第2章

第15話 帰郷

 ヘルモーズ帝国、首都バルドル。

 世界最大の都市にして、世界最悪の軍事国家の中枢。

 人口は優に一〇万を超えており、面積は下手な小国よりも広く、都市を囲う外壁は城塞を思わせるほどに堅牢に造られている。


 外壁の内側では、時間と金を惜しみなく注ぎ込んで築かれた、石造りの建物がいらかを争い、馬車四台を並走させてもまだ余裕のある目抜き通りでは、昼前にもかかわらず、人海を思わせるほどに大勢の人間が忙しなく行き来していた。


 その目抜き通りを進んだ先。

 外壁に勝るとも劣らぬ堅牢な壁に囲われた行政区画の一角で、二頭立ての箱馬車が足を止める。


 扉が開き、出てきたのは、短い黒髪と緋い瞳が目を引く、美しくも可憐な少女――クオン・スカーレット。

 身に纏っているものは、ブリック公国の軍服でもなければ、国崩しの際に纏っていたフード付きの外套でもなく、動きやすさを重視した着衣の上に、腰下に届く程度の長さのケープを羽織った、先の二つよりも明らかにこなれた服装をしていた。


 魔導経脈を利用した地属性魔法による転移と、馬車の乗り継ぎを繰り返し、ヘルモーズ帝国からブリック公国に向かうこと一ヶ月。

 ブリック公国に潜入し、スパイ活動を行うこと一二ヶ月。

 そして、ブリック公国からヘルモーズ帝国に戻ること一ヶ月。

 実に一四ヶ月ぶりに故郷バルドルの石畳を踏んだクオンは、手荷物を肩にかけながら周囲に視線を巡らせ、微塵の感慨も感じさせない声音で独りごちた。


「相変わらず、うんざりするくらい人が多いですねぇ」

「それゆえに、ここは世界最大の都市と称されている」


 とりとめのない独り言に律儀に応じながら、白髪白眼の男――シエットが、クオンに続いて箱馬車から降りてくる。

 道中に着替えたクオンとは違い、シエットは相も変わらずフード付きの外套に身を包んでいた。


「そんな当たり前のことはわかってますよぉ。ただヌアークと比べたら、こう……情緒というものが著しく欠けてる気がしましてね」


 一ヶ月前、手ずから滅ぼしたブリック国公都の名前を出すクオンに、シエットは呆れたようなため息を漏らす。


「情緒というものが著しく欠けているのは貴様の方だ。クオン」


 その言葉に、クオンは思わず目を丸くし、そんな彼女を見たシエットがわずかに眉をひそめる。


「どうかしたか?」


 そう訊ねられ、クオンはニンマリと嗤いながら「いえいえ」と、かぶりを振る。


「まだ七至徒になったわけでもないのに、シエットさんがわたしのことを『クオン』って呼んだことが、ちょっと意外に思いまして。まぁ、ここに来るまでの間は『ナンバー90』どころか『貴様』としか呼ばれてなかったですけど」

「『ナンバー90』や『90番』よりも『クオン』の方が言いやすい。ただそれだけの話だ」


 淡々と返すシエットに、クオンはつまらなさそうにため息をついた。


「可愛げがないですよぉ、シエットさん。ここは素直に図星を突かれて、照れの一つや二つ見せる場面じゃないですかぁ」


 今度はシエットの方が、心底つまらなさそうにため息をつき、付き合い切れんとばかりに踵を返す。


「貴様の七至徒入りについては、後日使いの者をよこしてしらせる。それまでは精々英気を養うことだな」


 それだけ言い残すと、さっさとクオンの前から立ち去っていった。皇城のある方角――正確には皇城の地下にある《終末を招く者フィンブルヴェート》の本部――を目指して。 


「英気? もちろん養いますとも」


 クオンはニンマリと嗤い、いや、ながら、行政区画内にある高官用の居住区を目指して走り出す。

 逸る気持ちを、疾走という形で表して。


(久しぶりに〝あの子〟に会える……!)


