第98話 全てを以て

《グラム騎士団》の中で実力者を五人挙げろと言われたら、誰も彼もが口を揃えて、ストレイトス、テスト、イリード兄弟、ラムダスの名を上げるだろう。

 ならば、彼らに次ぐ実力者は?

 そう問われた際に、誰も彼もが真っ先に名前を挙げるのがハインツだった。


 第一尖塔。

 その最上階にある広間では、皇弟ユーリッドの親衛隊を含めた帝国兵の死体が累々と横たわっていた。

 そのほとんどを斬り殺したハインツは、広間の中央で片膝をついている相方の騎士に手を差し伸べる。


「大丈夫か? ヨーゼフ」


 ハインツ自身、体中に傷を負っていて決して大丈夫そうには見えないが、その実全ての傷が頭に〝かすり〟が付くものだったので、当人はまだまだ余裕がある風情だった。

 

「すまない。危うく殺されるところだった」


 ハインツの手を握り、立ち上がったヨーゼフも体中に傷を負っていた。

 その中には頭に〝かすり〟が付かないものもチラホラと混ざっており、そのせいか、立ち上がったばかりの体が少しだけふらつく。


「本当に大丈夫か?」


 と、心配するハインツに、ヨーゼフは強がった笑みを返した。


「あまり大丈夫じゃないが、ここまで来たらそうも言ってられないだろ」

「だな」


 そう言って二人は、広間の奥にある、国王の寝室の扉に顔を向ける。

 ユーリッドの親衛隊が寝室の守りについていた以上、この扉の先にユーリッドがいるのは間違いない。

 あともう少しで、この戦いを終わらせ、帝国から王城を取り戻すことができる。


 ハインツとヨーゼフは覚悟を決めるように頷き合うと、決然とした足取りで国王の寝室へ向かい、扉を開け、



「…………………………は?」



 呆けた声を漏らした。


 寝室の中には、誰もいなかった。

 天蓋てんがい付きのベッドを筆頭にした数々の調度品だけが、二人を出迎えた。


「なんでだ!? 親衛隊が守りをくれてたのに、なんで肝心の皇弟がいない!?」


 声を荒げるヨーゼフを尻目に、ハインツは思案する。

 

 第一尖塔と天守キープを繋ぐ階段は、仕掛けによって天井に収納できるため、攻める側であるハインツたちにとっては、第一尖塔の出入り口としては使えない。

 だが、守る側であるユーリッドは仕掛けを起動すれば階段を下ろせるので、第一尖塔から逃げる際の出入り口として使用することができる。

 おそらくユーリッドは、寝室前の広間に親衛隊を配することで、自分が寝室そこにいるとこちらに思わせ、戦わせている間に下階に降り、第一尖塔から脱したのだろうと、ハインツは推測する。


(だが、第一尖塔と天守を繋ぐ出入り口は、サイアスたちが張っている。ユーリッドが余程の愚鈍でない限り、その事態は想定しているはず)


 そこで浮かび上がるのは一つの懸念。

 ユーリッドには、親衛隊すらも捨て駒として使っても差し支えないほどの強者が護衛についている可能性だった。


「とりあえず下に降りてみよう。そこ以外に逃げ道はないからな」

「ということは、おいしいところはサイアスたちに持っていかれたってことになるな」


 だといいがな――とは口に出さず、ハインツはヨーゼフとともに寝室を出て、階段を駆け下りていき……懸念が的中したことを思い知ることになる。

 第一尖塔と天守を繋ぐ出入り口付近で、戦闘の痕跡すら残すことなく殺されたサイアスたちの死体を目の当たりにすることで。


「サイアス!?」


 驚愕を吐き出すヨーゼフを我に返らせるように、ハインツは彼の肩に叩く。

 

「サイアスたちの死を無駄にしないためにも、今はユーリッドを追うぞ。まだそう遠くには行っていないはずだからな」

「あ、ああッ!」


 平静な物言いとは裏腹に、胸中に暗雲が渦巻いていることをハインツは自覚する。

 なぜか、ユーリッドを追うことが、己の死期を早めているような気がしてならなかった。


(くだらない……)


