第584話 2021/5/20 選択的夫婦別姓

 本日は12時起き。また昼か。外は雨。湿気に溺れそうだ。何気なしにTwitterを開いたら、ベルセルクがトレンドに。「新刊でも出るのか? まーた作者死亡説を流してるヤツがいるんだろうな」と思ってのぞいてみたらマジで作者が死亡していた。はあ……。ため息しか出ない。54歳て。

 ベルセルクには印象的なシーンが多いが、その中でも個人的に一番最初に思い出すのは、イシドロが登場したときのエピソードで、ガッツがクシャーンの斥候を見開きでぶった切ったところ。「上手い!」って思った。ただ単に絵が上手いだけの人でない事など最初からわかってはいたが、あの見開き一枚絵に最低限の動きを描き込むだけで恐ろしいまでのスピード感を与えていたのを見て、ただただ圧倒された。

 日本におけるファンタジーの歴史など虫けらは理解も承知もしていないのだが、それでもおそらくは、ベルセルクの登場以前と以後でその有り様は変わったのではないか。あれだけの作品が出て来て変わらない訳がない。そう強く思わせる漫画だった。未完に終わったのはひたすらに残念である。三浦建太郎氏のご家族にはお悔やみを申し上げると共に、氏の偉大なる功績を称えたいと思う。

 凄いのだ。本当に凄い漫画家なのだ。ベルセルクは長すぎて全部は読めないと言う人は、ロスト・チルドレンの章だけでも読んで欲しい。「ダークファンタジーとは何か」という問いの1つの解答であると思う。


 昔、アメリカの映画だったかドラマだったかに「ミツビシ」という姓の人物が登場した事がある。ただ作品名がわからない。かなり一生懸命ググってみたのだが情報が見つからなかった。まあ当時も当然の如く批判されたのだが、製作者側は「日本ではありふれた名前だ」と言い張ったらしい。さぞアメリカには「スリーポインテッドスター」みたいな苗字が多いのだろうな。

 事ほど左様に海外からは難しいと思われがちな日本人の名前であるが、冷静に考えてかなりシンプルで簡単な方ではないかと思うところ。確かに日本人の名前にはある種のクセがあるものの、それさえ理解すれば自由度は高い。

 フィクションの登場人物の名前を考えるとき、日本人の名前ほど楽なネーミングはないだろう。何せ自然を表す言葉を2つ組み合わせて姓とし、3音くらいの名前をつければ日本人の名前としてさほど無理はなくなる。

 たとえば名前を川から始めるとして、「川空ひらり」だとか「川山ころり」だとか「川海はらり」だとか、特徴はあるが探せばいそうな名前が簡単に創り出せるのだ。海外の人名のように、やれ親の名前がこうだから子供の名前はこうならねばおかしいだの、ファーストネームとミドルネームのバランスがどうだのといった縛りが一切ない。これは明治8年(1875年)の平民苗字必称義務令によって初めて姓というものを得た人々の子孫が国民の大半を占める我が国ならではの現実なのではないか。

 銀河英雄伝説で子供の頃のラインハルト・フォン・ローエングラムが転校してきた際に自己紹介すると、「あんなのでもフォンが名乗れるんだな」みたいな嘲笑が湧くシーンがあるが、一般的な日本人はこれが悪口であると理解はできるものの、「あるある」とは感じない。たとえば転校生の山田一郎に対し「あんなのでも山田が名乗れるんだな」なんて陰口は日本では存在しない。まあよほどのキラキラネームなら別だろうが。

 そう、このミドルネームというヤツがまた厄介なのだ。ミドルネームのある国は多いが、歴史や文化によって付け方が異なるからな。日本にだって昔はミドルネームがあった。源九郎義経だとか木下藤吉郎秀吉だとか。ただ日本の場合難しいのは、九郎とか藤吉郎はあざなないし仮名けみょうである。つまりミドルネームというよりニックネームに近い。これは3つ目の義経だとか秀吉とか(いわゆるいみな)を呼ばないための名前だ。だから人前で「おい、木下藤吉郎秀吉!」なんて失礼な呼び方は織田信長だってしなかった。海外のミドルネームとは意味合いが違うものなのだ。

