第15話 旅立ち


 ふっと糸が切れるように倒れたミイルに我に返り、虎昴は弾かれたように駆け寄った。


「ミイル……ミイル!」


 抱き上げた身体は温かい。首筋に指をあて、顔に顔を近づけて、脈と息を確かめる。――脈はある。息もある。ただ、何をどうしても目を覚まさない。何度も名前を呼び、何度も身体を揺さぶっても、ミイルは昏々と眠り続けていた。


「……タオホア。ミイルは……」


 薄闇に仄かに輝いている、妹の魂に問いかける。

 魂の鷹は身体を揺らし、悲しげに答えた。


『ミイルのなかのミイルが、ちょっとしかいない。ミイルのほとんど、あれがもっていっちゃった。ミイル、ちょっとしかいないから、おきられないの』

「取られた分を取り戻せば、ミイルはまた……起きる、のか……?」


 今度は人語の答えはなく、ただ不安そうに、くるる、と喉を鳴らしただけだった。わからない――と、そういうことなのだろう。

 あまりのことに震える手で、口元を覆う。


(……大変なことに、なってしまった……)


 ともかく、このままにしておくことはできない。

 そう思った虎昴に、選択肢などないに等しかった。意識のないミイルを慎重に背負い、村へ戻ろうと歩き出す。タオホアは再び空へと上がり、旋回して辺りを警戒する。あの龍女がいれば教えてくれとは言ったものの、もうここにいるはずがないことも、わかっていた。

 そんな虎昴の前に松明が掲げられたのは、木槿むくげの茂みを抜けた時だった。


「どうしたんだ、きみたち」


 まぶしさに目を細めて見上げると、そこにいたのは、ミイルと歌を交わしたあの青年だった。

 背丈はそれほど変わらないのに、見上げるような心地がする。その姿を見ていると、虎昴は、自分がひどく愚かで、惨めで、ちっぽけになってしまったように感じた。

 何も答えられずにいると、青年は不審そうに距離を詰めてくる。


「その彼女は? 怪我でもしたのか――」


 覗き込んだ相手が、はっと息を呑むのがわかった。それがミイルであることに気付いたのだ。戸惑いが腕に伝わり、松明の火が揺らぐ。


「……眠って、いるのか? だが、それにしては、顔色が悪い……いったい、何が」

「サククニャ村に」


 虎昴は思わず、遮った。


「彼女の家族が、そこにいるんです。とにかく今は、家族のところへ、連れて行きたいんです……」

「……わかった」


 間を挟みながらも了承した青年は、体格のいい自分がミイルを背負おうかと尋ねてきたが、虎昴は首を横に振った。――今、触れているこの温もりが、この柔らかさが感じられなければ、歩くことができなかった。失う瞬間など知りたくもないが、その時を知らずに終わるのもまた、この世の何より恐ろしく思えた。


「……村まで、明かりをお願いします」


 日が落ちると、山は途端に寒くなる。

 幸い、まだ気候のいいうちにサククニャ村まで戻ってきた虎昴たちは、門番たちに驚かれながらも真っ直ぐアユ家へと向かった。


 村は祭りの余韻に浸っていた。締め切られた窓や板戸越しにも、楽しげな笑い声や歌声が聞こえてくる。しかし、そんな家々の前を虎昴たちが通るたび、不穏な気配を察した犬が騒ぎ立て、アユ家にたどり着く頃には、大勢の野次馬が集まってしまっていた。

 騒ぎに気付き、アユ家の前にはログが顔を出していた。騒ぎの中心が自分の姉と友人であり、しかも目的地は自分の家だと知ったログは、何を思い合わせたのか、絶望的な顔をしていた。申し訳ないが、そんな彼にしか頼めない。


「すまない、ログ……ラゴ・ピモを、呼んでくれないか」


 すぐに出てきたラゴ・ピモは、蒼白になった虎昴の背中に眠っているのが自分の娘だと気付くや否や、険しい顔で問い詰めた。


「どうした。何があった、フーマオ」

「……すみません……お、おれのせいです、ラゴ・ピモ……」


 話す覚悟は決めたというのに、いざとなると、みっともないほど声が震える。

 ともかく周囲の手を借りて、敷いたチャルワにミイルを寝かせる。どこからか聞きつけてきたらしいショモに、「これでも飲んで落ち着け」と渡された濁り酒を口に含み、必死で心を落ち着かせ、虎昴は、あったことを詳細に語った。


