第5章
第100話 魂が巡る地
「あの……変な質問ですみませんけど……わたしって誰ですか?」
闇色の外套に身を包んだ銀髪碧眼の魔法士――ヨハンは、
今ヨハンの目の前にいる、カソックに似た黒色の儀礼服を身に纏う黒髪緋眼の少女――クオン。
かつては恋人で、今は仇である少女が、記憶を失ったかのような言葉を口走っている。理解など、できるわけがなかった。
その一方で、あくまでも冷静な理性が、状況的にクオンが記憶喪失になっていても不思議はないことに気づいていた。
青白い光が明滅する浮遊大地と、幾億幾兆の輝きが拡がる闇色の空で構成されたこの世界に転移する直前、ヨハンの視界は暗転し、体は浮遊感に包まれ、意識が遠のいていった。
意識を保てなかったのは、屈強とは言えない自分の体が、別世界への転移という常識外れの事態に耐えられなかったせいだろうということはさておき。
ヨハンは意識が遠のいていく
もっとも、かき回されたとは言っても、ヨハンの莫大な魔力の前では湖の水を人の手でかき混ぜた程度のものにすぎず、それによってヨハンが受けた影響は皆無だった。
だが、クオンのような魔力が乏しい人間はそうはいかない。
桶の中の水を人の手でかき混ぜるに等しい、普段は凪いでいる魔力が渦潮のように荒れ狂うほどの甚大な影響が彼女を襲ったはずだ。
それこそ心身に異常をきたし、記憶を失ったとしても不思議ではないほどに。
「あの……もしかしてわたしたち、赤の他人だったりします?」
いつまでも返事をよこさないヨハンに不安を覚えたのか、クオンがおずおずと訊ねてくる。
「いや、そんなことはない」
ほとんど意識することなくそう答えたのは、いったいどういう心境なのか。それはヨハン本人でさえもわからなかった。
そんなヨハンの返答に満足したのか、クオンはまたしても嬉しそうに笑う。
ブリック公国の
「そうですよね。
そう言ってクオンは、右の袖口から伸びる鋼糸を摘まみ上げる。
記憶を失っているはずなのに、視認困難な鋼糸の存在に当たり前のように気づいているクオンの異常さはさておき。
自分とクオンが今、鋼糸で繋がっている状態にあることを失念していたヨハンは、思い出したように鋼糸が巻きついた左手を外套の外に出し、
「って、血だらけじゃないですかっ!?」
血塗れになっていた
ルタールの王城での戦いでクオンと空中回廊から飛び降りた際、鋼糸が骨に届かんばかりに食い込んだことも失念していたヨハンは、
「ああ、これか」
と、気のない声を漏らしながら、左手を持ち上げる。
鋼糸が食い込んだせいもあるが、鋼糸の始点となる黒塗りのナイフの刃も一緒に食い込んでいるせいで左手首の有り様は重傷もいいところだった。
「い、今
慌ててクオンはこちらに近づき、手や服が血で汚れることも
その際、血と汗の臭いを押しのけて鼻腔をくすぐった柔らかな香りに
復讐を誓って以降気にとめようともしなかった、クオンの声に、笑顔に、匂いに、いちいち反応している自分が腹立たしくて仕方なかった。
脳裏にちらつき始めた、恋人だった頃のクオンとの思い出を踏みにじるように、仇となったクオンへの憎悪を意識的に募らせていく。
この女は仇。
それ以上でもそれ以下でもない。
だから、記憶を失っているからといって殺さない理由は……ない。
(むしろ、今なら楽に殺せる)
まるで自分に言い聞かせるように心の中で独りごちると、いまだ右手の中にある
「解けましたっ!」
絶妙なタイミングで顔と声を上げられ、ヨハンは半ば反射的に
外套で隠れているためわざわざ仕舞う必要もなかったが、だからといってもう一度取り出すのも間の抜けた話なので、ヨハンは今一度懐に伸ばそうとしていた手を止めた。
今のクオンならいつでも殺せる。だから焦る必要はない――と、またしても、自分に言い聞かせるように心の中で独りごちながら。
「あとは包帯の代わりになるものですけど……」
そう言って自身の体をまさぐるクオンに、ヨハンは一つ息をついてから応じる。
「僕の外套を使え。清潔とは言い難いが、他に代わりになりそうなものもないからな」
「いいんですか? え~っと……あのぅ……すみません……。今さらですけど、あなたの名前、教えてもらってもいいですか?」
誤魔化すように、それでいてどこか申し訳なさそうに、クオンは笑う。
「僕の名前はヨハン・ヴァルナス。……ついでに言っておくと、
無意識の内にクオンのことを〝お前〟ではなく〝君〟と呼びながら、ヨハンは答える。名前を聞けば多少なりとも反応を示すかと思いきや、クオンは「ヨハン……クオン……」と口の中で転がすように名前を復唱するだけで、記憶が戻るどころか引っかかりすら覚えていない様子だった。
「とにかくだ。僕の外套は好きに使ってくれて構わない」
「あ……そうですか。それじゃ、遠慮なく」
