向かって耳を澄ます。が、いくら待っても小石が底についた音が聞こえてくることはなかった。


「下の大地に激突すれば即死。しなかった場合は、終わりのない落下が待ち受けているというわけか。さすがにこれは、ゾッとする話だね」


 言葉どおりに身震いしたところで、ふと、浮遊する大地と大地が目に見えない魔力の〝流れ〟で繋がっていることに気づき、眉をひそめる。

 その〝流れ〟は、ともすればディザスター級澱魔エレメントに匹敵するほどに莫大な魔力を有していた。


「これだけの魔力……どうして今の今まで気づかなかったんだ……!」


 己の未熟さを罵りつつも、魔力の〝流れ〟がどういうものなのかを調べるために瞑目して魔力の感知に意識を集中させ……さらに気づく。

 この世界ではまるで空気のように、微弱な魔力が充満していることに。

 その魔力が、視界を遮る霧のように、あるいは微かな音をかき消す騒音のように魔力の感知を邪魔していたから、テストは今の今まで〝流れ〟の存在に気づくことができなかったのだ。


 希望的観測が多分に混じっているが、もしかしたら、その〝流れ〟は浮遊する大地と大地を繋ぐ道の役割を果たしているかもしれない――そう考えたテストは、大地の端に沿って歩き出した。


 現状テストが感知できる範囲内に、今いる大地から伸びる〝流れ〟は確認できない。ゆえに〝流れ〟の始点、あるいは終点となる大地の端に沿って歩き、探索する以外に手はなかった。


 歩き始めてから一時間。

 行く先に〝流れ〟の魔力を感知したテストは、逸る気持ちを表すように歩調を早める。

 そこからさらに歩くこと三〇分。

 ようやく、テストは〝流れ〟の前にたどり着いた。


「やはり、近くまで来ても視認はできないか」


〝流れ〟の目の前に立ってなお、目に映る景色に変化はない。

 だが、あらゆる感覚を総動員して〝視〟れば、確かに、間違いなく、今自分の目の前に尋常ではないほどに大きな魔力の〝流れ〟が存在していることがわかる。


 さすがにこのまま〝流れ〟に身を委ねる勇気はなかったので、先と同様、地面に落ちていた小石を拾って〝流れ〟に向かって放り投げてみる。

 先とは違い小石は放物線を描くことなく、今テストが立っている大地よりも下方にある大地に向かって流されるように飛んでいった。


 希望的観測が紛うことなき希望だったことを確認したところで、テストは〝流れ〟の中に手を突っ込んでみる。

 途端、手を引っ張られるような感覚に襲われ、思わず〝流れ〟から手を引き抜いてしまう。

 流れの早い川に手を突っ込んだような、そんな感触だった。

 

(引っ張られたということは、今目の前にある〝流れ〟は始点。別の大地に移動することができる……けど、どうする?)


 難しい顔をしながら自問する。

〝流れ〟は明らかに一方通行。

 今いる大地をろくに探索しないまま飛び込むのは、はっきり言って正しい選択とは言い難い。

 けれど、いまだ全容すら把握できていない大地を一人でくまなく探索するのは、現実的とは言い難い。


 もう少し判断材料が欲しいと思ったテストは、〝流れ〟が向かった先にある大地に視線を向け……目を見開かせた。


〝流れ〟が向かった先、その終点となる大地には、誰かが倒れ伏していた。

 この世界に飛ばされる前、あの場にいた者の中で白色の服を来ていたのは、自分も含めて、ガイ、ヨーゼフの三人のみ。

 倒れている上に距離が離れすぎているため断定はできないが、あそこに倒れ伏している人間は、ガイかヨーゼフのいずれかである可能性が高い。


 ようやく自分以外の人間を見つけたせいもあってか、テストは迷うことなく〝流れ〟に身を投じ、目に見えない川に流されるように闇色の空を飛んでいく。

 ほどなくして終点にたどり着き、〝流れ〟から吐き出されるや否や、すぐさま倒れ伏す〝誰か〟の傍に駆け寄った。

 白色の服が今自分が着ている騎士服と同じであること、体躯と髪の色からヨーゼフであることを確認したテストは、彼の名前を呼びながら抱き起こし、


「ヨーゼフ! しっかりし――……」


 この世界を初めて目の当たりにした時と同じように、絶句してしまった。


 結論から言うと、ヨーゼフは生きていた。

 生きていたが……心が死んでいた。

 目を見開いたまま、だらしなく開きっぱなしになっている口の端から涎を垂らしたまま、テストに抱き起こされても身じろぎ一つすることなく、捨てられた人形のように体を弛緩させていた。


「何なんだ……! 本当に、この世界はいったい何なんだ……!!」


 仇であるグランデルに自分の剣が通じなかったせいか。

 常識が通じない世界に飛ばされたせいか。

 ようやく出会えた仲間が、意思の疎通ができない有り様になっていたせいか。

 テストの口から漏れた嘆きは、彼女を知る者が聞いたら耳を疑うほどに、ひどく弱々しい響きだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る