第五章 龍玉

第16話 小藍


 龍潭村への行程は、虎昴がここまで来た道をさかのぼるのが最短距離だった。


 サククニャ村のすぐ近くにある天梯を下り、さらにその下の山道を下っていく。

 三年前、歩いても歩いてもたどり着かず、上っても上っても先が見えなかったその道程は、しかし、タイ・ピモとともに山野を歩き回ってからの今の虎昴の足では、わずか一日の距離だった。出立したその日の夕方には、ふもとの村が見えるほどの場所まで下りてきていた。


「沢も近くにあるし、今日はこの辺りで休みましょう」


 歩き通せば村には着けるだろうが、日が落ちてからの客人は、どこでもあまり喜ばれない。夜には人を襲う獣も出る。虎昴の提案にチェダも賛同し、その日はそこで野営をした。


「夜でもずいぶん暖かいんだな、この辺りは」


 熾した火のそばで、チャルワにくるまる必要さえ感じない気温に、チェダが驚く。すっかり山頂の空気に慣れていた虎昴も、それには多少ならず驚いていた。


「上では夏頃に咲く花が、この辺ではもうじき咲きますから。……チェダさんは、ふもとに下りることは、よくあるんですか?」

「いいや、初めてだな。おれの村は、トゥル山の向こうにあるんだ」


 ミイルたちが住むサククニャ村より、もうひとつ奥側の集落だ。天梯とも、昔タイ・ピモが教えてくれた下りの山道とも遠い場所で、確かに下界とは縁のない土地柄だろう。


「漢語は?」


 と尋ねると首を振る。


「あまり。あいさつくらいなら聞いたことがあるし、通じると思うが」


 そう言っていくつか、適当な漢語を並べるチェダ。かつてタイ・ピモに覚えたものより強い訛りはあるが、確かに通じないほどではない。しかし、漢人と話をする際には、虎昴が前に立った方がよさそうだった。


「明日、さっき見たあの村に行ってみます。おれが出てから三年もたっているし……あれから村がどうなったのか、少しでも、情報を得ておきたいので」

「わかった」


 そうして交代で見張りをしながら、その日は無事に朝を迎えた。

 軽い朝食をすませ、山道を下る。見える距離では近いものだが、崖を迂回したり、森を避けたりしていると、あっという間に太陽も高くなっていた。

 村人を見つけたのは、村よりまだ手前だった。斜面を開いた狭い段々畑の一番端で、水路の泥を掻き出している。近付きながら「おれが話しかけます」と言うと、チェダは何かを言いかけたが、少し考えてから了承した。


「こんにちは。……あの、少し、お尋ねしてもいいですか?」


 怪訝そうに手を止めた村人は、虎昴の顔を見て、ぎょっとした。


「あ、あんた……もしかして、龍潭村のやつかい……?」


 言われてようやく、自分の顔を覆っている呪いの痕を思い出した。

 山上の人々には受け入れられて久しかったので、自分でも、忘れ切ってしまっていたのだ。さっきチェダが言いかけたのも、おそらくこのことだったのだろう。焦った虎昴は、急いで弁明した。


「そうなんですけど、これは、流行病とかじゃないんです。その、わけあって、村全体が呪いに遭ってしまって……。でも、だから人に伝染するようなものじゃないですし、おれももう、ちゃんと治っていますから」


 村人はなおも驚いた様子だったが、思いのほか素直に頷いた。


「流行病じゃないのは、わかっているよ。あの村の人間以外は、誰も病んだりしなかったからね。……しかし、やっぱり呪いだったのかい」

「やっぱり……とは?」

「そうじゃないかって、わたしらの間で話してたんだ。あんたも知ってる通り、そんな奇妙な痕が残っているし、それに、村の跡に近付くと、祟られるって噂もあるからね」

「――祟られる?」


 不穏な言葉に、顔をしかめる。


「あんたらと同じ病を得た人間はいなかったけどね。……誰もいなくなった村を、そのままにしてはおけないだろう。死者を弔って家を潰そうって役人たちが来たんだけど、怪我だの事故だのが続いてね。鬼火を見ただとか、苦しげな呻き声が聞こえただとかって噂も出てくる始末で、結局、なんとかかんとか墓作りだけやって、建物はそのまんまだって話だ」

「そんなことがあったのに、巫師さまや道士さまは、呼ばれなかったんですか?」

「さてね。こんな辺鄙な場所のことなんて、埋めて忘れて終わりにされたのかもしれないね」

「…………」


 そうかもしれない、という思いと、そうなのだろう、という諦めが交差する。虎昴が暮らしていた頃でも、役人などというものは、年に数回しか現れなかった。税を取れなくなった村など、興味の対象にもならなかったのだろう。

