第5話
「あ、今、帰りなの?」
それは冬の姿を見ることが減り、春が声を上げ始めていたある日のこと。
「ねえ、せっかくだし、分かれ道のところまで一緒に帰ろうよ」
校門の前で出会った僕たち。
「………………」
僕は彼女の言葉に黙ったまま、頷き返した。
後で考えると不思議だった。
普段なら女子と二人きりで下校するなんてありえないことだ。その日はたまたま良太が掃除をさぼった件で先生に呼び出しを食らい、僕が一人で帰る羽目になった日だった。立花さんも何かの理由で普段一緒に帰っている子が居なかったようだった。いや、たとえ、二人がそれぞれ帰路を供にする相手を失っていたとしても、二人で下校する理由などにはならない。女子と二人で帰っているところを横原や西口あたりに見られたら、どんなからかいのネタにされるか解らない。そんな風に考えて、彼女を振り切って帰っていたはずだ。あり得ない仮定だけど、このとき僕に声をかけたのが、鈴木さんや高原さんだったら、そうしていたような気がする。きっと、立花さんだったから、僕は素直に頷いた。それがなぜなのかはうまく言葉にできなかったけれど。
「もうすぐ卒業だね」
立花さんはまるで明日の給食の献立を語るような調子でそう言った。僕は静かに相槌を打つ。
「いやあ、短かったな。六年間」
「そうかな?」
「うん。そう」
彼女は遠くを見るような顔をした。いや、彼女はきっとこのとき、本当に遠くを見ていたのだろう。自分が歩いてきた過去の道のりという光景を。
「ほんと、短かった……」
彼女の言葉はすうと掻き消え、空気の中の混じる。
舗装されたアスファルトの道を僕たちは歩いている。周りには僕たち以外には誰も居ない。
「私ね」
彼女は言う。
「引っ越すんだ」
「え……?」
僕は思わず、彼女の顔を覗き込んだ。そこにはいつもと変わらない彼女の笑み。だけど、僕はそこにいつもと違う何かを感じ取っていた。
「卒業と同時にお引越し。場所は――」
そこは想像以上に遠くの場所だった。少なくとも、小学生が一人で行けるような場所ではない。
「実はずっと前から決まってたんだ。お父さんの転勤でね。私がわがまま言って、卒業まで待ってもらってたの。おかげでお父さんは今単身赴任」
彼女はどこかバツが悪そうに眉を曲げて笑った。
「でも、もう行かなきゃね」
彼女はそう言って、前を向いた。
僕は何かを言わなくてはならないと思った。彼女が居なくなることが残念だとか、あるいは、何か引っ越さない済む方法はないのか、とか。色々な言うべき言葉は浮かんでは泡のように消えていく。だけれど、その言葉が一つも僕の口元で像を結ぶことはなかった。
二人の間に静寂が満ちる。遠くで鳥の鳴く声がした。鳥なんてどうでもいいのに、なぜかそんな幽かな音が気になった。
沈黙を破ったのは、やはり立花さんの方だった。
彼女は前を見据えたまま言う。
「隣の席になるって、よく考えたらすごいことだよね」
僕は何も応えられず、黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「隣の席になるためには、まず同じクラスにならないといけない。それにそもそも同じ学年にならないといけない。そして、同じ学校に通ってないといけないし、同じ町に、同じ国に生きていないといけない」
彼女はそこで僕の方を横目で見た。
「それって、思ってたよりも、ずっとずっとすごいことなのかも」
僕はこのときの彼女の笑顔が忘れられない。
ああ、この瞬間、僕は一体どんな顔をしていたのだろう。きっと世界一間抜けで情けない顔をしていたと思う。
「ああ、もう分かれ道だね」
気が付けば、僕たちは岐路に立っていた。僕の帰り道は右で、彼女は帰り道は左。ここから先に、この道は交わることはない。
「じゃあね、また明日」
そう言って、彼女は微笑む。
そして、彼女は振り返ることなく、歩いて行った。
僕はひとり、分かれ道に残される。
僕はしばらく彼女の小さな背中を黙って見つめていた。
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