第17話 龍潭村


 龍潭村が見えたのは、青龍瀑を出ていくらともたたず。うねる河岸の道を歩き、迫る山裾をひとつ回り込んだ先だった。


「――……っ」


 遠目には、かつての姿そのままに見えた。河岸にひしめいて家々の屋根が並び、後ろの斜面には、段を作った畑が小規模に広がる。今にもそこの岩陰を回って、漁の小舟が現れそうだ。そこには父の舟もあって、兄がいて、家には母や祖父母、兄弟たちも待っていて――。


(……違う。あそこにはもう、誰もいない)


 みんな死んだ。村は滅んだ。虎昴を除いて、もはやあの村の人間は、誰もいない。そう自分に言い聞かせ、降りかかる痛みを振り払い、ただ黙々と歩き続けた。


 昔のままに思えた龍潭村だったが、近付くにつれ、その荒廃が明らかになってきた。

 屋根は落ち、崩れた建材は草に埋もれ、道には汚れた水が溜まって乾くことがないようだ。なんとか持ちこたえているような家々も、柱が傾いたり、土壁が破れ落ちていたりする。死者は弔ったという言葉通り、遺体らしきものは見当たらなかったが、そこに住んでいた人々が、もはやこの世にいないことがありありとしていた。

 そして、変わり果てていたのは、それだけではなかった。


「……これ、は……」

「ひどい瘴気だ……。これほどのものは、おれも、感じたことがない」


 村を前に立ち竦む虎昴に、隣に並んだチェダも顔をしかめる。

 虎昴にはそれが、濃い霧のように見えていた。闇のように黒い霧だ。その波が真昼の廃村を満たし、現実のものではない風に揺らいでいる。まだこれだけの距離があるのに、背筋がぞっとするような、悪臭にも似た気配が時折、感覚に触れる。


「……一応、悪鬼払いをしておこう」


 そう言ったチェダが、いくつか簡単な儀礼を行い、太鼓代わりの手拍子とともに歌う。促されて、虎昴も声を揃えた。


「〝……叫んで、悪鬼を殴るのだ。叫んで、悪鬼の根を切るのだ。叫んで、法術を使って悪鬼を呪うのだ。叫んで、悪鬼の魂を捕らえて、その魂を投げるのだ〟」


 ホオーホオーという遠吠えのような声も交えたそれを終えると、村内の瘴気がやや薄らいだように思えた。それでもすべてが消え去ったわけではなく、警戒と避邪をやめるわけにはいかない。虎昴とチェダは、ピモが儀礼で使う魔除けの鈴を鳴らして進むことにした。


「小藍は、ここで待っていてくれ」


 そばに佇んだまま、二人の行動をじっと見ていた子供に、虎昴は言う。


「日が傾いても戻らなければ、そのまま帰ってしまってもいい。正直、この先は、おれたちもどうなるかわからない。だから一応、先に礼をしておくよ」


 ありがとう、の言葉とともに、食糧の半分を渡してしまう。さほど量があるわけではないし、彼らにとっては奇妙なものだろうが、案外口に合うことも経験上、知っている。それに小藍だけなら、昨晩も普通に食べていた。帰りと、あと少しくらいの足しにはなるだろう。

 無言で受け取った小藍は、少し虎昴を見上げてから、小さく頷く。


 彼が背を向け離れるのを見送りながら、虎昴はもう一人、語りかけるべき相手へと意識を向けた。


(……タオホア)


 心の中で呼び掛けると、ふわりと胸が温かくなる。


(どうかおれを、守ってくれ)


 他人が近くにいる時には、タオホアはその猛禽の姿を見せなかった。チェダと山を下りてからは、一度も言葉を交わしていない。――けれど、姿が見えなくても、タオホアはちゃんとここにいる。優しく励ますようなこの胸の温もりがあれば、きっと大丈夫だと思うことができる。

 虎昴は顔を上げ、チェダに言った。


「――行きましょう」


 かつての住人である虎昴を先に、二人は村に足を踏み入れた。

 幸いにして、ピモの鈴はここでも効果があるらしかった。瘴気の靄は二人に道を譲るように退いていく。そのあまりにおぞましい気配に鳥肌が立つ一方、この村の最期を否応なく思い出し、その光景は切なくもあった。


