第127話 2020/2/18 免罪符とか

 本日は5時起き。なので朝からエアコンのフィルター掃除をして、確定申告の準備を少し始めて、あと米を炊いておかずの下準備をした。普通の生活をしている普通の人なら毎日やってるレベルの事なのだろうが、生憎と虫けらには、相当に思い切らないとここまでできない。と言うか、このレベルでもうヘトヘト感が漂っている。ふへへへ。今日一日無事に過ごせるだろうか。果たして。


 現在サン・ピエトロ大聖堂と言えば、バチカン随一の観光名所。しかし、そもそもはローマカトリック教会の総本山である。初代サン・ピエトロ大聖堂は4世紀から5世紀にかけて建築された建物だったが、その大規模な改築が開始されたのは16世紀に入ってから。現在見られる形にほぼ完成したのは17世紀も終わりの方だったらしい。

 ローマカトリック教会は当時の欧州世界では中心といって良い存在であったが、それでも魔法が使えるわけではない。サン・ピエトロ大聖堂の大規模改修工事は教会の予算を圧迫した。このとき教会はどうしたか。市民から金を集めたのである。しかし教会の中に売る物など、そう大してない。ではどうやって多額の金を集めたのかと言えば、かの有名な『免罪符』を乱発したのだ。

 贖宥状しょくゆうじょうとも言われるこれは、金を出して買うと罰が許されるという物だ。書き間違いではない。符と呼ばれていながら、罪が免ぜられる事はない。ただ罰が免ぜられるだけなのだ。金で天罰の執行猶予が得られると考えればわかりやすいか。

 免罪符の発想は、ローマカトリック教会独特の物ではない。ダイレクトに現金にからんでいる点はユニークだが、「簡単な行為で神仏の大きな恩恵を期待できる」というのはいろんな宗教にある発想だと言える。

 仏教で言うなら、中に経文を詰めたマニ車を回すと経文を読破したのと同じ価値があるとか、経文のタイトルを口にしただけで仏の加護を得られるとかいうのも、同じレベルの発想ではないか。あるいは神社で買う(頒布と言わねばならんそうだが)交通安全のステッカーなど、免罪符と何が違うのかと思う。

 そんな免罪符だが、キリスト教徒とて呑気にいつまでもホイホイ買っていた訳ではない。1517年には上記のサン・ピエトロ大聖堂の工事にまつわる免罪符の発行に、かのマルティン・ルターが噛みついた。これが宗教改革の始まりとなり、やがてプロテスタントが誕生するのだ。

 さて17日、横浜地方裁判所では、2018年7月に津久井やまゆり園で起きた、いわゆる『相模原障害者施設殺傷事件』の犯人、植松聖被告の15回公判が行われ、検察は死刑を求刑した。

「特異な考えに基づく確信犯で、被害結果は類例を見ず極めて重大。極刑以外の選択の余地はない」(読売新聞)

「障害者を1人の人間として尊重する社会の価値観と相いれない犯行で、酌量の余地はない」(NHK)

「単独犯として類を見ない極めて重大な事件。遺族の処罰感情も峻烈しゅんれつだ」(朝日新聞)

 等々、検察側は主張している。まあ、妥当な求刑ではないか。シンプルに考えて人殺しである。死刑で問題はないように思われる。

 しかし世の中には植松聖を擁護する者もいる。彼らは言う。障害者問題は「綺麗事じゃない」のだと。確かにそれはある面その通りではあると思う。ただ忘れてはならない事が一つある。障害者問題が「綺麗事じゃない」のは、彼らが障害者だからではない。彼らが人間だからである。

 植松聖はこう言った。「意思疎通のできない障害者は不幸を生むだけだ」と。「綺麗事じゃない」目で見れば、それは嘘ではないだろう。だが同じように「綺麗事じゃない」目で、見る方向を変えてみたらどうなる。「綺麗事じゃない」目で健常者を見たとき、何が映る。意思疎通のできない健常者はいないのか。不幸を生むだけの健常者はいないのか。

