第94話 2020/1/16 感染とか

 本日は4時起き。さて、二度寝はするのだろうか。眠いしな。するかも知れない。とりあえず1時間ほどは小説を書こう。昨夜は全然書けなかったしな。

 と、ここまでは書いたのだが、その後の記憶がない。目が覚めたら10時過ぎ。何やかんやして朝食を食ったらもう12時だ。これでは何もできない。廃人か? まったくもうどうすれば良いのやら。


「生きた化石」とは太古の化石時代から形態の変わっていない生物を指す。カブトガニやシーラカンス、ムカシトカゲなどが有名であるが、ゴキブリもそうらしい。そこだけ見るとまったく有難味がないな。もちろん動物だけではなく、植物にも生きた化石はある。日本に馴染みが深いところでは、イチョウやソテツがそうである。そしてメタセコイアも。

 メタセコイアは1939年に日本で化石が見つかったことでメタセコイア属が設けられたのだが、その後1946年に中国の湖北省(当時は四川省だったらしいが)で現存している事が確認された。その後、苗や種は世界中に広がり、いまではいろんなところにメタセコイアが生えている。日本にもメタセコイア並木があるのだそうな。

 そんなメタセコイアを市樹としているのが、中国湖北省の武漢市。ここではいま、新型コロナウィルスによると見られる肺炎が流行中である。日本の厚生労働省は16日、武漢に滞在していた神奈川県在住の中国籍の男性が、帰国後に肺炎の症状を訴え、新型コロナウイルスへの感染が確認されたと発表した。国内で感染が確認されたのは初めてだ。感染源と噂される海鮮市場には接近していないものの、肺炎患者とは接触したとの事で、ヒトから感染した可能性がある。

 男性の症状はすでに回復し、15日に退院して自宅で療養しているとのこと。ネットの巷ではこの対処に危機感を覚えた声が上がっている。「パンデミックが起きるのでは」と。ただ、中国当局の言葉を真に受けるのは危険だと虫けらも思いはすれど、それでもまだ武漢においてさえパンデミックと呼べるほどには流行していないのではないか。

 現地の報道では患者数は41人、死者は1人である。ヒト-ヒト感染の可能性は捨てきれないと保健当局者は述べているそうだが、もしこの数が正確であるのなら、そう大した感染力はないはずだ。武漢市の人口は860万人弱、大阪府の人口と同レベルと言える。そこでの感染者が41人。そんな病気が日本に入ってきたからといって、一気に何万人も肺炎を起こすとは考えにくい。エボラや狂犬病が入って来たのとは訳が違う。そう慌てる事はないように思うのだが。

 変異のサイクルが早いウィルスに生きた化石は存在しない。いまは怖い怖いと言われる新型ウィルスも、そのうち簡単に治療・予防ができるようになるだろう。来年の今頃はもう別のウィルスが話題になって、いま騒がれている型のウィルスは忘れられているのではないか。油断してはいけないが、安易にパニクるのもどうかと思うところ。


 15日、ロシアのメドベージェフ内閣が総辞職した。プーチン大統領が憲法改正案を発表した事を受けての総辞職らしいが、よくわからない。今後ロシア連邦安全保障会議に、これまでなかった副議長のポストを新設し、メドべージェフ氏をあてる意向を大統領は示したと報じられている。ロシア連邦安全保障会議の議長はプーチン大統領であるから、ナンバー2の位置にあるのはこれまで通りとも言える。しかし新首相に指名されたミハイル・ミシュースチン氏は現在連邦税務局長官とは言え、ほぼ無名の人物と言って良い。この大抜擢にどんな意味があるのだろうか。

 いかなプーチン大統領とはいえ、永遠に存在する訳ではない。いずれ後継者に権力が移譲されるときが来る。そのとき、すんなりメドベージェフ氏に権力が渡る事はもうないのだろう。波乱の始まりなのかも知れない。


 イランがウクライナ機を撃墜した事を認めて以来、国内では抗議デモが続いているが、そんな中、撃墜の瞬間を撮影し、その動画をネットに流したとされる人物が、革命防衛隊に逮捕されたとの報道がある。「国家安全保障に関わる罪」に問われたのだそうだ。有名なロシアンジョークを思い出す。

 まあ革命防衛隊はロウハニ大統領の管轄下にはないから、抑える事ができなかったのだろうが、何とも愚策である。国際社会も国民も、より反発するだろう。ロウハニ大統領を引きずり下ろしたい勢力にとっては願ってもない状況なのかも知れない。アメリカのトランプ大統領あたりは、「それ見た事か」とイランを責め立てる可能性がある。それは話をよりややこしくするだけなのだが。


 今日はこんなところか。はあ、頭が回らない。

 昨日は1500文字も書けなかった。今日はどうなるだろう。何とか自分のケツを蹴り上げないと。

 オリジナリティという言葉に辟易する。オリジナリティとは独創性である。すなわち「他の作品に見られない独創的な部分が存在しているモノ」を、オリジナリティが「ある」と言うのであって、「他の作品に似た独創的ではない部分が存在しているモノ」をオリジナリティが「ない」と言うのではない。だがテレビ番組などで新しい作品が集中的に始まるこの時期、後者の使い方で「オリジナリティがない!」と主張するレビューや評論の多いこと。「この作品はこれこれこういうモノをパクってるからオリジナリティがない」などと書いているヤツにはまったく信頼が置けない。クソのような文章である。

 オリジナリティとは発露するものではあるが、それを見つける能力が欠落していては見つからないし理解できない。もちろん能力のない事は罪ではない。しかし能力がないくせに他人のオリジナリティを潰そうとするヤツは許し難い。レビューや評論はオリジナリティという言葉を使わなくてもできるはずだ。オリジナリティを見出す能力がないのなら、その言葉を使わなければ良い。オリジナリティという言葉で他人の作品に、ひいてはその製作者に点数をつけレッテルを貼るのであれば、オリジナリティを見出す能力が自分にあるかどうかくらいは理解しておくべきではないかと考える次第。

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