第4話

「おはよう」


「……ん」


 立花さんは相変わらず挨拶をしてくる。僕はいつしか彼女の言葉にたった一言「ん」と返事をするようになっていた。「おはよう」でもなければ、「よう」ですらない「ん」。だけど、それが彼女に対する返事としては一番ふさわしい。なぜだか、そんな風に思っていた。

 最近、少しずつ暖かい日が増えてきた。グラウンドや通学路の端々に徐々に春の気配が見え始めている。あと、二か月もせずに、僕たちはこの小学校を卒業する。だけれど、ほとんど生徒はすぐ隣にある公立の中学校に行く。他の小学校から来る人間もいるから、今とまったく同じということにはならないけれど、少なくとも今ここにいる人間が居なくなるということはないはずだ。

 何も変わらない。

 僕にはそれが嬉しいことなのか、悲しいことなのか解らない。だけれど、少なくとも変わっていくことで慌ただしい気持ちになることよりは良いことだと思う。僕はただ今みたいな平穏な日常がずっと続いていて欲しかった。




「HELLO!」


 妙にテンションの高い外国人のダグラス先生の挨拶。それに素直に返答するのは、僕のクラスでは少数派だ。ほとんどの生徒はぶすりと黙り込むか、申し訳程度に「ハロー」と口ごもるように呟く。ちなみに良太はバカでかい声で「ハロー!」と叫んでいる。そういうところがあるから、忘れ物が多い問題児でもなんだかんだ先生たちに可愛がられている。

 今日は月に一度の外国人の先生がやってくる英語の時間だ。ダグラス先生が来るときは普段の英語のように英語の音楽を聴いたり、映画を見たりする授業と違って、誰かとペアを組んで英語の挨拶をする練習をさせられたりする。僕はこの授業があまり好きではなかった。普段と違って教室の前ではなく、後ろに立っている塚田先生はいつも「隣の者とペアを組め」と言う。隣が仲の良い奴なら、みんなそれに素直に従う。だが、隣が異性だったり、馬の合う相手でなければ、皆、勝手に席を移動してペアを組み始める。この形式の授業が始まったころは、そういった勝手な行動をとる生徒は塚田先生から雷を落とされていたものだけれど、最近はもう何も言わない。先生がどんな風に考えているのかはまったく解らないけど、気の合うもの同士で組めるならそれに越したことはない。だから、クラスメイトたちは勝手にペアを組み始める。

 だけど、これは僕にとって地獄だった。なぜなら、僕にはペアを組む特定の相手が居なかったからだ。僕にとってクラスで一番仲が良いの相手は良太だけれど、良太にとってはそうではない。良太は顔が広い。あいつは前は横原と組んでいたし、その前は川田とも組んでいた。時には女子と組んでいたこともある。あいつは誰とでもペアを組める。それが僕とあいつの違いだ。

 僕はたいていいつも余ってしまって、近くの誰かと先生に組まされる。そのときの僕の気持ちを解ってもらえるだろうか。あの胸をつぶされるような気持ちを味わわされるというだけで、僕は随分と英語が嫌いになった。

 今日も僕は最後まで余るのだろう。そう思っていた矢先だった。


「じゃあ、よろしくね」


 立花さんは挨拶をするときと変わらない朗らかな声で僕に向かって言った。


「え……?」


 僕は思わず、間抜けな声を漏らした。これは完全に予想外だ。

 僕の困惑に反して、彼女は平然としている。彼女は普段と誰とペアを組んでいただろうか。思い出せない。隣の席になるまで、立花さんに注意を払ったことなどなかったから。

 そして、ペアワークは始まった。今日のテーマは道案内。ブラウン先生は授業中は基本的に英語しか喋らない。たぶん、そういう「ルール」なんだと思う。だから、僕たちは先生の英語を聞いて頑張ってその意味をくみ取らなくてはならない。だけど、本当はブラウン先生が日本語がペラペラなのはみんなが知っている。休み時間になると急に日本語話し出して皆を笑わせるのは、先生お得意の「ネタ」になっていたから。

 僕は先生の説明を聞いて、立花さんと向かい合う。


「くっじゅうてるみー――」


 立花さんの英語はお世辞にも流暢とは言えない。いや、もちろん、それは僕もなのだけれど。そんな彼女が一生懸命語る英語を僕は聞き取り、もらったプリントと照らし合わせて、その意味を考える。

 ——公園まで行く道を教えてください。

 僕は道を教える英語の返答をしなくてはならない。

 どう言えばいいのだろう。

 僕は必死に英語の返答を考えながら、頭のどこかでまったく関係のないことを考える。

 彼女は一体どこに行きたいのだろう。

 それは、僕が案内できるような場所なのだろうか。

 僕は立花さんのことを何も知らない。好きなもの、嫌いなもの。普段何をして遊んでいるのか。将来、何になりたいのか。

 ——どんな人が好きなのか。

 ああ、道案内なんかじゃなくて、お互いの趣味を聞く授業だったらよかったのに。そうすれば、本当の彼女の一部を知ることができたのに。

 僕はまた自分が馬鹿なことを考えていることに気が付いて、目を伏せた。

 僕は自分が握ったプリントに力を込める。プリントからくしゃりという音がした。

 立花さんは、僕の道案内の返答をずっと待ったまま、こちらに向かって微笑みかけていた。

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