第56話 決定的なまでの――

 ――ヨハン。


 誰かが、僕を呼ぶ声が聞こえた。


 ――起きてください。


 女の、声だった。


 ――大事な話があるんです。


 聞き覚えのある、声だった。


 ――だから、お願いだから、起きてください。


 う、この声は……


 ――ヨハン。



(〝あの女〟の声だッ!!)



 ヨハンは全身が悲鳴を上げるのを無視して上体を跳ね起こし、ベッドの傍に佇む〝あの女〟――クオン・スカーレットに向かって右掌をかざす。

 室内は夜闇に侵食されていたが、窓から入り込んでくる月明かりのおかげで、目の前にいるクオンの姿をしっかりと認めることができた。

 クオンは《終末を招く者フィンブルヴェート》構成員が着用している外套に身を包んでいるが、フードも仮面も被っていなかった。

 テストとの戦いで負ったのか、頬には綿紗ガーゼが貼り付けられていた。

 

「何しに――!?」


 疑問とともに憎しみを吐き出そうとするも、立てた人差し指を眼前に突きつけられ、思わず口ごもってしまう。

 クオンはその人差し指を、自身の唇の前に持っていき、


「し~っ。大きな声を出したら、隣の病室で寝ている人が起きちゃいますよ~」

「そうなって困るのは、お前だけだ。僕には何の不都合もない」

「それ、本気で言ってます?」


 艶然と嗤いながら、クオン。

 それだけで心中を見透かされたことを悟ったヨハンは、忌々しげに舌打ちする。


 ヨハンはクオンに、一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあった。

 ゆえに今、他の誰かがこの部屋にやって来るのはヨハンにとっても都合が悪く、だからこそ、単刀直入に〝どうしても聞きたいこと〟をクオンにぶつけた。


「なぜ、カルセルを見逃がした?」

「ヨハンの一番の友達だから――じゃ、理由になりませんか?」

「……まさかとは思うが、それで僕の機嫌をとったつもりじゃないだろうな?」


 心底不愉快そうに言うヨハンに、クオンはゆっくりとかぶりを振る。


「そんなつもりはありませんよ。ただ、ヨハンのためを想って見逃しただけです」

「それこそまさかとは思うが、《終末を招く者フィンブルヴェート》に一員になれと言ったことも、僕を想ってのことだと言うつもりじゃないだろうな?」

「言うつもりですよ」


 クオンはクスリと嗤い、言葉をつぐ。


「七至徒第三位のジスファーさんを倒したことで、帝国上層部は十中八九、ヨハンのことを帝国の脅威になると見なすでしょう。そうなってしまった場合、帝国は《フィン末を招く者ブルヴェート》にヨハンを抹殺するよう命令し、軍にも発見次第殺すよう命令すると思います」

「それならそれで、望むところだ」

「望まれちゃ困りますよぉ。帝国に目をつけられた人間には、〝死〟以外の未来はありません。少なくともわたしの知る限り、その未来から逃れられた人は一人もいません。……そう、一人も」


 ヨハンは、呑み込みかけた息を無理矢理噛み砕く。

 今のクオンの言葉が、嘘ではないと悟ってしまったがゆえに。

 悟ったことを、クオンに悟られたくなかったがゆえに。


 クオンの言葉を信じたわけではない。

 だが、ヘルモーズ帝国という国の強大さを考えたら、クオンの言葉が誇張ではないことを、ヨハンはそれこそ嫌というほど理解していた。

 理解していたからこそ、クオンの言葉が嘘ではないと悟れたのだ。


 ヨハンからの反論がないことを確認したところで、クオンは話を続ける。


「今のままでは、ヨハン……あなたに未来はありません。ですが、帝国上層部が判断を下す前にヨハンが《終末を招く者フィンブルヴェート》に入ってくれたら、ジスファーさんを倒したことを不問にしてもらえる可能性を見出すことができます。なぜなら、ジスファーさんを倒したという事実こそが、ヨハンが七至徒に匹敵する実力者である証となり、それほどの人物が《終末を招く者フィンブルヴェート》の一員になったとなれば、帝国上層部もおいそれとヨハン排除の決定を下すことが出来なくなります。そもそも味方に引き込めたとわかれば、無理して敵に回そうとは帝国上層部も考えないでしょうしね」