 そう自分に言い聞かせると、これ以上は余計なことを考えるのはやめて、ユーリッドを追うことに専心した。



 ◇ ◇ ◇



 今までの〝視〟る鍛錬に加え、テストとの模擬戦を幾度となくこなしたことにより、ヨハンはどうにかクオンの動きを捉えることができていた。

 さらに〝シルフィーロンド〟と改編〝グリーンガスト〟を最大限に活用し、空中回廊、城壁、尖塔、天守キープ主館パレスの屋根を飛び回って距離をとることを徹底することで、今まで手も足も出なかったクオンを相手に互角の戦いを演じていた。


 だが、ヨハンの目的がクオンを殺すことである以上、互角の戦いは喜ばしい事態ではない。

 むしろ、自分にとって圧倒的有利な状況で戦いを挑んだにもかかわらず、クオンを仕留められない現状に、焦りを募らせていた。


(クソッ! 決め手を打たせてもらえない!)


 徹底的に距離をとり、詠唱を省略した〝ブラウンハウンド〟で牽制しつつ、状況に応じた魔法で決めにかかる。

 それを何度も、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返しているのに、ことごとく凌がれてしまう。


 邪魔が全く入る心配がない状況ならば持久戦に持ち込むという手もあるが、ここは、いつ誰が乱入してきてもおかしくない戦場の真っ只中。

 一対一で戦わなければならないと思い込ませるための〝楔〟が利いたのか、クオンは派手に動き回っているようで、その実、城内の主戦場――第二~第四尖塔の間にある空中回廊から遠く離れた、第七~第八尖塔の周辺で戦うことを徹底しているため、今のところは邪魔に入る者は現れていない。


 その一方で、ヨハンが魔法を使っているため戦いはどうしても派手になってしまい、外庭したにいる帝国兵を中心に、自分とクオンの戦いを目にする者が着実に増えてきている。

 二人の機動力が常人にはついて行けないレベルで図抜けているため割って入られる者がいないというだけで、今この瞬間に邪魔が入ってもおかしくない状況になりつつある。

 焦りを募らせるなという方が無理な話だった。


(ここは、危険を承知した上で〝奴〟を懐に誘い込むべきか?)


 右手が塞がった状態でも、詠唱を省略した〝ブラウンハウンド〟が使えることは、まだクオンには見せていない。

 それで虚を突ければ、懐――正確にはクオンの軽刃媒体ブレードが届かない程度の距離は空けるが――に誘い込んでも、初手に限れば渡り合えるはず。


(逆に言えば、初手で勝負を決められなければ僕の負けになってしまうが)


 今のヨハンがその程度の危険に臆するわけもなく、クオンを懐に誘い込み、勝負に出ることを決意する。


 しかし、勝負に出るにしても、クオンを確実に仕留めるための戦術が組み立てきれていない。

 ヨハンはそのための時間を稼ぐために、改編〝グリーンガスト〟で己を吹き飛ばし、天守の屋根から第八尖塔手前の空中回廊に飛び移ることで、主館の屋根から天守の屋根に飛び移ってきたばかりのクオンから一気に距離を離す。


 ほどなくして、ヨハンは空中回廊に着地する。

 その位置は、クオンといえども一足では飛び移ることができない距離だった。

 天守の近くにも空中回廊は伸びているが、そこからヨハンのところまでたどり着くには第七尖塔を経由する必要があるため、クオンの機動力を考慮してもそれなりの時間は稼げる。

