影男

 空には陽が痛いくらいに煌めき、人々は無表情にすれ違う。大きな荷物の若い女の子が一人で怒鳴っている。耳にはコード。誰もそれに目もくれない。

 サイレンが鳴り、急に白い建物の入り口に人だかりが出来る。それをかき分ける青い制服の男たち。人だかりから毛布にくるまれた人が助け出される。人だかりは蜘蛛の子を散らすように、と言うのはあまりにありきたりな表現だが、本当にそのように散って行った。

 先ほどの女の子は白いスーツの男についてどこかへ消える。

 ふらふらとやって来た大きな帽子の誰かが茣蓙を広げ、帽子を逆さに置き、音楽を奏で始める。竹笛のような声で歌を重ねる。疎らに人が立ち止まり、帽子にはお金が集まる。

 しばらくすると泥棒! という叫び声が轟き、人だかりは魔法をかけられたかのように綺麗に裂ける。泥棒と叫んだ方が二つの鞄を抱えて走り、叫ばれた女は呆然と立ち尽くす。そこでやっと叫ばれた女が気付いて叫びなおす。

「泥棒!」

 最初に叫んだ中年女はスーツの紳士に腕をひねり上げられる。紳士は人の波から飛び出して来たようだ。盛大な拍手が起こる。そこへ二人組の警察官が現れ、女と中年女と紳士を連れて行く。

『ここは何処だ?』

 しかし噂通り、光の柱の向こうには陽の世界があったのだ。ここは陽の世界に間違いないだろう。間違っても影の世界ではない。あんな表情をした人間の頭の上に水毬が浮いてないなんて事がある訳がないのだから。

 俺は思い切って光の柱から出てみた。服装はたいして変わらないはずだが、念のため素色の外套をきゅっと結ぶ。

 光の柱から出ると、光の柱は真っ黒い影になった。

『やっぱり俺たちの世界は影なのだ』と思うと虚しさに支配される。

 歩いてみると地面は酷く熱い。それに空気がカラカラだ。

 石造りの建物はガラス張りになっていて、そこにはチョコレートが並んでいる。道向こうの建物にはドレスや鞄。こんな煌びやかな世界があったなんて、と落胆する。

 俺にはどうしようもなく影がこびり付いていて、溜息が出る程それがお似合いだからだ。

「帰るか」

 とにかく、新入りの言っていた話は本当だったと証言してやれる。それだけで十分だと思う事にした。陽が貧しい心を責め立てるみたいに感じる。

「いや……」

 せっかく来たんだから、せめて高い所から陽の世界を見渡したい。しかしどの建物も、屋上には行けないらしかった。驚いた事に、この世界では高い所から落ちると死んでしまうらしい。赤ん坊は総じて滝を落ちて生まれてくると言うのに。どういう事だろうか?

 トボトボと歩いていると機関車が走るのが見えた。線路は丁寧に整備されており、機関車は煙を吐かず静かに走る。俺は長いこと線路の前に立ってそれを眺めた。

 ふと、隣にぼぅっと立つ男がいるのに気付いた。

いつから居たのだろうか? それにしても寂しくても頭に水毬が浮かばないと言うのは面倒なことだ。心なんていう物は見えなければ分からないと言うのに。

「なぁ、兄ちゃん」

 俺の声に反応した若そうな男は、力のない表情でゆっくりと俺の方を向く。

「んぁ?」

「死ぬ気ならいい所があるぜ」

「なんだ……あんたも同じなのか」

 それ以降はぼんやりとし過ぎていて会話にならなかったが、男はなんとか柱まで付いて来た。

「これって、影柱……」

「そうさ。この向こうには何があると思う?」

「なにも。ただの地獄だろう。まぁ、地獄でもここよりマシか……」

 俺が促しもしないうちに、男はふらふらと影の中に入って行った。

 その後ろから影の世界に戻ると、男はいくらか感情を取り戻したようだった。驚き過ぎて身動きが取れない男は町を見上げる。

 太い光の柱を囲む丸い町。五十階までドーナツみたいな町は続いている。陽の代わりに町を照らす光の柱。空とは水面の事だ。陽の世界で言うところの海かもしれない。それが俺たちの空だ。さらさら、ゆったりと滝が町の端を落ちていく。地面は土。町は鉄。上へ、上へ重なる町。

「これ……これは?」

「影の世界さ。俺たちが立ってるのは一番下の階」

 思い出して見上げた男の頭には、顔より大きな水毬が浮いている。

「おい、兄ちゃん。そりゃあ不味いよ」

「え? なにが?」

「水毬が顔より大きくなったら人工池になるのなんてすぐだぜ? どうした? 話くらい聞いてやるよ。まずは住民登録だ。なぁに、ちょっと胸にチップを埋め込むだけさ。ここが兄ちゃんの言ってた地獄なら、なんも怖くねぇだろ?」

「人工池ってなんだよ? 水毬? 死なせてくれるんじゃなかったのかよ」

「そうだな。その大きな寂しさをどうにか治してから考えようや」

 俺は総合案内所に兄ちゃんを連れて入る。きっと陽の世界に戻る事はないだろう。

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