③母
愛したあの子はもういない。
靴は遮断機の前。赤黒い汚れを付着させた制服と靴、髪の毛を幾つか。そして白い骨だけを残して、私の愛した娘はこの世からその姿を消してしまった。
「これは自殺です」
「散り散りになった娘さんの肉片は、烏たちがみな食べてしまいました」
冷たくそう言い放った警察官の言葉を何度も繰り返しながら、私は仏壇に置かれた遺影写真に再度目を向ける。
四角い枠の中から優しい笑みを向けてくれるみのり。私の愛娘であり、唯一の理解者であった彼女が死んでから、私の日常は大きく変わってしまった。
筆頭は、毎日といっていいほど顔を合わせ、それなりの関係を築けていた近所の主婦たちと顔を合わせなくなったことだろうか。今までは彼女たちの悪意の標的にならないようにするために仕方なく話を合わせていたが、彼女たちがみのりの死について
「可愛らしいお嬢さんだったのに残念ね」と語りかけてきたのがきっかけで――どうでもよくなってしまった。
可愛らしいお嬢さんだったのに、残念ね? みのりは私の心を理解し癒してくれる優しい子で、私唯一の拠り所。「可愛らしい」という陳腐な言葉一つで表せるほど、私のみのりは矮小な存在ではない。むしろたくさんの賛美をあの子に当て嵌めたとしても、たったそれだけでは表せない程に、私の愛しいみのりは偉大なの。
だというのに何も知らない彼女たちは「可愛らしい」だけの言葉で済ませ、偽善的な上辺ばかりの慰めを投げかけてきた。そしてその慰めにも飽きれば、次はみのりの死について根掘り葉掘りと訊ね、挙句の果てにみのりの死を「あんな不幸なこと、お忘れになって」と勧めてさえきた。
嗚呼、嗚呼! どうして彼女たちはあんなにも簡単に忘れることを勧めてくるの? 私にとってみのりはかけがえのない子で、忘れるなんて絶対に出来ない大切な存在だというのに!
「はぁ……」
私を苦しめて、惨めにさせて、憤らせる。そんなどうでもいい人達を溜め息もろとも頭の中から追い出して、私はそっと仏壇に飾られたみのりの遺影写真に手を触れる。
温度のないガラス越しに在るみのりの頬に、指を滑らせる。
「みのり、どうして……?」
どうして、貴女は自ら死を選んでしまったの? 逝ってしまうのなら、私も一緒に連れていってほしかったのに。
もしかしたら、今すぐにでも私もみのりと同じ場所で死ねば、みのりと同じところへ逝けるのだろうか。嗚呼、それならばすぐに、あの線路へ。未だ桜の花びらが残るあの遮断機へ行かなければ。
はやる気持ちを抑えきれず、ただ指を滑らせるだけに留めていた遺影写真を抱いた瞬間、ガタッ、と上の部屋から小さな物音が聞こえてきた。
音の主はみのりが死んだ翌日から学校に行くことなく、二階の自室に引きこもるようになった息子の「まこと」だろう。
まことが部屋で何をしているのかは知らないけれど、何をするにしても夫のようにもっと静かにしてほしいものね。そう思いながら「ふぅ」と小さく溜め息を吐き、胸元に在るみのりの遺影を抱きしめれば、再びガタガタとまことの部屋から物音が響いてきた。
「まったく、いったい何をしているの……?」
騒々しいというよりも、不穏ささえ感じる物音。その理由を確かめようと音を立てないように階段を上がり、僅かにその扉を開ければ――そこには信じられない光景が、広がっていた。
――みのりが、いる。
みのりの制服を纏い、恍惚とした表情を浮かべるまことと対になるようにして。私の愛しいみのりが、スタンドミラーの中で息づいている。
鏡の中のあの子は、まことと同じような仕草で自身の身体をなぞって、何度も何度も鏡の外にいるまことに「愛している」と囁いている。そして頬を赤らめ、微笑み、服を脱いで、下着姿でまことと口づけをして、ぴたりと肌を重ね合わせている。
嗚呼、嗚呼! ずるい、ずるいずるいずるいずるい! まことだけ、ずるい! 私は私の愛しいみのりを独り占めにはしなかった! 嫌々ながらもまことや夫にだって、等しくかかわらせてあげていた! なのに、まことはそんな私を差し置いて、みのりを独り占めにしているなんて、ずるい!
そう叫びたくなった衝動をぐっとこらえ、私は来た時と同じように音を殺して階段を下りる。そして、未だ胸に抱えたままだったみのりの遺影を強く掻き抱いた。
嗚呼。あそこには、まことの部屋のスタンドミラーには、みのりが居る。私がみのりの傍へ行かなくとも、あの部屋を時折覗き見さえすれば、私は何時だってあの子に会える。
例え言葉は交わせなくとも。例えまことが独占している姿であっても。私はまた、みのりに会えるのだ。
否、いつか。いつかきっと、まことから貴女を取り返してあげるから。
夫にさえ興味を持たれることのなくなった私に、唯一優しい言葉を言ってくれたあの子のことを。日々の家事で疲れた私を、唯一労わり慈しんでくれたあの子のことを。今度は私が救ってあげなければ。
「お母さんが頑張ってること、私はちゃんと知ってるから」
私を救う、みのりの言葉。その優しい声を糧に、私は一歩足を踏み出した。
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