 そして、いくらとも進まぬ場所で、それと出会った。


 それは、無人のはずの村の通りに立っていた。背丈は虎昴の腰までもなく、華奢な手足にふくよかな頬。柔らかそうな綿の単衣を着て、小さな足には、この辺りの子供には珍しく布製の靴を履いている。その目に無邪気な健やかさを宿し、彼女は、虎昴に笑いかけていた。

 ――それはこの村に住んでいた頃と変わらない、末の妹の姿だった。


「桃……花……?」


 呆然とした呟きに、チェダが怪訝そうに見返す。


「タオホア?」

「おれの、死んだ妹です。大凌山の上で死んだので、タイ・ピモの指路経で送ってもらって……もしかしてこれが、タイ・ピモが言っていた〝帰る魂〟……?」


 四歳児の変わらない姿で、透き通った妹は兄へと手を招く。悪いものだという感覚は欠片もなく、虎昴の足は、自然とそれに従っていた。

 時折、振り返りながら桃花が導いたのは、龍潭村が接する大河の岸だった。「河か」と呟いたチェダに、虎昴も頷く。


「桟橋があったところです。そういえば、龍が流れ着いたのは、この近くだったって……」


 もはや跡形もない桟橋のふもとで、かつての船着き場を見渡す。

 記憶の中では、漁に使う小舟や雑多な道具、小さな市の屋台などがあったはずだが、今ではその名残もない。上流の村人が話していた大雨で、すべて流されてしまったのだろう。水面に張り出した造りの家は、土台が腐り、床が落ちている箇所もあった。

 胸の痛みを呼び起こすそれらにはあえて目を逸らし、行くべき場所を目指そうとする。


「確か、桟橋より下流の……」


 長兄の話に聞いていたその場所へ、一歩踏み出す。

 その時、声なき声で妹が叫んだ。


『――!』


 はっと振り向くと、目の前に刃が振りかぶられていた。考える間もなく、自身の太刀を引き抜き、その構えのまま刃を受け止める。金属同士がぶつかる嫌な音が響き、柄を握った両手まで、強い痺れが走った。

 その向こうに見えた人物が信じられず、虎昴は喘ぐ。


「……チェダ!?」


 刃を打ち合わせた青年は、さらに信じられないことを言う。


「きみが死ねば、いいんだよ」

「……っ!?」


 驚愕に目を見開く虎昴に対し、チェダの表情は穏やかだ。優しげな微笑すら浮かべ、しかし間近に見るからわかる。その瞳孔は、狂気に開き切っていた。

 押し切ろうとする腕の力とは正反対に、柔らかな声音でチェダは繰り返す。


「きみが死ねばいいんだよ。きみが死ねば、龍神の無念は晴れる。そうすれば、ミイルの魂は戻るんだ。何も難しいことはない。きみさえ死んでしまえば、すべては丸く収まることだ」

「……っ、チェダ……どうして……!」


 いったい何が起こっているのか、虎昴には理解が追い付かない。わけがわからないまま、しかしそのまま殺されるわけにもいかず、必死で太刀を押し返す。

 そんな少年の耳に、微笑む青年が囁いた。


「きみも、本当はわかっているんだろう。……自分が彼女に、とても釣り合わない人間だって」

「! ……」

「血縁者の一人もなく、家畜や畑の財産もなく、まだ子供のきみに彼女は養えない。たとえ、きみが成長して、財産を持つ時が来るとしても、きみでは無理だ。なぜならきみは――結局のところ、どうあがいても半端な余所者だからだ」

「――……」


 言葉が何も、出てこなかった。チェダは、満足そうに笑う。


「大丈夫。ミイルのことは、おれが必ず幸せにするよ。きみも彼女のことを大切に思うなら、早く死んで魂になって、龍神に直訴でもしに行ってくれ」


(そうだ……)


 彼はそのためにいるのだと、どこかで自分もわかっていた。

 虎昴が成し遂げられなかった時。虎昴が諦めて逃げ出そうとした時。あるいはここの現状を見て、自分たちではどうにもならないと悟った時。――怨みの要である虎昴に死を与え、龍神を解放し、あの山頂へと戻ってミイルと生きるために、この青年はいるのだと。


(……そうだ)


 生きていても先のない自分が、ここであがいても無駄なだけだ。こうしている間にもミイルの魂は危険にさらされていて、虎昴には、すぐにもそれを救うことができるのだ。たった一瞬、痛みに耐えて、この生を終わらせてしまうだけで――。

