第778話 2021/11/30 言葉とか

 本日は10時半起き。耳の奥に違和感がある。外は晴れているが低気圧が近付いているらしい。頭がフワフワして上手く動かない。ぬあー、今夜は雨か。あんまり書けないかも知れないなあ。


 言葉には現実を写し取る力がある。それどころか現実には起こりえない「超現実」すらも描写することができる。小説などその最たるものだ。しかし同時に、言葉に写し取れる現実は、現実の一部でしかない。

 言葉に言葉を重ねて目の前で起こった瞬間を完全に写し取ろうという実験は、文学の世界ではまま行われていることだが、果たして「完全な描写」が過去にあったのだろうか。虫けらは文学にあまり興味がないので寡聞にして知らない。しかしおそらくは不可能ではないかと思っている。

 とは言えこれは文学が他の表現に対して劣っている部分という訳ではない。それが写真や絵画という画像であろうと、あるいは映像作品であろうと、現実の完全な描写にはほど遠い。それを見る者、読む者の想像力で補完してもらうことを前提としてあらゆる表現は成立しているのだ。

 たとえば映像作品は目の前の光景をフィルムなり磁気メディアなりにそのまま写し取っているのだから、完全な描写のように思えなくもない。だが実際には映像は不完全極まりない。何故なら温度が伝わらないからだ。小説なら「真夏だ」の3文字で伝わる情報を観客に理解させるために、映像作品ではまず真夏のギラギラ輝く太陽を写し、つぎに汗だくで上着を手に持つスーツ姿のサラリーマンを写し、その背後にセミの声を効果音として流さねばならない。そこまでやって、ようやく3文字分の情報なのだ。

 他にも甘い辛い、美味い不味いなども伝わらないから、役者のセリフや表情で説明しなくてはならない。どれも小説なら1行で片がつく。などと書くと、まるで文章は映像より優れた表現手段であるかのような印象を受けるかも知れない。しかし文章には文章で映像より苦手とする分野もある。それが正確性だ。

 映像なら主人公がどんな顔をしているか、冒頭で数秒アップにすれば終わりだ。だがこれが文章ではできない。太い眉、と書いたところで眉の太さなど読者それぞれで感じ方は違うし、通った鼻筋と言われてもどの程度通っているのかわからない。理知的な瞳、なんて書かれたらもう想像するのを放棄したくなる読者だっているだろう。

 ことほど左様に、文章は対象を正確に表すのには不適切な表現手段である。したがって人物の外見などを描写するときには、読者には正確に伝わらないという前提で幅を持たせて書く必要がある。あるいは一切外見の描写をしないという思い切りが求められる場合もあるだろう。

 この文章の正確性のなさがどこから来るのかと言えば、1つには言葉から受ける印象が読者個人レベルで異なるからだ。こんな表現をする作家がいるかどうかは知らないが、「右方向10メートルの距離に敵が出現した」と書いてあったとする。これは内容的に正確な表現であるのかも知れない。だがやってみればわかるが、10メートルを正確に目測できるのは、かなり特殊な人間である。まして頭の中、イメージの中の10メートルなど人によって距離感が全然違うのだ。物凄く近い人もいれば、ビックリするほど遠い人もいる。文章による描写はこのことを前提として書かれなければ読者は混乱するだろう。

 また、文章を構成する言葉、単語の持つ不正確性や曖昧さも原因ではないか。右か左か、上か下か、甘いか辛いか、美味いか不味いか、それくらいは文章で問題なく表現できるが、そこには「どのくらい」という程度を表現する言葉が欠けている。この「どのくらい」を正確に表現しようとすると、文章は冗長にならざるを得ない。

 冗長にならないための工夫として、たとえば方向なら軍隊などで用いられるアナログ時計の文字盤で言い表す方法がある。「3時の方向」なら右真横、「11時の方向」なら左斜め前となる。これは比較的正確に伝えられるはずだ。

 ただし文章の中で何度も方向を示さねばならないとき、セリフとして「3時の方向」が出た後、地の文でも「3時の方向」を繰り返すのは不格好だし読みづらい。そこで右側、右真横、などの言葉に置き換えることになるのだが、これが「3時の方向」なら話は簡単だ。問題は「5時の方向」などである。これは右斜め後ろと置き換えられるが、それ以外に置き換えようとすると、右側なのか後ろなのかで迷うことになる。意味合い的にはどちらも正しいのだが、この「どちらも正しい」が、文章の不正確性を増しているように思う。

 また、現実と単語の意味がうらはらである場合もある。「躍動感」という言葉があるが、どんな姿に躍動感を感じるだろう。一例としては2006年の長編アニメ映画「時をかける少女」のポスターなどが挙げられる。あの空を跳ぶ主人公のポーズは躍動感があると解釈できる。言葉の意味合いとしては。

 だが現実として、あのポーズに躍動感を実感した人がどれだけいるだろう。たとえばデッサン人形にあのポーズを取らせたら、そこに躍動感はあるだろうか。もちろん人によるのだろうが、少なくとも虫けらはそこに躍動感を見出せない。「躍動感のあるポーズ」では躍動感を覚えないのだ。

 さて南米の国ペルーの首都リマ近郊のカハマルキージャで、古い墓から推定800年~1200年前のミイラ1体が発掘されたのだそうな。以下のURLでそのミイラの写真が見られる。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35180082.html

 別に怖い写真ではないので、是非見ていただきたい。両手で顔を覆い、両脚を胸元にしゃがみ込むような姿勢で、全身を縄で縛られている。非常に窮屈な姿勢と言っていい。だが虫けらはこの写真に躍動感を覚えた。「いまにも動き出しそうな」という言い回しがあるが、本当にそんな感じがしたのだ。これを「躍動感」という単語を使わずに文章で表現するのは非常に難しい。だが「躍動感」を使って表現したとしても、「躍動感のないポーズに躍動感を覚えた」みたいな意味不明な文章になってしまうだろう。

 まあ虫けらの文章力の底が浅いのだと言われてしまえばそれまでなのかも知れないが、文章表現とは何とも奥が深いものであるなと1枚の写真を見て感じた次第。


 日本政府は本日30日の午前0時より、全世界からの外国人の入国を停止した。新型コロナウイルスのオミクロン株が欧米各国に広がっていることを受けての対応だ。判断が速くわかりやすいのは評価していいと思う。メッセージ性はバツグンである。

 ただ「良い判断」ではあるものの、「正しい判断」であったかはまだわからない。岸田首相は「全責任は自分にある」と明言しているようだが、それは潔いと評価できる反面、首相なら当たり前の話でもある。これを立派だと持ち上げるのは、以前の政権が酷かったと言っているのと同じだということは右も左も理解すべきだろう。

 とにかくこの手の対応は「巧遅より拙速」である。人的被害が小さければ、それ以外のことは何とかなる可能性も残るのだ。とりあえずいまはオミクロン株による被害が最小限に抑えられるよう、関係各所に頑張っていただくしかない。虫けらにできるのは祈るだけだろうか。


 本日はこんなところで。昨日は何とか2000文字。果たして今日はどうなるだろうか。

 はあ、明日から12月かあ。どんどん時間が過ぎて行くなあ。

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