 クオンは再び、クスリと

 正体を現して以降ずっと浮かべていたみではなく、恋人だった時のクオンを想起させる柔らかな笑みで。


「前にも言いましたけど、わたしはヨハンのことを気に入っています。本当に気に入ってます。それこそ、死んでほしくないと思うほどに」


 そして、柔らかな笑みをそのままに、


「だから、わたしと一緒に来てください。わたしは、あなたの未来が閉ざされるところなんて見たくない」


 こちらに向かって、真っ直ぐに手を差し伸べた。

 一緒に来てください――その言葉を、体でも表すように。


 答えは『ノー』だ――フルードの町で再会した時と同じように、はっきりと、憎しみを込めてそう返すつもりだった。

 それなのに、なぜか、ヨハンは返答に窮していた。


 今のクオンを見ていると、恋人だった頃のクオンを、どうしても思い出してしまう。

 一緒にいるだけで幸せだった頃のことを、どうしても思い出してしまう。


 目の前にいる、この女は何だ?


 仇なのか?


 恋人なのか?


 懊悩すること自体が間違いだとわかっていても、してしまう。


 気がつけば、震える右手を持ち上げていた。

 まるで、クオンの手を取ろうとしているかのように。



 …………ふざけるなッ!!



 この女のせいで主君は死にッ!! 仲間は死にッ!! 公都は焼け落ちたッ!!

 それなのに、なんだこのザマはッ!! ヨハン・ヴァルナスッ!!

 憎しみの炎を燃やせッ!!

 この女はッ!! 僕を騙しッ!! 僕から全てを奪った張本人なんだぞッ!!


(そうだ……カルセルを見逃したからといって、この女が僕にしたことが帳消しになるわけじゃない。この女自身、どれだけ多くの仲間を殺したと思っている! レグロも、この女に殺され――……)


 指先がクオンの手に触れる寸前に、ヨハンの右手がはたと動きを止める。


「そうだ……よくよく考えたら……そうだ……」


 うわごとのようにブツブツと呟いた後、話の流れを完全に無視して、新たに湧いた疑問をクオンにぶつけた。


「クオン……なぜお前は、自ら、その手で、レグロを殺した?」


 予想だにしなかった問いに、クオンの表情が強張る。

 

「もう一度聞く。なぜ、自ら、その手で、レグロを殺した?」

「ど、どうして今レグロさんが出てく――」

「答えろ。クオン・スカーレット」


 刺すような視線で、クオンを睨む。

 月明かりだけでは判然としないが、少しだけ、クオンの顔色が蒼くなっているような気がした。


「レグロさんは……ヨハンのことを敵視してましたし……実際、数え切れないほどヨハンにひどいことを言ってましたし……だから……」

「だから、殺したと?」


 まるで親に叱られた子供のように、クオンはビクリと震える。


 どうやらこの女は、レグロが僕に対して敵意を抱いていたと思っていたらしい。

 レグロが僕に言った言葉を額面どおりに受け取り、ただ〝ひどい〟とだけ思っていたらしい。

 レグロが僕に対して厳しかったのは、僕のことを認めてくれているからこそだということを、この女はまるでわかっていなかったらしい。


 わずかな機微で物事の本質を見抜くことができるくせに、人の心に関してはその本質をまるで見抜けていない。

 おそらく、この女は人として狂っている。

 狂っているからこそ、レグロという男の本質を見抜けない。

 狂っているからこそ、《終末を招く者かたき》の仲間になれなどと残酷なことが言える。


 ……あぁ。安心した。


 やっぱりこの女は、僕の知っているクオンじゃない。

 僕の恋人だったクオンは、もうこの世のどこにもいない。

 この女は、主君と仲間を殺し、公都を焼いた、紛うことなき〝敵〟だ!


