第3話
僕の新しい席は教室の一番端の一番後ろ。居眠りをしていてもわりとばれにくいいい席だ。だから、僕にとっての隣人は立花さん一人だけだ。
僕はいつも授業中に騒ぎだして皆に迷惑をかける横原や西口のように不真面目ではなかったけれど、ぴんと背筋を伸ばしてノートをとるガリ勉メガネの川田ほど真面目ではなかった。ほどほどに授業を聞いて、ほどほどに勉強する。チャイムが鳴り、授業が始まるとき、僕は窓の外に広がるグラウンドとそれを覆う曇り空を何となく眺めていた。
「号令」
担任の塚田先生が教室に入ってきて、いつもの低く唸るような声で号令の合図をした。それを聞いた学級委員長の宮内は、まるでアナウンサーみたいな声で「起立」と言った。僕は聞きなれた号令に操られるように、自動的にのそりと立ち上がった。
挨拶を終えると塚田先生は言った。
「よし、今日の国語は前回言っていたように久々に教科書を使う。全員ちゃんと持ってきているな?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓はどくんと跳ねた。
まずい、忘れた。
最近、国語は教科書を使わず、先生が用意したプリントだけを使っていた。教科書は前に出された意味調べの宿題をしたときに家に持って帰って、それ以来、そのまま、机の上の肥やしになっている。
僕は先程まで漫然と窓の外を眺めていた自分を殴り飛ばしてやりたくなる。忘れ物をしたときは、隣のクラスに借りに行かなくてはならないのに。休み時間の内に確認していればこんなことにはならなかった。
担任の塚田先生は忘れ物に厳しい。毎回、忘れ物をした生徒はチェックをして、その数が一定以上になると家に電話される。良太なんかは常習犯で、もはや本人も親も半ばあきらめているような有様だけれど、僕は親に怒られるのが嫌だから、普段から忘れ物をしないように気をつけているというのに。
「忘れたものは、素直に起立」
塚田先生の低く唸るような声。教科書を持っているふりをしてもどうせばれる。嘘がばれたらそれこそ大目玉だ。僕は一度深呼吸して、覚悟を決めてからそっと立ち上がった。
僕は一番後ろの席からきょろきょろと周囲を見渡した。良太は案の定、立っている。ヘラヘラと笑っている奴が今日ばかりはすごい奴に思える。
「横原と西口は?」
先生が起立していないが、机の上に教科書を出しても居ない二人に声をかける。二人は渋々立ち上がった。
結局、クラスの三分の一くらい人数が教科書を忘れていた。もし、僕一人だけだったら、もっと縮み上がっていただろうけど、仲間が多かったことで、僕はほっと息をついた。
先生の方も、久々に教科書を使うということで、今日忘れ物が多いことは織り込み済みだったのだろう。いつもほど小言は言わずに「忘れたものは隣の者に見せてもらえ」とだけ言った。
僕の席は一番の後ろの端。だから、僕の隣はたった一人だけ。
「机くっつける?」
僕が声をかける前から立花さんは僕に教科書を示しながら言った。
「あ……うん」
僕はいそいそと自分の机を彼女の方に寄せる。机を放した状態ではさすがに二人で教科書を見るのは難しい。彼女に机を動かしてもらうのも悪いから、僕は自分から動いた。
「よし、では教科書の89ページを――」
先生の声がまるでグラウンドの向こう側から聞こえたように感じた。
――嫌がられるかと思った。
僕はそれほど忘れ物はしない。先生や親に怒られるのが嫌だからというのもあるけど、隣の子に見せてもらうというのが、なんだか嫌だったから。一学期や二学期、忘れ物をしたときは鈴木さんや高原さんじゃなくて、反対側に居た男子に頼んで見せてもらった。
立花さんは嫌がるどころか自分から教科書を見せてくれた。いや、僕の隣は彼女しかいないのだから、彼女が見せてくれなければ僕が困ると思っただけなのだろうけど。
少なくとも言えるのは、彼女はとても優しいということ。
僕は教科書を見るふりをしながら、いつもよりも少しだけ近づいた彼女の方にちらりと目をやる。彼女は真っ直ぐに前の黒板を見つめていた。
家に帰ると僕はゲーム機の電源を入れる。今やっているゲームはモンスターを討伐するゲーム。昨日は良いところまで行ったのに、お母さんがやってきてやめさせられてしまった。今日こそは完全クリアを目指す。そう思って画面に向かおうとしたとき、画面のすぐ側に国語の教科書が置いてあることに気が付いた。
そうだ。これを鞄に入れておかなければ、また明日怒られてしまう。僕は教科書を手に取る。
ぎちぎちに荷物の詰まったランドセルを開けて、教科書を滑り込ませようとした瞬間に思う。
これを持って行かなかったら、明日、また立花さんに教科書を見せてもらえるのかな。
まるで石化させられたみたいに固まってしまった僕の耳に起動したゲームからモンスターの咆哮が響く。それで僕は我に返る。一瞬でも考えてしまった想像が小恥ずかしくて、僕は教科書を乱暴にねじ込んで、コントローラーを握った。
結局、その日はなぜか集中できなくて、お母さんが止めに来る前にゲームをやめてしまった。
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