 つい先程までかぶっていた〝仮面〟のみとは違う、一七歳の少女らしい笑みを浮かべながら、弾むような足取りで走り続ける。


 やがてたどり着いたのは、人二人住むには少々大きな一階建ての一軒家。この家こそが、クオンの帰る場所だった。


 周囲の景観に合わせて無駄に豪奢に造られているのが玉に瑕だが、〝、それ以外のところにもしっかりと金をかけてくれているため特に不満はなく、むしろ自分と〝妹〟が住むのにこれ以上の家はないと思えるほどに立派な家だった。

 それこそ、『ナンバー90』だの『90番』だのと呼ばれていた自分には、勿体ないと思えるほどに。


「そういえば……」


 家の大きさが、の家と同程度であることに気づき、つい先程まで浮かべていた笑みが消える。

 これ以上ないほどに恋い焦がれ、これ以上ないほどに手酷く裏切り、これ以上ないほどに傷つけた、とある青年――ヨハン・ヴァルナスを思い浮かべてしまったがゆえに。


 罪悪感を抱くことすら烏滸おこがましい――心の中で自分を嘲った後、クオンは何度もかぶりを振り、両手で頬をムニムニと摘まんで表情をほぐす。


 久しぶりに再会した〝姉〟の表情が沈んでいたら、〝妹〟に余計な心配をかけてしまう。

〝妹〟との再会は笑顔で――そう決めていたクオンは無理矢理にでも表情を解し、しっかりと笑みを浮かべてから、玄関扉に設けられた、獅子を象ったドアノッカーを叩いた。


 ほどなくして玄関扉が開き、現れたのは、メイド服に身を包んだ妙齢の女性。

 うなじの辺りで一本にまとめた、腰まで届く程に長い空色の髪と、髪の色よりも濃い、群青に近い色をした瞳がよく似合う美女だった。


 高官用の居住区に居を構えていることからもわかるとおり、七至徒の候補であるクオンはそれなりの待遇を受けることができる。

 おまけに、給金を払う財力さえあれば、護衛も務めることができる帝室御用達のメイドを雇うことも許されていた。


 今、クオンの目の前にいるメイドがまさしく帝室御用達それであり、洗練された立ち振る舞いで家主であるクオンに頭を下げると、


「お帰りなさいませ、クオン様」


 洗練さの欠片もない、兵隊じみた堅い口調で雇い主クオンに挨拶した。

 その表情も、クオンとは別ベクトルで〝仮面〟を思わせるほどに堅く、人間味というものが露骨に欠けた有り様になっていた。


 この女性の名はイレーヌ。

 メイドとしての能力は一級品で、護衛としての能力は超一級品だが、前述の理由によりいつまで経っても〝見習い〟から脱しきれない女性だった。


 とはいえ、メイドらしからぬお堅い表情と口調にさえ目を瞑れば、優秀であることに違いはない。

 それに《終末を招く者フィンブルヴェート》などという、帝国内においても皇帝直属の部隊という以外には何の情報も開示されていない、胡乱な組織の人間に雇われてくれるようなメイドは〝見習い〟を含めてもそう多くない。

 番号が名前の人間になど、なおさら雇われたいとは思わないだろう。


 そんな中、《終末を招く者フィンブルヴェート》の中でもとりわけ胡乱な『ナンバー90じぶん』に二つ返事で雇われてくれたイレーヌのことを、クオンはかなり気に入っており、自分たち姉妹のことを番号ではなく名前で呼ぶようもしている。