「カルセル以外の人間なら、どれだけ殺してもかまわないとでも思ったか?」

「そ、そんなことは――」

「失せろ。これ以上何も話すことはない」


 出てきた言葉は憎悪に充ち満ちていた。

 だから、ヨハンは再び安心した。

 恋人だった頃のクオンをちらつかされた程度で消えるほど、心の内に燃える憎悪の炎が弱々しいものではなかったことを、再確認できたから。


「は、話すことはないって……わたしと一緒に来ないと、ヨハンは――」

「僕は失せろと言った。カルセルを見逃した借りは、今ここで、お前を見逃すという形で返してやる。だから――」


 これ以上ない憎悪を、これ以上ない軽蔑を、これ以上ない憤懣ふんまんたたえ、言葉をつぐ。


「失せろ、クオン・スカーレット。僕の気が変わらないうちにな」


 もはや明確に顔色が蒼くなったクオンが、怯えるように一歩二歩と後ずさる。

 そして、


「…………っ」


 踵を返して走り出し、逃げるように窓から飛び降りていった。

 その際、クオンの双眸から涙のような滴が舞い散るも、ヨハンは努めて、努めて、見ないようにした。



 ◇ ◇ ◇



 音もなく着地したクオンは、涙に濡れた顔を隠すように仮面を被り、フードも被って、すぐさま走り出した。

 一秒でも早く、病院の敷地から出るために。

 一秒でも早く、ヨハンのもとから離れるために。


 ほどなくして、病院の門扉が見えてくる。

 門扉の前には、光刃を具象していない長剣媒体ソードを左手に携え、腕を組む、テストの姿があった。


 クオンは一足で、テストもろとも門扉を飛び越え、敷地の外に出る。

 そして、テストに背を向けたまま、涙で濡れそうになる声音を必死に繕って礼を言った。


「ありがとうございます、テストさん。ヨハンと話すことを許してくれて」

「どうやらキミは本当に、ボクの秘密を秘密のままにしてくれてるみたいだからね。その借りを返したまでさ」


 テストもまた、クオンに背を向けたまま応じる。


「だけど、見逃すのはこれで最後だよ。ボクとキミは、間違いなく敵同士だからね」

「そうですね……そうしてくれると、


 その言葉に何か感じるものがあったのか、テストは思わずといった風情で振り返った。

 それから数瞬、考え込むように左手の長剣媒体ソードを弄んだ後、言葉を選びながらクオンに言う。


「キミはヨハンのことを《終末を招く者フィンブルヴェート》に引き込もうとしているようだけど……はっきりと言わせてもらうけど、それは絶対に不可能だ。キミに向けるヨハンの怒りは、本物だ。だから、ヨハンは絶対に《終末を招く者フィンブルヴェート》になんか入ったりしない。けどそれは……本当は、キミもわかってたことなんじゃないのかい?」


 先日死闘を繰り広げ、さらには怒りまでぶつけ合った相手が、あまりにも気遣わしげな言葉をかけてくるものだから、クオンは思わずクスリと笑ってしまう。


「テストさんって、良い人ですね」

「はぁっ!?」


 声を裏返らせるテストのことがおかしくて、クスクスと笑ってしまう。

 ほんの少しだけ、救われたように。

 救いようがない自分を、ごまかすように。


「あなたになら、本当に、安心してヨハンを預けることができそうですね……」


 テストは何か言い返そうとするも、結局言葉が見つからなかったのか、一つため息をついてから真摯な声音で応じる。


「預ける云々はともかく、絶対に悪いようにはしない。それだけは約束する」

「約束、ですか。ふふ……やっぱりテストさんは良い人ですね」


 二度も〝敵〟から良い人扱いされたのが不服だったのか、テストはうんざりとしたため息をついた。


 もうこれ以上話すことはなく、これ以上の長居もまた無用だと思ったクオンが走り出そうとした瞬間、


「ま、待ってくれ……!」


 慌てたように呼び止められ、すぐさま足を止める。


「……何です?」

「最後に一つだけ、聞かせてくれ。……キミとヨハンは……いったい……どういう関係……だったんだい?」


 勇気を振り絞るように、訥々とつとつと訊ねてくる。

 心のどこかでそんな質問をぶつけられる予感がしていたクオンは、嬉しげに寂しげに微笑む。


「恋人だった――って言ったら、テストさんは信じます?」


 その言葉を最後に、クオンは走り出した。

 何か言おうとしていたテストから逃げるように、彼女の後方にある病院から逃げるように、そこにいるヨハンから逃げるように、走り出した。

 やがて町を脱し、夜の平原を一心不乱に走り抜けていく。


 走って、走って、走り続けて……人も、動物も、澱魔エレメントも、何もかもの気配を感じなくなったところで足を止めた。

 