「健常者には、それを自分で何とかできる可能性がある」と言う者もあるかも知れない。だが、それこそ「綺麗事」以外の何物でもないのではないか。実際には「どうしようもない、どうにもできない」のが現実世界の健常者だろう。「綺麗事じゃない」目で見たとき、植松聖の理屈を肯定したとき、そこに生きる意味と価値のある者が、どれだけ残るだろう。そしてそれを一方的に勝手に断定する資格が誰にあるだろう。

 間違いなく言える事は、「綺麗事じゃない」は免罪符ではない、免罪符たり得ない。人殺しは人殺しとして罰を受けねばならないのだ。死刑は妥当であると思う次第。


 暗い話題ばかりで申し訳ないが、昨年5月に滋賀県大津市で保育園の園児たちに車が突っ込んだ事件を覚えておられる方も多かろう。この裁判の判決が17日、大津地裁で下された。検察の求刑禁錮5年6ヶ月に対し、禁錮4年6ヶ月の判決。遺族らは納得できないと述べているらしい。

 まあ2人殺して14人に負傷させて4年半である。自動車運転処罰法違反ではこの程度がせいぜいなのかも知れないが、軽すぎるという声があっても当然と言える。

 そもそもこの53歳の女の被告、事故を起こしてからストーカー事件を起こしたり、自分は悪くないとメディアに吹聴したりと、かなり人格的に問題がある人物であり、遺族が「被告のこれまでやってきたことがひどすぎるので、今日の態度を見て反省を感じませんでした」(京都新聞)と述べるのも無理はないのだ。この後控訴して訳のわからん主張を始めるのではないかなあ。イロイロとウンザリする。


 今日も今日とてまた新型コロナウイルスの話題。はあ、イヤになる。宮内庁は17日、今月23日の天皇誕生日に皇居で予定されていた一般参賀を中止すると発表した。新型コロナウイルスの感染拡大を懸念しての事であるそうな。

 まあ去年までも一般参賀は毎回立錐の余地もないほど人が集まっていたからな。まして今年は新天皇の即位後初めての一般参賀である。物凄い人数が集まるのは目に見えている。爆発的な感染拡大が起きても不思議はない。中止にするのはやむを得まい。

 て言うか、新型コロナウイルスだけの問題ではなかろう。たとえばインフルエンザが大流行したら一般参賀中止とか、そういう事も考えるべきではないか。一般参賀であれ大規模スポーツ大会であれ、伝染病の流行にもうちょっと配慮すべきだと思う。

 などと言うと「たかがインフルエンザくらいで」と言い出すヤツが出て来たりする。だがアンタが次にかかるインフルエンザが、従来の薬の効かない新型ではない保証はどこにもないのだ。

 もちろん「怖いぞヤバいぞ危ないぞ」と無闇にパニックを煽るのは決して許されるべきではない。政府もメディアもちゃんとした情報を流すべきである。ただ、日本社会は伝染病というものにもう少し神経質になっても良いように思うところ。いつまでも風邪ひいて休んで怒られるような国であってはならない。


 新型コロナウイルスは香港でも問題となっているが、この問題が表面化して以降、何故か香港ではトイレットペーパーが不足しているらしい。あちこちで買い占めが発生し、トイレットペーパーの強奪事件まで起きているとのこと。何故だ。マスクがなくなるのは理解できるが、トイレットペーパーを何に使うのか。

 まあこれも、風が吹けば桶屋が儲かる理論なのだろう。世の中は不思議である。


 昨日九州では初雪を観測し、東海地方では春一番が吹いたそうだ。季節の変わり目であるな。


 今日はこんなところで。うう、寒い。最高気温が10℃を超えるのと超えないのとでは雲泥の差だな。とりあえず今日は家の中でおとなしくしていよう。

 昨日は0。ゼロだ。まったく何も書けなかった。いや、ミステリーには手を入れられたのだが、『魔獣奉賛士』は何一つ思い浮かばず、ただぼーっと時間を過ごしてしまった。

 ミステリーは無事8万字を超えた。できればあと2万字増やしたい。何とか頑張ろう。とはいえこちらには締め切りがあるからな。どうなる事やら。

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