水毬遊び

小林秀観

影女

 この喫茶店にはあの影柱があるから入りたくないのだけれど、久しぶりの友人たちの集まりで、嫌と言って空気を悪くするのが怖くて来てしまった。

「いらっしゃいませ。五名様ですね。当店はお手洗い前の通路に影柱がございますので、どうかお気を付けてご利用下さいませ」

「え?」

 はーいと返事をする中に一つ、不安げな声が交じる。ユリだ。ユリは物腰の柔らかい子だけれど自分の想いを隠さない。流れに従うだけを良しとせず「それは間違ってる」と主張して嫌われる事も多かったけれど、父子家庭で苦労性な面が仕切り屋のキョウコの自尊心を慰めるようで高校時代から私たちのグループにいる。

「大丈夫だって。あんたは心配性なんだから」

「そうそう。早く行くよ」

 ユリは肩掛けカバンの紐をぎゅっと握って入って行く。私は最後をそろそろと行く。

 レジの左側は通路を広く取ったホールで、ボックス席がぐるっと壁に沿って並んでいる。

厨房横がお手洗いなのだけれど、まるで出入りを阻むかのような位置に影柱がある。

艶のない黒だ。時折りゆらりと揺れて水面のように見えなくもない。お相撲さんでもすっぽり収まりそうな幅の丸い柱。柱というのはただの呼び名で、本当は柱じゃない。触れない黒い空気か空間。それだけだ。それは世界中のどこにでもあって、退かす事も壊す事もできない。そうかと思えば中に入った者は綺麗さっぱり消えてしまうのだ。

この店の影柱の周りには腰ほどの高さの柵が作り付けてある。

「ここのパンケーキが美味しいんだよ。ねぇ、シェアしようよ」

「もちろんだよぉ。ルミもパンケーキ頼むよね? なに飲む?」

「私はレモンティー」

 分け合うとか面倒だ、なんて口が裂けても言えない。

 ユリは影柱に背を向けて座った。

 昔、ユリに聞いた事がある。

隣の一人暮らしのお婆ちゃんの庭にも影柱があった。ユリは学校帰りによくお婆ちゃんの家に遊びに行っていたのだけれど、その日もいつも通りそのまま庭へ入った。

すると角の生えた子供がお婆ちゃんの手を引いて影柱に入って行くところだった。ユリは声を上げて呼んだのだけれど、届かないままお婆ちゃんは影柱に消えて行った。二度とお婆ちゃんは帰って来ない。

 だからユリは影柱を憎んでいるのだと思う。

 実際、これが何なのか誰も分からないという事が私たちの不安を煽っている。絶対に切れない木があるようなものだ。長い棒や板は影柱を突き抜けずに飲み込まれる。世界中のどこにだってある影柱。もちろんこの喫茶店のようにそこに家だって建てられるけれど、生活は得体の知れない不安に侵食される。政府も科学者も「ただいま調査中」ばっかり。オカルト集団が喜んで崇めていたりとか、遠野の語り部が妖しの棲み処だと言っている。

 ただ、親にも友人にも誰にも言えない話だけれど突っ込んだ手は無事に戻って来た。小学校の帰り道にあった空き家で、家の裏に続く細い通路にある影柱がずっと気になっていた。それはお化け屋敷に入りたがる子供と同じくらいの気持ちだった。そして夏休み直前の暑い日、突っ込んだ手は身震いするほどの冷たい空気に触れた。確かに影柱は私の手をすぅっと飲み込んでいたけれど、引いたらあっさりこちら側に戻って来たのだ。

「ねぇ、ルミ。聞いてた?」

「え? ごめん。ぼぉっとしてた。何の話?」

「もぉ。だからね、アキがブログに妊娠五か月って自分の腹の写真載せてさぁ。結婚指輪の時だってそうだったじゃない?」

「なんかのブランドなんだっけ?」

 私は適当にどっちつかずの言葉を選ぶ。

「そうだよ! 嫌な奴だよね! ダブルおめでた婚とか、ただの出来婚だろって言うの」

「そう言えばキョウコはあの優しい彼氏とどうなったの?」

 ヒートアップしていく様子の悪口に居心地が悪くなり話題を変える。

 ユリも、こればかりは黙ったままだ。前に一度「悪口は嫌い」と言って「偽善者」なんて嘲笑われたことが理由だろうと思う。それでもユリはこのグループにいる。一人でいた方がよっぽど楽だろうに。私も同じだから人のことを言えないけれど。

 結局、私たちは寂しいのだ。一人では気が狂ってしまいそうなのだ。

「全然ダメ。束縛が酷くて困るんだよ。グループのメッセまで見たがるんだよ?」

「えぇ? 愛されてるんだよ」

「そうかなぁ?」

 キョウコの機嫌のいい顔を見て、自分の返事が合っていた事を知る。

 パンケーキを食べている間も、ユリは無口だった。

 ガタンと、ユリが鞄を持って席を立つ。すると待ってましたと言わんばかりに始まった。

「なにアレ? 私が悪いって言いたいの? ねぇ? アキが嫌な奴なのは私のせいですかってぇの」

「だよねー。ノリ悪いよね」

 こういう時、私は私が嫌になる。決して同調しないのに笑って合わせたふりをする。私はユリが羨ましい。私がユリみたいに言えたら一人で楽しく生きるのに、といつも思う。

「あれ、アプリに入金ある」

 キョウコが割り勘アプリの画面を見せながら言う。

「ユリ?」

「そう。なに、帰ったの? マジ問題児」

 私は気になってトイレを覗いてみた。トイレは空。影柱の柵が一本だけ折れていた。

 それを見る私の隣で店員さんが溜息を吐く。

「すみません! ただいま影柱の柵が折れているのが確認されました。お隣にいた方は今もいらっしゃいますでしょうか? ご家族、ご友人はいらっしゃいますでしょうか? 今一度ご確認下さい!」

 私は静かに席に戻る。


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