「ヨハンが《終末を招く者フィンブルヴェート》に入らないことなんて……わかってましたよ……初めから……初めから……わかって……まし……――っ!」


 テストの前では我慢していた涙が、ヨハンの前では我慢しきれなかった涙が、再び溢れ出す。


「う……うぇ……うぅ……あ……ああ……っ」


 仮面を被って、〝仮面〟を被って、我慢して我慢して我慢し続けていた想いが、涙となって溢れ出す。


「あぁああぁぁああぁあぁぁぁああああぁあぁぁああああぁあああぁ……っ!」


 もう、完全に手詰まりだった。

 ヨハンの心が変わらない以上、ヨハンの命を救う手立てはない。


 帝国上層部はヨハンを脅威と見なし、排除するよう命令を下すだろう。

 七至徒であるクオンは、そんな命令など突っぱねることができるが、問題はそこではない。

 命令を受けた七至徒以外の《終末を招く者フィンブルヴェート》が、手柄欲しさにヨハンの命を狙うだろう。

 帝国に仇なす者を許さない帝国兵が、忠義のためにヨハンの命を狙うだろう。

 ひいては、帝国という存在そのものが、ヨハンの命を狙うだろう。


 そうなる前にヨハンを説得したい――その想いを汲み取り、クオンのやることに目を瞑ってくれたのは、テスト一人だけではなかった。

 帝国軍将軍アルトランも、その一人だった。

 クオンの心中を察したアルトランは、戦友の仇であるヨハンを勧誘しようとするクオンの行為を許し、チャンスは今しかないと背中を押してくれた。

 けれど、それも無駄に終わった。


「レグロさんを殺したって……なんですか……あの人……あの人……! ヨハンにひどいことばっかり……言ってた……ひどい人なのに……どうしてヨハンは……!」


 人はわたしに向かって、洞察力が異常だと言う。

 物事の本質を見抜き、答えを導き出す力が異常だと言う。

 本当に異常なのは、わたしの心だということも知らずに。


 嘘とか、企みとか、隠し事とか、そういったものはいくらでも察することができるくせに、人の情に関しては人並み程度しか――いや、人並み以下しか察することができない。

 その人が醸し出す空気を読むことは出来ても、その人が胸の内に秘めた心情までは読むことができない。

 だから、ヨハンがレグロのことでどうしてあんなにも怒っているのか、まるで理解できない。


 レグロを殺したことを喜ばれるとは、さすがに思っていなかった。

 けれど、レグロを殺したことでヨハンの逆鱗に触れるとは、夢にも思っていなかった。


 それに、


「カルセルさん以外の人間なら……殺しても……かまわないなんて……思ってませんよぉ……。……でも……でも……」


 仕方がない――とは思っていた。

 あの夜、ブリック公国軍の同僚を一人も殺さなかった場合、シエットは決してクオンを七至徒には推薦しなかっただろう。

 七至徒という〝ナイア〟を護る盾を手に入れることは、できなかっただろう。


 だから、殺した。

 仕方がないから、殺した。

 躊躇も容赦もなく、殺した。


 ヨハンとの会話を思い返せば思い返すほど自分の最低さが浮き彫りになっていく。

 こんな女が、ヨハンに好かれるわけがないと思えてくる。

 憎まれて当然だと思えてくる。


 だけど、


 だけど……、


「わたしは……わたしはそれでも……ヨハンが……ヨハンのことが……」


 好きで好きでたまらない。

 この想いだけは、どうしても抑えることができなかった。

 これから先も、抑えられるとは思わなかった。


「わた……わたし……これから……っ……どうしたら…………うう……あぁ……」


 誰かに殺されるくらいなら、いっそわたしの手で――そんな考えなど、脳裏にかすめもしなかった。


 ヨハンを死なせたくない――それだけを願い、動いていたクオンに、ヨハンをこの手で殺すという選択肢はなかった。

 なかったから、なおさら、どうすればいいのかわからなかった。


「う……うぅ……ぅうぇぇぇえええぇぇえぇええぇ――――…………」


 誰もいない夜の平原に、少女の慟哭が、哀しく、虚しく、響き渡った……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る