 ――突如現れた龍女を名乗るもの。彼女が語った深い怨み。ミイルが巻き込まれてしまったその経緯。

 そして、少年の身に龍鱗を刻んだ呪いの、その生まれの子細を聞いて、集っていた村人たちは呻き声をあげた――それは、あまりに惨い因縁だった。


 初めは疑っていた人も、誰がどうしてもまったく目を覚まさないミイルを見て、少年の話を信じざるをえなくなった。少なくとも、これがただの眠りではないことは、紛うことなき事実なのだ。

 ラゴ・ピモもまた、そう思っているようだった。

 険しい表情を解かないまま、彼は言った。


「フーマオが嘘を言っているとは思わない。しかし、その龍女というものが本当に神であるのか、悪鬼が神を騙ったものではないのか、一応、確かめさせてくれ」

「……はい」


 ラゴ・ピモの要請で、一人のスニが呼ばれてきた。守護霊アサを持った、ピモの下位にあたる呪術師だ。下位ではあるが、アサの助けを借りられるスニは、比較的少ない段取りで儀礼を行うことができる。直近の出来事を精霊に尋ねるくらいなら、スニの方が早い。

 歌と太鼓と鶏の生贄で精霊を呼んだスニは、やがて答えた。


「その少年が語ったことは真実だ。アユ・ミイルの魂はここにはなく、それを握っているのは、谷からやってきた雌の龍神だ。魂を取り戻す方法は、龍神がすでに語っている」

「それ以外に方法は? 例えば……私が、龍神と直接対話することは」

「その龍神がどこにいるのかはわからない。野原のツピも、杉林のルトも、崖のスリも、川のムジも、それについては口を開かない。龍神を畏れているのだろう。我々が呼んで、来るとも思えない」


 首を振ったスニに、ラゴ・ピモは大きな溜め息をつく。

 その様を、虎昴は何もできずに見守っていた。


(精霊も畏れるものを、おれはここに呼び込んでしまった……おれのせいでミイルを巻き込み、無関係な人たちに、迷惑をかけてしまった……)


 ただずっと、その考えが頭の中でぐるぐると回る。

 山道を歩いていた時には、まだ、本当にはわかっていなかった。ただ必死だったのだ。それが今、ラゴの張り詰めた表情や、青褪め強張ったアーイの顔、泣き出しそうな兄弟たちや不安げな村人たちの様子を目の前にして、すべてが、ずっしりと圧し掛かっていた。

 スニが儀礼を終え、改めて、ラゴ・ピモが虎昴をそばに呼んだ。


「……ラゴ・ピモ……すみません、おれ…………おれが……」


 小さくなる少年を一瞥したラゴは、しばし無言で目を閉じた。強いてゆっくりさせるような深呼吸を挟み、再び目を開けて、そしてようやく彼は言った。


「確かに、私の娘がこうなったのは、フーマオのせいだ」

「……っ、はい……」

「しかし、フーマオがその神へと掛け合ったおかげで、私の娘はまだ生きている。……まだ、目を覚ます希望がある」


 はっと上げられた虎昴の目を、ラゴは苦しげに見返した。父親としての感情と、公平公正であろうとする理性とが、その瞳の中で揺らいでいた。

 娘を危険にさらした相手を、殴るくらいはしたいだろう。その衝動を押しとどめているのは、兄と交わした約束と、この少年への哀れみだった。


「フーマオ。私はこの子の親だ。だからお前を恨んでいるが、それと同時に、感謝してもいる。それは相反する葛藤ではなく、ともにあるものだ。……わかってくれるか」

「……はい」

「では、私がこう言うことも、どうかわかってくれ」


 すっと息を吸い込んだラゴは、松明を受け底光りする目で、見下ろした。


「フーマオ。漢人の地より来たりし、龍の鱗を持つものよ。お前はお前が神に語った通り、神がお前に語った通り、かの龍神の魂を解き放たなくてはならない。どんな犠牲を払おうとも、それを成し遂げなくてはならない。それが叶わぬその時は――」


 成し遂げられなかった、その時は。


「我が娘のために、死んでくれ」

「――はい」


 頷くことに躊躇はない。

 初めから、あの龍女に言われた時から、本当はそうしようと思っていたのだ。

 血の気が消え失せ、冷たくなった唇を舐めて虎昴は応える。


「おれはおれの村へと立ち、必ずや、かの龍神の魂を見つけ出し、解放してみせます。それが叶わないとなったその時は――この喉を掻き切り、かの龍女に魂を差し出します」


 ラゴ・ピモが声をかけ、近くの村人が虎昴に一枚の板切れを渡す。虎昴はその板切れに九つと七つの切れ目を刻み、神々と精霊にかけての誓いとした。


(ミイル……)