 だが、それなり程度の時間では戦術を組み立てるには足りないので、さらなる時間を稼ぐために、牽制の〝ブラウンハウンド〟を発動した。

 それが、致命的な悪手であることにも気づかずに。


 ヨハンが五つの岩弾を発射した瞬間、クオンは嗤った。この瞬間を待っていましたと言わんばかりに。


 転瞬、クオンは天守の屋根を駆け、勢いをそのままに跳躍した。

 空中回廊にいる、ヨハン目がけて。


 馬鹿な。

 何を考えている。

 届くはずがない。

 諸々の疑問が脳裏を駆け巡っている間に、五つの岩弾が宙を飛ぶクオンに襲いかかり、


「なッ!?」


 ヨハンは、思わず狼狽を吐き出してしまう。

 信じられないことに、クオンは迫り来る岩弾の上に飛び乗ったのだ。

 その岩弾を足場に再度跳躍し、今度は最後尾にあった岩弾に着地する。と同時に、砕けるほど強く岩弾を蹴って三度みたび跳躍。

 クオンは岩弾を足場にすることで届くはずがなかった距離を飛び越え、ヨハンから一〇メートルほど離れたところにある空中回廊の壁の上に着地した。


 ヨハンは半ば反射的に短銃媒体ピストルを抜き、着地の隙を狙って発砲する。

 ほぼ同時に、旋回してきた四つの岩弾が背後からクオンに襲いかかる。

 偶発的に起きた挟撃。

 これで手傷の一つでも負わせられればと期待するも、クオンは舞うように旋転して魔力の弾丸をかわしながら、左手に持った軽刃媒体ブレードで岩弾を斬り払うことで、難なく凌いでみせた。


 まずい――と思考するよりも早くに、ヨハンは左掌を横に掲げ、改編〝グリーンガスト〟を使って城壁に飛び移ろうする。

 そんなヨハンの思考を読んでいたクオンが、右手に持っていたナイフを投擲。改編〝グリーンガスト〟の発動を阻止を狙うと同時に、その起点となる左掌を潰しにかかる。


 ヨハンはすぐさま魔名の詠唱を中断し、すんでのところで左掌を引いてナイフを回避する。が、


「甘いですよぉ」


 気づいた時にはもう遅かった。

 ナイフの柄尻に繋がれた鋼糸が、ヨハンの左手首に巻きついていた。

 一緒に巻きついたナイフの刃が、左前腕に少しだけ食い込み、血が滲む。

 ナイフは鋼糸と絡まることで結び目の役割を果たし、ヨハンの左手首を雁字搦めにする。

 一目見ただけで、易々とはほどけないと確信できるほどに。


(クソ……ッ! ルナリアの鋼糸には気づくことができたのに……!)


 心の中で悪態をつきながらも、ヨハン自身、クオンの鋼糸にすぐには気づけなかった理由に気づいていた。

 左手が搦め捕られる布石となった、ナイフの投擲。

 その速度と鋭さが、かわせたことが奇跡だと思えるほどに尋常ではなかったせいで、回避行動以外に意識を割く余裕がなかった。

 だからヨハンは鋼糸が巻きつくまで、その存在に気づけなかったのだ。

 ルナリアの鋼糸とは違い、〝斬る〟タイプではなかっただけ運が良かったと割り切るしかない。


「これでもう、逃げ回ることはできませんよ。ヨハン」


 クオンはニッコリと嗤いながら、空中回廊の床に飛び降りる。


「わたしの前で同じ魔法を使いすぎた――それがあなたの敗因です」


 その言葉だけで、ヨハンは悟る。

 クオンが、戦いながらもこちらの魔法をしっかりと分析していたことを。

 だからクオンは、〝ブラウンハウンド〟の軌道を――追尾時も含めて――完璧に見切り、接近の手段として利用できることができた。

 改編〝グリーンガスト〟にしても、使いどころを完璧に読み切り、鋼糸を巻き付けることができた。


 持久戦に持ち込む手もあるなどと考えていた自分を、罵りたい気分だった。

 自分とクオンとでは、実戦経験に天と地ほどの差がある。

 魔法の抽斗ひきだしはともかく、戦術の抽斗が乏しい自分が持久戦に持ち込んだところで、かえって追い詰められることになるのは、冷静に考えればわかることだった。

 ジスファーと戦った時のように、もっと早い段階で勝負を仕掛けるべきだったのだ。

 