 うなだれた虎昴と、その後ろで待つチェダを見やって、村人が言う。


「あんたは、〝上〟で暮らしていたんだね」


 それは思いのほか、親しみのある口調だった。生活も言葉も人々も違うとはいえ、多少でも行き来がある以上、隣人に対する思いというものがあるのだろう。


「気の毒な話だけど、あの村にはもう近付かない方がいいよ。せっかく助かったんだから、下手に触って、祟りなんてもらうもんじゃない。つらいだろうが、今生きていける場所があるんなら、昔のことは忘れちまった方がいいよ」

「…………。昔のことじゃ、ないんです」

「え?」


 深く息を吸い込んで、問い返す目を、真っ直ぐに見返す。


「これも、わけが、あるんですけど。――昔のことじゃない。今のために、おれは、龍潭村に行かなくてはいけないんです。行って、やらなくてはいけないことが、あるんです」


 拳を握り締めた少年を、村人は、しばらく無言で見つめていた。

 そして、大きな溜め息をつく。


「……なんだか、何を言っても無駄みたいだね」

「すみません、せっかく、おれのために言ってくれたのに……」

「なに、決めちまったもんは仕方ない」


 腰を伸ばした村人は、明るく笑って農具を担いだ。


「少し早いが、うちでお昼を食べておいき。その後で、道案内ができるやつを紹介してあげよう。この数年、大雨や地鳴りが多くてね。あんたが知っているような道は、今は通れないところも多いからね」





 親切な村人に世話を焼かれ、虎昴たちはそこで昼食をとった。近くにいた他の村人にも話が伝わり、気付けば、ほぼ全員が集まっての昼となっていた。

 いくら山上と行き来があるとはいえ、言葉がわかるものは多くない。片言の漢語はたいして通じていないはずなのに、ここでもチェダは人々を惹き付けた。誠実な人柄と、爛漫な笑顔とがそうさせるのだろう。どちらのこともわかるはずの虎昴の方が、その場から取り残されているような気分だった。

 思いのほかにぎやかになった昼食を終え、一人の少年が連れてこられた。


小藍シャオランだ。すばしっこいから、何かあったら、すぐに走らせてくれるといい」


 小藍は十歳ほどの子供だった。日に焼けた顔に、小柄な体躯。睨むわけではないものの、何を考えているのかあまりわからない、切れ長の目をしている。赤茶けたばさばさの髪をひとつにくくり、この辺りの子供としては普通の、前合わせの単衣を着ているだけだった。履物すら履いていない。

 チェダが、考える様子で小藍を見下ろす。


「子供か……」

「この時期、あまり働き手を出すわけにはいかないですしね」


 この年齢でもぎりぎりだろう。どれほど幼くても、自分で歩けるようになれば、何かしらの仕事ができるものだ。子守りなどは、昨年まで自分がされていたような子供が、次の赤ん坊にしたりもする。何歳でも、道具が持てれば荷物持ちになれる。その分、大人たちは、大人にしかできない仕事を必死でするのだ。


 チェダはしゃがんで目線を合わせ、にっこりと笑ってみせた。


「コンニチハ」

「……コンニチハ」


 お互いにお互いの言葉であいさつを交わす二人に、少し、肩の力が抜ける。


(ともかく、これで迷わず先に進めるんだ……)


 この村に寄ってよかったと心底思う。それなりに時間は使ってしまったが、もしもあのまま進んでいたら、比べものにならない足止めをくらっていただろう。


 案内役としての小藍は、満点だった。

 どの曲がり道もどの分かれ道も迷うことなく、十歳の子供とは思えない足取りで、年上の虎昴たちを導いていく。大雨で崩れたという崖を迂回する新しい道も通ったが、その他の道程も、正直、虎昴はあまり覚えていなかった。小藍がいてくれて本当に助かったと、道中、何度思ったか知れない。――が、彼が満点なのは、案内役としてだけだった。

 小藍は、驚くほどに無口だった。基本的には頷くか首を振るかで答え、時折、危険な箇所や理由を告げる時にも「危ない」「割れてる」と端的だ。最初こそ言葉がわからないなりに交流を図ろうとしていたチェダも、途中からは諦めて、話しかけることもやめてしまっていた。


 かくして、黙々と山道を歩く三人組ができたわけだが。


(物見遊山に来たわけじゃないと言えば、そうなんだけど……)


 隊列的にも立場的にも真ん中に置かれた虎昴は、居心地が悪くて仕方がない。自分がうまくつなげれば、他の二人も話せるだろうかとも思うが、そんなことをする気力もない。ただ、そうやって黙々と歩いていると、いろいろなことを思い巡らせてしまって、余計に疲れるような気がするのだった。


 そうして午後を歩き切り、太陽が西の山陰に落ちる間際。

 長い坂道を上り切ったその上で、チェダが感嘆の声を上げた。


「すごい景色だな」


 三人の目の前には、幾重にも重なる滝の群れがあった。一番上の滝から最後の滝壺まで、高さだけを言えばさほどのものでもなかったが、その間には、いくつもの短い滝が段々畑のようにひしめいている。虎昴の胸にも、懐かしさが染みわたる。