 ふっと意識が陰り、押し返す手を緩めかけた時だった。


「――悪鬼降伏! 急々如律令!」

「! う、ぐああああっ!」


 叫び声を上げたチェダが、頭を抱えてうずくまる。はっとした虎昴は、その隙に太刀を弾き飛ばし、距離を取る。そしてようやく、何が起こったかを知った。


「小藍……!?」


 苦しむ青年の後ろに立っていたのは、若木の枝を掲げた小藍だった。

 彼は無表情のまま、チェダの後ろ頭をその枝でもうひと殴りし、相手がさらに縮こまるのを見てから虎昴に駆け寄った。

 そんな子供に、思わず疑問をぶつけてしまう。


「い、いったい、何が……!」

「憑かれてる。ここの、悪霊に」


 さらりと出された言葉に、虎昴はぎょっと相手を見返した。


「……小藍、きみは……きみも、ここにいるものが、見えるのか?」


 首を傾げた小藍は、「変な靄が、ちょっと」と肯定する。

 そして意外にも先を続けた。


「見えなくても、わかるだろ。ここで何があったか、知ってたら」

「……そうか。いやでも、悪鬼払いもしてあったのに……」


 戸惑う虎昴に、小藍は平然と言い放った。


「ここの人、みんな漢人だろ。〝上〟のお祓いなんて、わかるわけないよ」

「…………。なるほど」


 なまじわかるようになった分、そこには頭が回らなかった。初めて大凌の言語を聞いた時、自分も、何も理解できなかったことを思い出す。霊になっても同じなのかもしれない。

 うずくまっていたチェダが、呻きながら立ち上がる。鬼気迫るその表情に、抜き身のままの太刀を構える。しかし、すでに武器を失っている相手に対して、大怪我にならないよう、殺さないようになど、うまく立ち回れる自信はなかった。

 その時ふと、小藍が持つ枝に目が留まる。


「……その枝は?」

「桃。山の、とってきた」


 桃は神仙・西王母の庭にもあるという清浄の木だ。破邪には最適な樹木だろう。瑞々しい新芽がついたその枝は、この場を制するにふさわしい生命力を宿して見えた。

 だから、それに懸けることにした。


「……小藍。さっきみたいな破邪の呪文は、他にも何か知ってるか?」

「じいさんに教わったのなら、ちょっと」

「――それでいい。おれがその枝で、あいつをなんとかする。その間、お前は知ってる呪文を、とにかく唱え続けてくれ」


 虎昴を少し見上げた小藍は、すぐに「わかった」と桃の枝を差し出した。


(これなら、取り敢えず、殺してしまうことはない……)


 殺しにくる相手を殺さずにすませるのは至難の業だ。それでもやるしかないのだから、先程の殴打で少し潰れ気味の新芽に心で謝り、虎昴は、太刀に代えてその枝切れを構えた。

 虎昴が渡した小鈴を間断なく鳴らし、小藍が唇を開く。


「……臨兵闘者皆陣列前行、青龍白虎朱雀玄武勾陳南儒北斗三台玉女、魑魅降伏陰陽和合……」


 小さく、しかし途切れることない小藍の詠唱の影響か、それまで目視できなかったどす黒い何者かの影が、チェダの背からうねり出る。そのものが苛立たしげに身をよじると、憑かれた青年は、身もだえするようにして詠唱を止めようと飛び掛かった。


「このっ……くそがきがぁっ!」

「!」


 一瞬早く前に飛び出た虎昴が、伸びた青年の横腹を枝でしたたかに打ち付ける。「ぎゃっ」と叫んだ相手はよろめきながらもすぐに体勢を立て直し、憎々しげな目で虎昴を睨んだ。だがしかし、その眼光の恐ろしさより、虎昴は今、耳にした言葉に驚いていた。

 その悪態は、チェダが知るはずのない、吐き出されたのだ。


「誰だ……あんたは……!」

「うるせえ! 死ね!」


 愕然とする虎昴に、青年が拳で殴り掛かってくる。もはや身体の持ち主を取り繕うつもりもない罵声とともに振りかぶられるそれを、虎昴は桃の枝で振り払いながら避ける。


「お前が生きているから悪いんだ! お前さえあの時死んでいれば、こんなことにはならなかったんだ! お前のせいで、おれたちはこんな目に遭ってるんだ! お前が死ねば終わるんだ! お前さえ死ねば、みんな、救われるんだ――!」

