逃げ男

 デスクの課長が俺を呼びつける。ヒヤリとしながら言い訳を考えつつ前に立つと、怒号の方がマシだと思えるような溜め息が課長から漏れる。

「シラヌイ。報告書というのはただ報告すればいい、という物ではない。なんだ? どうして相手方は十年も続く我が社との契約を破棄したのだ? なぜ報告書なんだ? 何故すぐに言わなかったのだ?」

「はい。この件に関しましてはウツシに一任しておりましたので、まさか報告していないとは思っておりませんでした。もちろん、私の監督責任はございます。申し訳ございませんでした」

 何とか舌が回った。

「ふざけるな!」

 課長がバン! と机を叩いてからは忙しく謝罪行脚だ。ようやく帰れる目処が付いた頃には月もネオンも燦然と輝き、せっかくの金曜日だって言うのに俺はクタクタだった。

 車に乗り、シートを倒してスマホを取り出すとアミからメールが入っている。

『妊娠を報告してから連絡が取れないのはどういう事でしょうか』

 そういう事だよ。分かれよ、と思いながらメールには体を気遣う言葉だけを書く。

 アミは高校時代の友人だ。みんなに内緒で付き合って三ヶ月。まだ結婚なんてしたくないのもあるが、連絡したくない理由は他にある。借金が三百万ほどあるのだ。毎月の給料は返済に消える。当然、生活費が足りないので借りる。俺はもう火だるまだ。

 コンコン、と車の窓が叩かれた。

 課長だった。俺はシートを起こし、車外に出る。

「お前、今回はもう駄目だぞ。前回のお前の出した損失百万は失敗として処理したが、今回の事で横領として訴えるそうだ。そろそろ真面目に生きろ。二十三だろ? いくらでもやり直せる歳だから。な? 心療内科でも行ってみたらどうだ?」