 さらに言えば昔の日本人の名前はときどき変わる。秀吉は木下姓から羽柴、そして豊臣へと変わるが、最終的なフルネームは豊臣朝臣とよとみのあそみ羽柴藤吉郎秀吉となる。豊臣が氏名うじな、朝臣がかばね、羽柴が苗字、藤吉郎が字で秀吉が諱である。覚えきれるかぁっ! と正直思う。こんな時代の武士に生まれなくて本当に良かった。

 そう、現代の我々の世界に武士階級は存在しないし、いまは「こんな時代」ではない。「姓」を考えるとき、この共通認識は必要だ。

 19日、「選択的夫婦別姓制度」の導入に慎重な自民党有志議員が中心の議連、「婚姻前の氏の通称使用拡大・周知を促進する議員連盟」が、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と、麗澤大学教授の八木秀次氏を講師に招いて国会内で会合を開いた。

 この席で櫻井氏は自民党に対し、

「保守政党らしからぬ政策提言、法案の提出、そしてそれを通そうとする非常に強い動きに大変な危機感を感じている」

「保守は、よりよい社会や国をつくるために変化はするが、その本質は変えず守っていくことだ」(以上産経新聞)

 と述べ、また八木氏は、

「多くの人は子供の氏が決まらないことや、氏の取り合いが起こることを懸念して結婚や出産を躊躇ちゅうちょする。逆に少子化が進む可能性がある」

「現在の戸籍制度の下では、旧姓の通称使用を拡充することが最も現実的な解決策だ」(以上産経新聞)

 と述べた。

 まあ虫けらは櫻井氏の言う「保守」ではないのだろう。正直、何を言っているのかサッパリ理解できない。これは「選択的」夫婦別姓の話であるはずだ。「原則的」でも「強制的」でもない。あくまでも制度の問題であって、歴史の問題でもプライドの問題でもない。そりゃそうだ、我々が苗字を得てまだ150年も経っていないのだから。

 たとえば日本国民の5割以上が選択的夫婦別姓に絶対反対であり、そんなものを強制的に導入するなら国会の前で腹を切って自殺してやる! くらいの思いであるというのなら、もちろん民主主義国家として導入するのは明らかに間違いだと言える。だがその辺、実際はどうなのだ。「どっちでもいい」が一番多いのではないのか。

 彼ら議連は夫婦別姓など導入する必要はないと主張する。旧姓の通称使用は現在でも認められており、これをより整備すれば問題はないはずだと。しかしその程度で問題がない話であれば、変えたってたいした問題にはならないはずではないか。

 絶対多数派ではないにせよ、変えて欲しいという声に対して「こうこうこういう問題が生じるから変える事はできない」と答えるのならまだしも、「変えなくても問題はないはずだから変えない」という返事は真摯に向き合っているとは言えまい。

 子供の苗字をどうするのかなど、結婚する本人同士が話し合って決めれば済む。日本人にはそれすらできないとでも言う気か。まして少子高齢化が進む「可能性」があるなど、話にもならない。理屈と膏薬はどこにでもつくのだ。可能性など何にでもある。虫けらが結婚できないのは少子高齢化を進める可能性があるからと主張すれば結婚相手を探してくれるのか。そこまで国民の白痴化がお望みか。

 虫けらは憲法改正派であり、夫婦制度についても改正派である。保守主義を否定する訳ではないが、法律であれ制度であれ、時代に応じて変化すべきものは変えていかねばならない。守ると称して古いものにしがみつく行為に意味など見出さない。藤浦洸氏が作詞し、藤山一郎氏が作曲した、昔懐かしい『ラジオ体操の歌』の歌詞はこう始まる。

「新しい朝が来た 希望の朝だ」

 明日の朝は新しく希望に満ちた朝でなくてはならない。いつまでも昨日ばかり見つめている朝であってはならんのだ。


 本日はこんなところで。大ネタ1つになってしまった。時間がないので煮詰め切れていない感がアリアリなのだが、まあ昼まで寝ていたのだから仕方ない。明日は何とか希望に満ちた朝になって欲しいところではあれど、また雨なのだよなあ。何とかならんか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る