 そんな相手だからか、クオンは無意識の内に〝仮面〟の隙間から〝素〟の笑顔を覗かせながら、七歳年上の美女の頬を両手で摘まみ、ムニムニと引っ張った。


「も~う、相変わらず堅いですよぉ、イレーヌさん」

「申し訳ございません、クオン様」


 頬を引っ張られているにもかかわらず、流暢に言葉を発する、イレーヌ。

 異様と珍妙が仲良く握手をしているような、たまたま家の前を通りがかった人が思わず後ずさってしまうような、不気味さすら覚える光景だった。


「ところで、は今どこにいます?」

「ナイア様なら、本日はクオン様がお戻りになられるということで魔法研究所からお暇をいただき、朝からずっと自室でソワソワしております。大変可愛らしいですよ」


 大変可愛らしいという言葉が、暗号か何かに聞こえてくるほどに抑揚のない声音で、イレーヌは応じる。

 さしものクオンも、思わず噴き出しそうになる。


「わかりました。荷物、お願いしていいですか?」

「勿論です。中のお着替えは全て洗っても?」

「勿論構いませんよ」


 手荷物と一緒に、羽織っていたケープをイレーヌに預け、家の中に入る。

 玄関広間エントランスホールを抜け、塵一つ落ちていない廊下を早足で歩き、家の最奥にある〝妹〟――ナイアの部屋の前にたどり着く。

 ドアノブに手をかけ、開こうとしたところで、クオンはクスリと笑い、


「ナイア、扉の前で待ち構えているのがバレバレですよ」

「も~う、お姉ちゃん。そこはわかってても引っかかってあげるところでしょっ」


 扉の向こうから、クオンとそっくりの声が、されどクオンよりも少女らしい響きに満ちた声が返ってくる。


「ふふふ、ごめんなさいね」

「あ~、その言い方絶対に反省してないでしょ? そっちがその気なら、こっちは真っ正面からお姉ちゃんを驚かせてやるんだからっ」

「それは楽しみですね~」


 楽しそうに、心底楽しそうに笑みを浮かべながらドアノブを捻り、扉を開く。

 直後、ナイアが抱きついてきて、宣言通りに驚かされたクオンが慌てながらも彼女を抱き止めた。


 声はおろか、外見までもがクオンとそっくりな〝妹〟は、クオンよりも少しばかり痩せた頬を笑みの形に変え、自分を抱き止めた〝姉〟を見上げながら勝ち誇ったように言う。


「ほら、驚いたでしょ?」

「驚きましたよ、も~う」


 心底安堵するような声音でクオンは応じ、チュニック型のワンピース――ブリオーに包まれた、ナイアの腰から下に視線を移す。


 クオンとナイアは双子の姉妹であり、見た目と声だけでなく、背丈に関しても相似だった。

 ゆえに、クオンに抱き止められたナイアの脚は床に立っているのが道理だが、


「無茶ができる体じゃないんですから、そういう驚かし方はやめてください。怪我でもしたら、どうするんですか」


 床についたナイアの脚は、力なく垂れていた。

 四年前に負った怪我が原因で、腰から下が不随になってしまったがゆえに。


「そこはほら、お姉ちゃんを信頼してるから」


 そんな身の上とは思えないほどに屈託のない笑みを浮かべ、屈託のないことを言う。自然、クオンの表情が優しい笑みに彩られていく。完全に〝仮面〟を脱ぎ捨てた、〝素〟のクオン・スカーレットの笑みに。


「調子のいいことを言うんじゃありません」


 クオンはナイアをお姫様のように抱きかかえると、腕の中で「きゃ~」と騒ぐ〝妹〟を無視して、窓際にあるベッドに向かって歩き出す。


 魔法研究所で働いているだけあって、ナイアの部屋の壁面は、魔法関連の本が敷き詰められた本棚で埋められていた。

 仕事用として使っている机の上にも、いくつもの本が散乱していた。

 本棚にしろ机にしろ、ナイアが扱いやすい高さのものを揃えているのは言に及ばない。


「相変わらず、女の子らしさの欠片もない部屋ですね」

「部屋には必要最低限のものしか置かない、お姉ちゃんにだけは言われたくないっ」


 そんな〝妹〟の抗議を右から左に流している内にベッドにたどり着き、その上にナイアを座らせる。

 それから車椅子をベッドの脇に移動させた後、クオンはナイアの隣に腰を下ろした。


 示し合わせるまでもなく、クオンとナイアは肩と肩を寄せ合う。

 そして、互いに笑みを深めながら、久方ぶりの家族の挨拶を交わした。


「ただいま、ナイア」

「おかえり、お姉ちゃん」


 そこからは一年間溜まりに溜まった話の種を、次々に満開にさせた。

 首都バルドルの外に出る機会が少ないナイアに、ヘルモーズ帝国以外の国の話を聞かせたり、この一年のナイアの仕事ぶりを聞いたり……どうしても陰惨になる潜入任務に関する話題を、無意識的に、あるいは意識的に避けながら、二人は日が暮れるまで話し続けた。