「おれの村と小藍の村との行き来がほとんどなかったのは、この滝のせいなんです。道自体はつながっているし、歩けば一日くらいですけど、舟が通らないから商人も少なくって」

「生きているうちに、こんな場所を見られるとは思わなかったよ。しかし、これは……」

「……龍の鱗、みたいですよね」


 濁された言葉の先を、引き継いで言う。


「水が青いので、おれたちは青龍瀑せいりゅうばくって呼んでました。おれの村……龍潭村がその名前になったのも、この滝の下流で、深い淵になっている場所のそばだったからだって」


 チェダは神妙な表情で頷いた。


「こんな河なら、龍が住んでいると言われても、信じるよ」


 その日は、その青龍瀑の音が聞こえる場所で野営となった。ここまでくれば、明日の昼には着くことができる。問題となるのは、その先のことだった。


「小藍は、龍潭村に行ったことはあるのか?」


 焚いた火を囲み食事をとりながら、虎昴は尋ねた。

 焼いたイモをかじっていた小藍は、そのまま首を横に振る。そうだろうと思っていたので、虎昴もそのまま問いを重ねる。


「誰か、行ったことがある人から話を聞いたことは? 村の、具体的な様子とか……」


 横に振る。


「道を知ってるってことは、近くを通ったことはあるんだよな? 遠目に見てこうだったとか、そういうのも、わからないか?」


 少し考え、口を開く。


「……朽ちた家が、ある。生きている人は、いない」

「……そうか」


 どちらもわかっていたことだった。それでも「ありがとう」と礼を言い、腹の足しになればとソバまんじゅうを割って半分渡す。虎昴自身は多少の余裕を見て持ってきたが、小藍の食糧は、どう考えても一昼夜分以下だった。

 受け取った小藍はそれを見つめ、不意に、口を開いた。


「……あんたが村の近くを通った時のこと、おれ、覚えてるよ」

「え?」

「朝早かったけど、おれ、一人で沢に魚を採りに行くつもりで、山の方を歩いてて。あんたが小さい子をおぶって歩いてるのが、少し遠くだけど、見えたんだ」


 切れ長の目が、すっと虎昴を見る。


「あの子は?」


 突然しゃべり出した小藍にも驚いたが、その内容にも驚いた。まさかそんなところを見られているとは、虎昴も思っていなかったのだ。

 言われてその時のことを思い出して、喉を絞められたような気分になる。


「……おれの妹だ。……妹は、間に合わなくて、助からなかった」

「そっか」


 それだけ言って、小藍はソバまんじゅうにかぶりつく。その薄い表情からは、やはり、何を考えているのかは読み取れない。

 二人のやり取りを見ていたチェダが、虎昴に尋ねる。


「シャオランは、なんて?」

「これから行く村のことは、特に何も知らないそうです。あと……三年前、おれが彼の村を通りかかった時のことを覚えている、と。夜通し歩いていましたし、おれは、誰かに見られていたとは、思ってもいなかったんですが……」


 必死過ぎて、見えた村に寄ろうとも思っていなかった。寄ったところで、ただの人間に過ぎないその村の人々には、どうしようもないという思いもあった。あの時は、山の頂上の仙境に住む〝仙人さま〟しか、信じられなかったのだ。

 感傷を覚えている虎昴とは違い、チェダはあくまで先の現実を見る。


「今のその村のことは、誰も知らない、か……」


 難しい表情で、焚火を見据える。


「龍神殺しの件といい、祟りがあるといった噂といい、危険しか待っていなさそうだ。……龍神の魂解放については、きみには、何か考えがあるのかい?」

「……いえ」


 そう答えるのには抵抗があったが、嘘をつくこともできなかった。


「でも、魂がそこにあるのなら、語りかけることもできるかと。そうしたら、何が彼を縛っているのか、知ることもできるんじゃないか、と……」

「そうだね。おれも少し考えていたけど、やっぱり、そうするしかないだろう」


 本当はあの朝、改めてラゴ・ピモに相談しようと思っていたのだが、突然できた同行人の存在に、何もできずじまいとなったのだ。そのことを、今は死ぬほど悔いている。

 そこで虎昴は、なんとなく聞けずにいたことを尋ねてみた。


「チェダさんは……ピモとしての修練は、しているんですか?」

「それなりに。でも、うちはまだ祖父と父が現役で、それほど場数を踏めていないんだ。十五の時に一人で鬼払いをさせてくれって頼んだら、〝十年早い〟と言われたよ」

「……なるほど」


 頷く虎昴に、チェダは「ところで」と真剣な顔を向ける。


「漢族の河に住む龍神は、やはり、漢語を話すのだろうか?」

「……えっと」


 考えたこともなかったが、龍神との対話も、虎昴が前に立った方がよさそうだった。




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