「……っ」


 ――相手が本当に、この地に縛られた村人の霊ならば。

 それは虎昴にとって、故郷の人々からの否定だった。かつて一緒に生きた人々からの、今、生きている虎昴への否定だった。怒りだった。憎しみだった。怨みだった。

 しかし、だからこそ。


「そんなこと――知るか!」


 胸倉を掴もうと伸ばされた腕を逆に掴み、勢いを借りて地面に突き倒す。そして片腕と腰を膝で押さえつけ、握り締めた若枝で、思い切りその頭を殴り飛ばした。昏倒にも足るはずの一撃は、しかし憑いた霊の影響なのか、相手を気絶させるには至らない。額から血を流しながらも暴れる相手を押さえつけ、虎昴は大凌の言葉で語りかけた。


「おれは確かに余所者です。どこにいたって、どうしたって、半端なままなのも事実です。でも――だからといって、この先の何もかもを諦める必要なんて、どこにもない!」


 当て推量の絶望で、未来を諦める必要など、どこにもない。


「おれはミイルを救います! 何をしてでも救います! でも、おれが死ぬのは今じゃない! ここじゃない! おれが彼女のために死ぬ時は、その場所は自分で決める! ――チェダ! あんたは〝その時〟を、こんなやつに決められてもいいのか……!?」

「……ッぐ」


 びくり、と青年の身が跳ねた。憎々しげだったその顔が強張り、引きつり、苦悶を繰り返して殺しきれない呻き声を上げる。もはや虎昴など見えていない。内で争うような身もだえが繰り返され、それが、一層激しくなった時だった。


「うが……あ、ああああああっ!!」


 絞り出すような叫びとともに、ねばつく影が弾き出された。その影がこの世のものではない咆哮を上げ、眼前を覆うほど膨張したその一瞬、虎昴の目の前に光の翼が広がる。


『――にぃに!』


 今度は虎昴も構えていた。龍女の時ほどの圧もなく、桃の若木で影を裂く。さらにタオホアの追撃も受けて、覆いかぶさろうとしていた影は絶叫を上げ、身をよじって後退した。

 血肉のようにその身を散らし、わずかに小さくなった影がうわごとのように呟く。


『おれのせいじゃない……おれの……じゃ……おれじゃ……』


 それを聞いて、不意に理解した。


「あんた……村長の、息子か」


 龍を殺した男。その遺体を暴き、罵り、真っ先に呪いに侵された男。

 龍潭村を滅ぼした、その元凶。


『おれじゃない……おれのせいじゃない……おれはあんなこと……おれは……!』

「――いいや。やったのは、あんただよ」


 どれほど信じたくないのか知れないが、それは逃れようのない事実だ。どんな苦悩を吐き出されようと、哀れに思うつもりもなかった。

 桃の枝を握り締め、深く息を吸い込んで、虎昴は腹からの声を出した。


「〝穢れを祓う、穢れを祓う、穢れを祓って汚れを浄める。高山の汚れを浄め、穢れを祓う。深谷の汚れを浄め、穢れを祓う。穢れを祓って汚れを浄める。……〟」


 それは、漢語で紡ぐ祓い歌だ。ピモの祓い歌を、即興でこの地の言葉に仕立て上げ、村中に響き渡るほどの声で歌い上げる。潰れかけの新芽の若木で、邪魔しようと襲い来る影を断つように空を切り、四方に足跡を刻んでいく。


「〝……巫師が叫ぶ。主人が叫ぶ。叫んで天帝に報告する。叫んで悪鬼を降伏させる。叫んで悪鬼を根絶させる。叫んで悪鬼を呪殺する。叫んでその魂魄を捕らえ、天帝の裁きの場へと、お送り申し上げる。〟――急々如律令!」


 その瞬間、もはや朝霧より薄くなった影が、ついに散り散りになって消え去った。微かな断末魔を聞いたと思った、しかし、次の刹那。


 屋根より巨大な異形の獣が、消滅した影の跡から躍りかかってきた。


 丸い目。鋭い牙と爪。どの生き物にも似ない尻尾。――見たこともない、異形の化け物。


「――!?」


 抗う間もなく、虎昴の意識は弾き飛ばされた。




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