 課長はポンポン、と俺の肩を叩いて去って行く。

 メールの受信を知らせる音がピコンピコンと立て続けに五つほど鳴ったところで、我慢が出来ずスマホを地面に叩きつけた。画面に映っていたのは友人の名前だった。


 呼ばれたボーリング場に着くと、数人の仲間が待っていた。

「お疲れ! 早くやろうよ。飲み物は?」

 俺の世話を焼こうと隣にべったり張り付くユミはアミの親友だ。

 投げ始めた所で連絡してきたカズマが話し出す。

「実はさぁ、俺さぁ……」

「何だよ?」

「へへっ。うん。結婚するんだよ」

「え? うわ! おめでとう! 盛大に祝ってやるよ! あの彼女だよな?」

 カズマはこの話をしたくて呼んだらしい。

 俺はトイレに立ち、祝い金やらパーティで借金が幾らになるか計算して気が重くなる。

 煙草を吸っているとユミが気付いてやって来た。

「シラヌイ君。大丈夫? 疲れてる?」

「そんな事ないよ。ありがとう」

「そっか。ねぇ、明日って休みだよね? 今夜さ、二人で飲まない?」

「え? いいけど、せっかくならカズマ呼ぼうよ。あいつ結婚するらしいから」

「そうなの?!」

 ユミの残念そうな顔を見て、カズマを呼ぶ理由があった事にほっとする。

 仕事をクビになる前に借金しておかないと、借りられなくなったら祝いどころじゃなくなってしまう。そうだ、その前に俺は横領で捕まるかもしれないんだった。

 ボーリング場に響くピンの倒れる音が、そのまま俺の人生のようで嫌になる。


ふらっと死が頭をよぎる。

けれど痛いのは嫌だ。面倒は御免だ。またアミからメールが届いている。


 結局、友人たちと飲んで何の解決も見出さないまま夜も終わりに近づいた。支払いを済ませると財布の中身が空っぽだ。店の外、寒空にカズマがそれを覗き込んだ。

「ん? お前、空っぽじゃん! まだ給料日は遠いぞ!」

 盛大に笑いだす。それは別のどこかにお金があると思っているからだろう。

 何よりも優先してきた友人たちとの関係だったが、自分との落差が激しい。俺はそれからも目を背け、逃げようとしている。

 金はユミが払ってくれた。

 酒で回らない頭で辺りを見渡す。

 コンビニの灯りに集る虫たちに親近感が湧く。その反対側、駅の階段の登り口にそれはあった。

 夜の闇よりも際立つ黒色。街灯にほんのり照らされた闇の塊。

「おい、シラヌイ。どこ行くんだよ?」

 俺は吸い寄せられるように飛び込んだ。

 俺を呼んでくれる声が心地良い。上も下も分からない闇を歩くうちに酔いが回ってきた。



 ペチペチと頬を叩かれ頭がはっきりし始める。グワングワンとする感覚と吐き気。俺は錆びた鉄板の上に這いつくばっているらしかった。

「起きな。若いの」

「あぁ……頭いてぇ。どこだ、ここ?」

「影の世界っつーところよ」

「影?」

 うっすらと影柱に飛び込んだ事を思い出した。

 俺は生きている。カズマもユミもいない。メールを打っていたはずのひび割れたスマホは電源すら入らない状態だ。

「言っておくが、ここは地獄じゃないぞ。陽の奴らは皆ギャーギャー騒ぐからな」

 聞きたい事が山ほどあり声の主を見ると、言葉が飛んだ。

 厳つい中年だ。スキンヘッドでツナギのような服を着た、俺の膝丈くらいの中年。

「人形みたいだろうが? ん? これはなぁ、身長を売ったんだよ」

「身長を売った?」

「そうよ。こっちでは何でも売れるぜ。身長、性別、寿命、風邪」

「風邪って、そんなの……」

 誰が買うんだと言いかけて、売っていたら真っ先に買うのは自分だと気が付いた。

「ふん。何でも買いたい奴がいるから売れるんだ。買取屋に行けばいいさ」

 それから買取屋に案内してもらう道すがら、影の世界の事を聞いた。

 影柱に飛び込んで死んだと思われていた人間はこっちで生きているらしく、影の住人は陽の世界がある事を知っている。

「なんで俺たちは知らないんだろう?」

「どうせ信じねぇだろう」

「まぁ、確かに」

 買取屋は地上から見て三階の町にあった。俺が寝ていたのは二階だそうだ。

 白い鉄扉を開けると店内には瓶詰めのガラス玉が並んでいる。ガラス玉の中には服の絵や栗色のくるくるした髪の毛、鞄、三年という文字なんかが見える。

 買取屋の爺さんは俺を見て「新人か」と言った。

「そいつは出荷先が決まっとるんじゃ。触らんでくれよ」

「はい。分かってます。で、何でも買い取ってくれるって?」

 何も分からないくせに、俺はそう答えた。こんな性格も買い取ってもらえるのだろうか?

「そうじゃ。何を売りたい?」

「性別を」

 俺は迷わず答える。売ってしまえば、もう男だからなんて言われずに済むんだ。だからと言って女のくせになんて言われるのも御免だ。

「よいのか? 売ってしまえば買い戻すしかなくなるぞ?」

「はい。いくら貰えますか?」

「三百万ラットじゃ」

「それってどのくらい? 何ができる?」

「珈琲は一杯三百ラット。皿洗いの日当は八千ラット程じゃ」

 どうやら、ラットはそのまま円だと思っていいようだ。

「良かったじゃねぇか。これで遊んで暮らせるなぁ」

 小さな中年が言う。

「あぁ。ありがとう。それで売るよ」

「まいど。しかし気を付けるんじゃぞ。労せず得た金は水が流れるが如く消え去る」

 ヒヤッとして口ごもる俺の代わりに小さい中年が返事をする。

「大丈夫さ。こいつだって馬鹿じゃあない」

「お前さんも、もうそれ以上は身長を買う事は出来んからな」

「分かってるよ。行こうぜ」

 爺さんが先端にガラス玉の付いた杖で俺の肩を叩くと、股間にあったものがシュンと無くなるのを感じた。そして幾らか小さく柔らかくなった体で店を出る。


 こっちでの仕事は営為ギルドという所に張り出されていて、依頼一回ずつ報酬をもらえると聞いた。俺は仕事をせず、髪や寿命なんかを売って生活をした。

たまに簡単そうだと思って受けても直前に逃げてしまう。依頼主が神経質そうだったり、思ったより難しそうな仕事だったりという理由はある。

 何年か暮らすうちに仕事を受けても逃亡するという事でブラックリストに載った。

 部屋を借りられなくなった。

 身長を切り売りする事にした。寿命も。

 俺はいつ消えてなくなるのだろう? 一番先に尽きる物は何だろうか?

 こんなに怖いのに、俺の頭にあの水毬は少しも浮かばない。

 カズマに会いたくなったが、こんな姿じゃ会いにも行けない。

 俺はいつ、何を間違えてしまったのだろうか?


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