池女

 光の柱からの薄らぼんやりとした光が消え、店内には一人の客もいない。淹れたての珈琲を持って外に出ると、天井の水面はゆらりと揺れて、そこには紫の光を放つ星が泳いでいる。

 私はアレを近くで見た事があるが、星のように見える半透明の生き物だった。

 これがこの陰の世界の夜だ。

「おぉ、爺さん。今日もか。いい加減に諦めな」

 一番下の地面で牧場をやっているギンジの息子が帰ってきたところだった。

「やめられんよ」

 私はそう返す。ほとんど毎日のやり取りだ。

「そうかい。気ぃ付けてな。人工池は水毬を生んじまうから」

「あぁ。気を付けるよ」

 水毬がうつるという話は奥さん連中の噂話に過ぎない。

 私は人工池の水際に腰を下ろす。

 池の真ん中には朱色のワンピースを着た少女が、三か月前から立っている。

「今日も店終いだよ。お嬢ちゃん」

 私は池の水に珈琲を流し込んだ。まるで飲んでいるように、琥珀色がどこへともなく消えていく。

「お嬢ちゃんね、そろそろ時間が来てしまうよ。その前に話くらい出来ないかね?」

 ポコン、ポコンと音を立てて、水が一しずく舞い上がる。天井がこの少女を呼んでいるのだ。『そんなに寂しいのなら混ざり合おう』と。

 ワンピースから覗く手足は随分と水っぽい。

「家内が生きていたら上手く聞いてやれただろうね。こんな爺と思わず、話だけでもしてみんかね? もう人生八十年になるから人並みの経験はしているよ。池になった事はないけれどね」

 少女の足元から波紋が広がる。

「この世界の未来を見たくはないかね? 私はきっと間に合わないと思うけれど、お嬢ちゃんならきっと見られるよ。あぁ、早くしないと龍神様が困ってしまうな」

 口が滑った。

 ピチャンと音を立てて、少女がこちらを向いた。

 少女に語りかけ続けて初めての事だった。

「りゅうじんさま……だれ?」

 洞窟の中に響くような、高くて折れてしまいそうな声だ。

「天井のすぐ下にお住いの、我ら影の住人の神様だよ。人の言葉を話し、お導き下さる。知らないという事は、お嬢ちゃんは陽の世界の生まれかい?」

 少女は頷いた。

「何がそんなに寂しいのだろうね?」

「彼氏が影柱に入ったって聞いたの」

 少女はどっと話し出す。

「あの人は私がいなければダメな人なの。洗濯物もご飯も掃除も、車で送り迎えだって私がしたの。そんなあの人が影柱に入ってしまったの。もちろん追いかけた。死ぬのならそれでもいいと思っていたの。だってあの人が居ないんだから」

 水面がバシャバシャと波立ち、私が長いこと流し続けた珈琲なのか別の何かなのか、底から黒いものがせり上がって来る。

「訳の分からない世界であの人を探した。何日も探すつもりだったのだけど、結構すぐに見つかったわ。あの人は頭に水毬を浮かべていたの。可哀想にって抱きしめたんだけど、水毬は消えないの。どれほど不安だったのか想いを巡らせて私は泣いたわ。その時のあの人の顔を今も覚えてる。固い表情、少し困っているみたいに見えたの。困っていて当たり前だったのよ。そこに知らない女が現れて、どうしたの? 知り合い? ってあの人に聞くの。それであの人の頬にキスをしたら水毬は消えたわ。それで終わりよ」

 少女は黒い池の上に座り込んでしゃくりあげる。

 これはどうにもならないな、と私は思った。しかしこれだけの負の感情を無駄にするのは勿体ないので、少女にこう言った。

「それは大変な思いをしたね。酷い仕打ちを受けて、その苦しさが寂しさを膨れ上がらせたのだろうね。もう大丈夫だよ。そのまま天井へ行って龍神様を呼んでごらん。きっと道を示して下さるからね」

 少女は縋るように頷く。

「お爺さんがさっき言っていた、この世界の未来ってなに?」

「影で陽の種が芽を出し、陽で影の種が芽を出すんだよ。あとは龍神様に聞きなさい」

 私が言い終わらないうちに少女は水面に体を投げ出し、暴れる黒い池に溶けだした。池は舞い上がる雨のように天井へ向かう。

きっと貴方は立派な種になる。

 どうか許して欲しい。これが私の仕事なのだ。

 天上から風が吹き降りる。


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