ヨハンが脱いで渡した外套を、クオンは鋼糸と一緒に解いたナイフを使って手際よく切り裂いていく。
ナイフの扱い方があまりにも手慣れているのは、記憶はなくても体が覚えているからだろうとヨハンは推測する。
クオンは外套の一部を包帯に変えると、例によって手際よくヨハンの左手首に包帯を巻いていき、あっという間に応急処置を終わらせた。
「これでよしっと」
満足げに頷いた後、クオンは鋼糸に繋がれたナイフをスルスルと袖の中に仕舞い……首を捻る。
「なんか、考える前に体が動いて全部勝手にやっちゃったんですけど……わたしって何者なんです? そもそも、ナイフも糸もわたしの物だったということは……ヨハンさんの腕を血だらけにしたのも……わたし?」
その質問に、ヨハンは押し黙る。
こちらを見つめるクオンの瞳が不安に満ちている分、余計に返答に窮してしまう。
しかし、このまま黙っているわけにもいかないので、とりあえず今は当たり障りのない返答でこの場を凌ぐことにする。
「赤の他人ではないと言ったが、親しいと言えるほどの間柄でもない。敵か味方かも判然としない程度にはな」
最後の言葉に、まさしく今の自分の心情が表われているような気がしたヨハンは、浮かびかけた自嘲を噛み殺した。
「敵か味方かわからないのなら、なんでわたし、ヨハンさんの腕を血だらけにしたんです?」
「……成り行きだ。別に戦っていたわけじゃない。腕の怪我も僕が原因で負ったものだ。君のせいじゃない」
「そう……ですか……。それならよかったです。…………あっ、勿論ヨハンさんが怪我をしてよかったって意味じゃないですからね!?」
「わかっている。記憶を失って最初に出会った人間が完膚なきまでに敵だったら、目も当てられないからな」
自分でも驚くほど平然と嘘に塗れた言葉を吐いていると、クオンは「いいえ」とかぶりを振り、
「わたしが『よかった』って言ったのは、
普通の人間ならば気恥ずかしさを覚えるような言葉を、クオンはニッコリと笑いながら臆面もなく言ってのける。
そういうところがあまりにも……本当にあまりにも、ヨハンのよく知るクオンだったせいで、思わず彼女から目を逸らしてしまう。
気恥ずかしさと忌々しさが
ヨハンはそんな心情を誤魔化すように、
「もう一度言うが、敵か味方かも判然としないというだけであって、敵じゃないと決まったわけではない」
と釘を刺すように言ってから、強引に話を打ち切る。
「お喋りは、これくらいにしよう。現状は、どうやったら元の世界に帰られるかもわからない状況だからな。あまりのんびりとはしていられない」
「あ~……ということは、やっぱり〝ここ〟、普通の世界じゃないんですね」
さすがに今まで自分が生きてきた世界についての記憶は残っていたらしく、クオンは物珍しそうに周囲に視線を巡らせた。
(普通の世界じゃない、か)
クオンに倣うわけではないが、今一度、青白く明滅する大地に、幾億幾兆の輝くが
(やはり〝ここ〟は〈
確証は全くない。
けれど、それ以外に適当な言葉も見つからない。
(それにこの大地……見れば見るほどルナリアの
ルナリアは滅魔の浄眼を、この世には存在しない石で
もしそれが、この〈
ミドガルド大陸において光源として広く普及している蓄光石――エヴァーライトとは違い、〈
そんな石は、まさしくこの世のどこを探しても存在しない。
「とりあえず、周囲を見て回ろう。この世界について把握しないことには、何も始まらないからな」
「ですね」
ヨハンが歩き出し、その後ろをクオンが当たり前のようについてくる。
そんな状況を許容している自分に、どうしようもないほどの怒りを覚えずにはいられなかった。
同時に、理解に苦しむほどの安らぎを覚えずにはいられなかった。
そんな矛盾を抱えているせいか。
復讐を誓って以降摩耗し続けてきた心が、いよいよ音を立てて軋み始める。
けれど、己が心の悲鳴を完全に無視しているヨハンの耳に、その音が届くことはなかった……。
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近況ノートでも告知しマシタが、ワタクシの新作「孤高の暗殺者は、王女を拾い育てる」が7月17日にファンタジア文庫より刊行されマース。
本作とは違った方向性のダークファンタジーですので、興味が湧いた方は7月17日に書店に行って新作を持ってレジにゴーしていただけると幸いデース。
それから、新作の各種作業の影響により色々と時間がとれなくなってきているので、本章は火、土曜の週二更新という形にさせていただきマース。
更新時刻はだいたい0時とか1時とか、その辺にする予定デスのよろしくお願いしマース。
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