 一通り悔やんだところで、ヨハンは気持ちを切り替える。

 まだ追い詰められただけだ。

 まだ敗色が濃厚になっただけだ。

 復讐を諦める理由としては、あまりにも軽すぎる。


 兎にも角にも、今は考える時間が欲しい――そう思ったヨハンは、クオンの話に付き合うことで、その時間を稼ぐことにする。


「敗因か。言っておくが、僕が敗れる時は死ぬ時だけだ。お前では、絶対に僕に勝つことはできない」


 自信をもって断言する。

 ヨハンとて、ただ漫然と戦っていたわけではない。

 戦いを通じて、クオンがこちらを殺すつもりがないことに、しっかりと気づいていた。


 この期に及んで、いったいどういうつもりで殺す気もなしに戦っているのかはどうでもよかった。

 モニア平原の決戦後に、夜の病室に忍び込んできた〝奴〟が死んでほしくないだのなんだの言っていたような気がするが、心底どうでもよかった。

 どうでもよかったが、それならば、この女はいったいどうやって僕の復讐を終わらせるつもりなのか?

 それだけは、少しだけ気になった。

 だからヨハンは、この状況からクオンに勝つ戦術を組み立てるまでの時間を稼ぐためにも、戦いの最中さなかに湧いた疑問を、挑発混じりに彼女にぶつけた。


「僕を殺す気がない人間が、いったいどうやって僕に勝つつもりだ?」


 その問いに対し、クオンはみを深める。

 心なしか、そこに浮かぶ狂気すらも深まったような気がした。


「簡単な話ですよ。あなたの腕を潰し、脚を潰し、喉を潰して、二度と戦えないどころか、一人では生きていくことすらままならない体にする。そうすれば、さすがにヨハンも復讐を諦めるしかないでしょう?」


 そう訊ねてくるクオンを前に、ヨハンは絶句してしまう。

 身の毛もよだつとは、まさにこのことだった。


 この女は、僕にこう言っているのだ。

 生きながら死ね――と。

 かつてないほどに恐怖を覚えた言葉だった。

 復讐の炎を抱えたまま、何も出来ずに生き長らえるなど恐怖以外の何ものでもなかった。


 そう考えると、なるほど確かに、今この女が吐いたおぞましい言葉は、勝利と呼ぶにはこれ以上ない内容だ。

 正直、死んで復讐が果たせなくなるよりも恐ろしいことがこの世に存在するとは、夢にも思っていなかった。



『無理にとは言わない。機会があればでいい。クオンがなぜ《終末を招く者フィンブルヴェート》に属しているのか、その理由を確かめておくことを勧めるよ』



『逆に聞くけど、復讐の相手が死を望んでいるような手合いだった場合、その相手をただ殺したところで、それは、復讐を遂げたことになると思うかい?』



 王都にたどり着いたその日の夜、物見台で見張りをしていた時のテストの言葉を思い出す。 

 確かに、復讐するうえで、テストの言葉は正しすぎるほどに正しいと思う。

 しかし、この女に限って言えば、死を望む手合いがどうとかを気にする次元を超えている。

 この女は、生きていてはいけないたぐいの人間だ。

 生きているだけで災厄をもたらす、この世に存在してはならない類の人間――いや、怪物だ。


 そう思ったら、話の流れも、まだ戦術を組み上げきっていない現状も無視して、体が勝手に動いていた。

 短銃媒体ピストルの銃口を〝奴〟の心臓に向け、引き金を絞る。

 同時に、


「〝ブラウンハウンド〟ッ!!」


 五つの岩弾を具象。

 その間にも引き金を引き続け、弾倉に込められた弾丸――六発全てを吐き出した。


 会話の流れを無視した不意打ちに驚いたのか、それとも、詠唱省略の魔法陣を描かれた右掌を短銃媒体ピストルで塞いだ状態で〝ブラウンハウンド〟を発動したことに驚いたのか、前に出られなかったクオンは弾丸と岩弾を凌ぐことに専念する。