 だが、


「お姉ちゃん……お姉ちゃんの任務に関わる話になるけど、一つだけ聞いてもいいかな?」


 数瞬迷った後、クオンは諦めたように応じる。


「内容次第ですが、いいですよ」

「やたっ。それならさ、ヨハン・ヴァルナスがどういう人だったか教えて!」


 やっぱりその話ですか――と、心の中で独りごちる。


 正規構成員ではないが、ナイアは元《終末を招く者フィンブルヴェート》であり、現在働いている魔法研究所も、〝翁〟と呼ばれる七至徒の管轄下にある。

 クオンは、ヨハンから得たダルニスの知識を余すことなく帝国に報告している。

 その報告――特に聖属性と闇属性について――を受け、研究を行っている部署こそが、まさしくナイアが働く魔法研究所だった。


 ゆえに、クオンがヨハンと接触していたことも、ヨハンを見逃したことも、ナイアは知っている。

 ミドガルド大陸最高の魔法士を父に持ち、自身も天才魔法士と称されていたヨハンのことを、ナイアが気にかけないわけがなかった。


 だから、この質問は予期していた。

 予期していたが……、


「お姉ちゃん大丈夫? なんか、凄くつらそうな顔してるよ?」


 それでもなお、顔に出てしまった。

〝仮面〟をかぶっていれば顔に出すことはなかったが、〝妹〟と二人きりでいる時は何があっても〝素〟の自分でいたかったクオンは、それを良しとしなかった。

 その結果、ナイアに心配されているのだから、


(ままなりませんね……)


 深く深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すことで、なんとか気持ちを持ち直したクオンは、無理に取り繕おうとはせず、ありのままにナイアに応じる。


「大丈夫です……大丈夫ですが……その話は……わたしの決心がついてからで、いいですか?」

「わかった。でも、話したくないことだったら、無理に話さなくてもいいからね。ちょっとした好奇心で訊いてみただけだし」


 クオンがナイアのことを大事に想っているのと同じくらい、ナイアもクオンのことを大事に想っている……そう確信できるほどに優しい声音で、心底〝姉〟のことを心配しながらナイアは引き下がった。


 沈黙が下りるも、その瞬間を見計らっていたかのように、控えめに部屋の扉をノックする音が二人の耳に届く。

 続けて、イレーヌの無機質な声音が扉の向こうから聞こえてきた。


「お楽しみのところ失礼します。御夕食の御用意ができましたが、いかがいたしましょう?」


 いつでも温め直すことができるから好きな時間に食べに来ていいと、言外に言っていることに気づいた双子は、目配せ一つで意思疎通を完了し、


「今行きます」

「今行くね」


「今行」まで完璧に声を重ねながら応じた。

 イレーヌの手料理を出来たてで食べたいという思いもあったが、イレーヌも出来たてを食べてほしいだろうと思ったからこその即答だった。


「それからクオン様、お荷物の中にナイア様へのお土産と思われる包みが入っておりましたが、今お渡しになられますか?」

「……あ」


 思わず、間の抜けた声を漏らしてしまう。

 一年ぶりにナイアに会えるという想いばかりが先走ってしまい、帝国に戻るまでの道中に見つけた、ナイアが欲しがっていた魔法関連の書物を買って帰っていたことを完全に失念していた。


「おはしゃぎになりすぎて、ついうっかり忘れてしまったのですね。わかります。クオン様のそういうところ、大変可愛らしいとワタクシは思いますよ」

「わたくしも、大変可愛らしいと思いますよ」


 ニヤニヤ笑いを浮かべながらイレーヌに便乗する、ナイア。

 クオンは二人に何か言い返そうとするも、結局反論の言葉が思い浮かばず、色んな意味で熱くなってきた頬を隠すように、掌で顔を覆ってため息をついた。

〝素〟であっても周囲を振り回すことが多いクオンも、愛する〝妹〟と、年上のメイド見習いが相手ではどうにも分が悪いらしい。


「まったくもう……」


 と、諦めたように漏らすと、引き続きからかってくるナイアを車椅子に乗せ、一年ぶりに家族揃っての夕食を楽しむために部屋を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る