 松明の火に照らされ、微かな寝息を立てるその顔を見つめる。


(助けてみせる……絶対に)


 彼女の目を覚ますため、彼女が笑い、歌って踊れる日々を取り戻すために、身命を賭そうと虎昴は誓う。己にできることはすべてやろうと、心に決める。

 ――たとえその結末として、生きて彼女に会うことが、二度となくなってしまうとしても。





 出立は翌朝にした。

 本当は日の出前に出たかったが、雪交じりの風が吹いたので少し遅れた。春の祭りをしたとはいえ、荒れた朝晩は、まだ冬と変わらない。


 虎昴は少し悩んだが、ピモとしての旅装を整えることにした。

 藍染めの衣服と頭巾。タイ・ピモの遺品である銀の耳飾り。腰の後ろには筮竹が入った竹筒とその他の道具を入れた小物入れを吊り、左腰には太刀をはく。長期保存できる食料も持った。最後にチャルワをはおり、頭巾の上から笠をかぶる。


(この格好で、あの村に戻るのは、なんだか変な感じだけど……)


 それでも、旅をするなら、やはりこの格好だった。

 村外の家で旅支度を整え、アユ家へと出向いた虎昴は、そこにいた人物に目を丸くした。先に彼と話していたラゴ・ピモが、虎昴へと紹介する。


「フーマオ。彼は、カジュカム村のチェダだ」


 それを受けて微笑んだのは、あの青年だった。チャルワをはおって腰には太刀をはき、荷物も足元も、しっかりと旅支度で固めてある。


「きみは今日、立つんだろう? おれも一緒に、行かせてもらうよ」

「ど、どうして……」


 昨日は何も、そんな話はしていなかったはずだ。いったいいつの間に、そんなことになってしまったのか。驚愕に言葉の続かない虎昴に、ラゴが言う。


「居合わせた縁ではないが、お前を心配して同行を申し出てくれたんだ」

「大丈夫、足を引っ張る真似はしないよ。……おれは普段、羊の放牧をしていてね。うちは村でも古い家だから、家畜もやたらと多いんだが。その分、足腰には自信がある。きみの故郷がどれほどの遠方でも、必ずついていくから心配しないでくれ」


 それは真に迫って聞こえたが、容易には信用できなかった。

 ラゴが席を外した隙に、虎昴は、相手を窺うように見て問いかけた。


「……おれが、逃げ出すとでも思ってるんですか?」

「きみを疑っているわけじゃない。……こうなって、そんな顔色をした人間が、自分可愛さに逃げ出すとは思わないよ」


 目線で示され、自分の頬を撫でる。ざらついた龍鱗はいつもの通りだが、そんなことを言われるほどの顔色をしているのだろうか。――しているのかもしれない。陽気な顔ができる気分でないことくらいは、自覚していた。

 目を伏せた虎昴に、だが、と青年は続ける。


「道中、それにその村に着いてからも、何があるかは誰にもわからない。きみに何かがあった時、助ける人間も必要だろう。もちろん、おれに何かがあった時にも、できれば助けてほしいけれど」

「……どうして」

「最終的には、彼女のためだ」


 チェダは家の中へと目を向ける。

 その瞳がとても柔らかいことに、嫌でも気付く。


「ミイルというんだってね。彼女の口からその名を聞けなかったのは残念だが、おれは彼女を助けたい。きみを助けることが彼女を助けることになるのなら、おれは、誰にもその役目を渡したくないと思っただけさ」

「…………」


 皮肉でも何でもない。真っ直ぐに告げられた言葉は健やかで、本当にただそれだけなのだとすぐにわかる。彼を見るたび鬱屈した気持ちを抱いてしまう自分が、どれほど矮小な人間なのか、思い知らされるようだった。

 押し潰されそうなそれに抗うように、虎昴は、胸を反らして頭を上げた。


「おれの名前は、虎昴です。改めて、よろしくお願いします」


 ああ、と青年も頷いてみせる。


「改めて、おれはチェダだ。おれたちで、必ず、彼女を助けよう」

「――はい」


 そのためには、今は何もかもが些末なことだ。

 その一点においては、確かに、これ以上ない同行人かもしれなかった。




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