 そのほんのわずかに稼いだ猶予の間にヨハンは思考し、今までクオンに勝つ戦術が思い浮かばなかったことが嘘のように、一手を稲妻のように閃かせる。


 ヨハンは、鋼糸が絡みついた左手を横に拡げ、


「〝グリーン――」

「させませんよ」


 魔名を唱え切る前に、クオンが肉薄。

 今やクオンにとって唯一の武器となった、左掌中にある軽刃媒体ブレードで刺突を放ってくる。光刃が向かう先は、改編〝グリーンガスト〟の詠唱省略魔法陣が描かれた左手の甲。

 クオンが、掌の反対側から刺し貫くことで魔法陣を潰すと同時に、左手をも潰そうという算段でいるのは明白だった。

 その算段が、ヨハンの狙いどおりであることにも気づかずに。


 ヨハンは改編〝グリーンガスト〟の魔名を唱えることで、クオンの攻撃パターンを限定したのだ。


 鋼糸で繋がった状態で改編〝グリーンガスト〟を使われたら、二人揃って吹き飛ぶことになる。

 かといって、クオンの方から鋼糸を手放してしまったら、ナイフを失った上にヨハンを逃がしてしまうことになる。

 魔法の発動を阻止するためにヨハンの左手首を斬り落とそうにも、鋼糸を巻きついている上にヨハンが失血死する恐れがあるため、それはできない。


 ならば、クオンに残された選択肢は一つしかない。

 刺突で魔法陣ごと掌を貫き、魔法の発動を阻止する。

 それしかしかない。

 そして、それしかないとわかっているなら、


(僕でもかわせる!)


 鋭角から抉り込むようにして放たれた刺突を、ヨハンは左手ごと身を反らすことで紙一重で回避する。

 そして、それしかないとわかっていたからこそ、ナイフを投擲された時とは違って、中断することなく魔名を唱え切ることができた。


「――ガスト〟!」


 かわされたことに驚いたクオンがわずかに瞠目する中、改編〝グリーンガスト〟を発動。

 ヨハンにのみに作用した超常の突風が、ヨハンの体を空中回廊の外に吹き飛ばす。クオンは右手で鋼糸を握り締め、両脚で床を噛んで踏み止まろうとするも、ヨハンの体が鋼糸の長さの限界まで吹き飛んだところで、一秒すらこらえることもできずに空中回廊の外に投げ出されてしまう。

 その瞬間、左手首に巻き付けられた鋼糸が骨に届かんばかりに食い込むも、予想していた痛みだったため眉一つ動くことなくこらえきった。


 これが、ヨハンが閃いた、およそ戦術とは呼べない一手。

 改編〝グリーンガスト〟を使って、クオンもろとも地面に落ちるという自爆に等しい一手だった。


 突風の威力を調節したことで、狙いどおりに空中回廊と城壁の中程で勢いが失速。外庭の地面目がけて落下し始める。

 落ち方が落ち方なので、翠風シルフィーロンドの力を借りても無傷では済まないだろう。

 そして、こちらと鋼糸で繋がっていて、なおかつ、翠風の恩恵がないクオンは〝無傷では済まない〟程度では済まないだろう。

 

 これで決める――そう強く思いながらも、ヨハンは迫り来る地面を決然と睨みつけた。



 ◇ ◇ ◇



 頭から地面に向かって落ちていく中、さしものクオンも焦りを抱いていた。

 

(まさか、こんな手でくるなんて……!)


 とは思いつつも、普段のわたしならば、あるいは見抜けたかもしれないと頭の片隅で思う。


〝仮面〟を被ってなおヨハンを前にして知らず知らずの内に気負いすぎたせいか。

〝仮面〟を被っていようがいまいが、抑えようのない恋心が視界を曇らせていたせいか。

 異常とまで称された洞察力と演繹えんえき力は、この戦いの間ずっと鳴りを潜めていた。

 そのせいか、ここまでずっとヨハンが打つ一手一手に翻弄されっぱなしだった。


 一方で、普段のわたしでも、今わたしを窮地に陥れているこの一手だけは見抜けなかったかもしれないとも頭の片隅で思う。

 洞察力にしろ演繹力にしろ、〝それら〟は魔法のような超常の産物ではなく、全てを見通すような力はない。

 特に、わたしの〝それら〟は、人の情に対してはまるで機能しない欠陥品だ。

 ヨハンのこの一手が、人の情そこから導き出されたものだとしたら、わたしに見抜ける道理はない。


(かといって、このまま素直に地面に激突してあげる道理もありませんが……!)


 そうこうしている内に、先行していたヨハンが背中から地面に落ちる。


「かは……ッ!!」


 翠風シルフィーロンドの力では衝撃を殺しきれなかったのか、ヨハンは血とともに肺腑に満ちていた空気を吐いた。


 ヨハンが地面に落ちたことで鋼糸がたわみ、右腕ごとクオンを引っ張っていた力が唐突に消え失せる。

 刹那、自由を取り戻した右手を眼前まで迫っていた地面に伸ばし、


(ここっ!)


 掌が接地した瞬間に右手を内側に払いながら体を捻り、転がるようにして倒れ込んで受け身をとることで、落下衝撃力を、掌に、肘に、肩に、背中に、腰に、脚に分散する。

 それでもなお殺しきれなかった衝撃が全身を駆け巡り、受け身の勢いをそのままに倒れ伏しそうになるも、両手を地面につくことでどうにかこらえきる。


「……っ」


 直後、右肘と右肩に鈍い痛みが走る。が、我慢できないほどではなく、痛みさえ無視すれば動かせないこともなかった。

 痛みが走ると言えば背中や腰や脚にも言えることだが、これらの痛みは右腕に比べればそこまで深刻なものではなかった。

 さすがに多少は動きが鈍くなりそうだが、その程度の支障だった。

 そして、ヨハンもろとも空中回廊から吹き飛ばされてから今に至るまでの間ずっと軽刃媒体ブレードを握り締めていた左手は、極力守るようにしていたため唯一無傷のままだった。


 戦闘の支障は軽微。

 一秒にも満たぬ間に自身の状態を把握し、そう結論をつけたクオンは、ヨハンの方に振り返りながら立ち上がる。

 ヨハンは、背中を痛打したせいか、苦しげに咳き込みながらも立ち上がろうとする最中さなかだった。

 改編〝グリーンガスト〟でクオンの体を強引に引っ張ったために巻きついた鋼糸が食い込んでしまったのか、左手首のあたりは血に塗れていた。


 完璧に潰したとは言い難いが、ヨハンの左手の傷は充分に重い。

 ゆえにクオンは、右腕から先に潰すことを選択し、立ち上がったばかりのヨハンに向かって刺突を繰り出――



「いたぞッ!! ヨハン・ヴァルナスだッ!!」



 後方から聞こえてきた叫び声に、クオンは思わず動きを止めてしまう。

 振り返って確認するまでもない。

 自分たちの戦いを見ていた帝国の兵士たちが、皇帝が下した確殺命令に従ってヨハンを殺しにきたのだ。

 事実、一〇を超える殺気が、荒々しい足音を立ててこちらに迫ってきていた。


(そんな……)


 絶望が、心を侵す。


 目の前にいるヨハンはどうにか立ち上がったものの、翠風シルフィーロンドでは殺しきれなかった衝撃でどこか痛めてしまったのか、体はふらついており、兵士たちに対応できるかどうかは微妙なところだった。

 このままでは、ヨハンが、兵士たちに殺されてしまう。


 だからといって、クオンが兵士たちを止めたり殺したりしてしまったら、皇帝の意に背くだけでなく、帝国に牙を向けたことになる。

ナイア〟を護るためにも、帝国を裏切るような真似だけは絶対にできない。


 こうなったら一か八かと、ヨハンはわたしの獲物だと知らしめるように、振り返りながら狂気混じりの殺気を兵士たちにぶつけるも、


(これは……!)


 兵士たちは、誰も彼もが戦いの狂熱に浮かされた顔をしており、クオンの殺気を受けても足を緩めようともしなかった。

《グラム騎士団》に追い詰められたことで、いよいよ余裕がなくなった兵士たちが、戦いの熱と狂気に理性を委ねてしまったのだ。

 そんな人間に、ただの脅しにすぎない殺気をぶつけても、通じるわけがない。

 

 絶望が、心に満ちる。

 かろうじてでも顔に出さなかったのは、ここ数日の間に必死に取り繕った〝仮面〟のおかげだった。


 状況は、完全に手詰まり。

 ナイアのためにヨハンを殺すか。

 ヨハンのためにナイアを殺すか。

 クオンが選べる選択肢は、この二つしか残っていない。


(そんなの、選べるわけないじゃないですか……!)


〝仮面〟が悲痛に歪みかけたその時、突然、肌が粟立つほどに凄絶な殺気がクオンを貫く。今まさに目の前まで迫ろうとしている、兵士たちの後方から飛んできた殺気だった。


 殺気の主は、激烈な踏み込みで兵士たちの後を追い、瞬く間に肉薄にすると、一閃のもとに兵士たちをまとめて腰から両断する。

 はずなのに、今宵目の当たりにした中で最も強烈な一閃だった。


 一振りで兵士たちを鏖殺おうさつし、血煙を突っ切って現れた殺気の主は、双子の騎士の片割れ――ガイ・イリード。

 その悪鬼じみた形相から、確かめるまでもなくカイの復讐をするためにやってきたのだと、クオンは悟る。


 ガイは勢いをそのままに、こちらに向かって大剣媒体クレイモアを振り下ろそうとする。

 先の一閃を見るに、受け流すことに全力を傾けなければやられると判断したクオンは、迫り来るガイに集中す――


「!?」


 まるでこの瞬間を狙っていたかのように、背後にいたヨハンが鋼糸を引っ張る。

 結果、クオンの体勢が崩れ、度し難いほどの隙を晒してしまう。


 前から迫る光刃。

 後ろから迫るは、今まさしくヨハンが放った魔力の弾丸。

 体勢を崩された状態でその両方を凌ぐなど、クオンといえどもできることではなかった。


(ごめんなさい……ナイア……)


 死を覚悟し、目を瞑る。


 ほどなくして、光刃と弾丸がわたしを――――…………斬り裂きもしなければ、貫きもしなかった。


 代わりに訪れた、あるかなきかの衝撃に腹部を押され、尻餅をついてしまう。

 子供の力よりも弱々しいはずなのに、まるで抗えない不思議な衝撃。

 そんな魔法よりも魔法じみた芸当ができる人間に一人だけ心当たりがあったクオンは、まさかと思いながらも瞼を開き、自分に尻餅をつかせたの背中を見上げた。


 老爺は、枯れ木のような腕から伸びる右の掌で、クオンをして全力で応じなければ凌げそうになかったガイの一閃を受け止めていた。

 ヨハンが放った弾丸に至っては、あろうことか左手の人差し指一本で受け止めていた。

 それゆえか、それとも老爺の隔絶した実力に気づいてしまったがゆえか、ヨハンとガイ――二人の復讐鬼が、怒りを忘れて、脂汗を滲ませたまま身動き一つとれないでいた。


「これはこれは、今ここで〝糧〟にしてしまうのがもったない若者ばかりですなぁ」


 触れれば破裂しそうな緊張感の中、老爺は頬を綻ばせながら暢気のんきな声音で言う。


 その老爺は、吹けば飛びそうな小さな体に、黒色の法衣のような衣服を纏わせていた。髪と髭は完全に色褪せており、顔つきは好々爺こうこうや然としているが、真黒い双眸には狂気も凶気も超越した、言葉では形容できないなにかが宿っていた。


 魔法はおろか武装媒体ミーディアムすら必要としない、人の域はおろか人外の域すらも超えた老爺の名は、グランデル・ホーエンフェルト。

 七至徒第一位の肩書きを持つ、ヘルモーズ帝国最強の魔人が、今まさに混迷の戦場に君臨した。

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