第14話 つがい
彼女を背後から抱きすくめるようなそれを見た、と思った瞬間、目の前に光の翼が広がった。
『はなれて、にぃに!』
「!」
甲高い猛禽の威嚇音が響く。言われるまでもなくよろめいて後ずさった虎昴は、思わず顔をかばった直後、目の前で上がった荒々しい咆哮に耳を疑った。
『――口惜しや! ひと息に首を獲れたものを! 忌々しきは、この銀符か!』
悔しげにそう叫ぶのは、ミイルの声だ。
しかし同時に、ミイルの声ではなかった。大きな鐘を打ち鳴らした時のように篭って響く、それはあの、山羊神にも似た声音だった。
顔を上げた虎昴の目に映ったのは、しかし、やはりミイルだった。
ミイルの顔で、ミイルの身体で、ミイルの声で――
それなのに、それは決して、ミイルではない。
歯を剥く憤怒の表情も、燃え盛るような憎悪の瞳も、何者をも寄せ付けない気配に満ちた立ち姿も、普段の彼女とはまったく違う。
まったく違う何者かが、ミイルの肉体で、そこにいた。
「な……っ!」
一瞬、感情のままに問い詰めそうになり、慌てて己の唇を噛む。――これは尋常のものではない。神にしろ精霊にしろ悪鬼にしろ、下手な対応は身を滅ぼす。
煮えくり返る胃の腑の焦りを抑え込みながら、歯の隙間から絞り出すようにして誰何した。
「……何者だ、あなたは……!」
『無礼者めが! 人の子ごときが、血肉のひとつも捧げず我に問うとは!』
その気迫に思わず怯みそうになりながら、虎昴はなんとか踏みとどまる。
「その娘に宿ったのは、その人の子に、何か仰ることがあったからではないのですか?」
『自惚れるな! 我はただ、この娘の命を獲ってやろうとしただけのこと! 忌々しき銀符に邪魔され、それがひと思いにいかなかっただけのことだ! 貴様に告げることなど、
叩きつけられた明確な殺意に、息を呑む。
混乱しそうになる頭を、強いてとどめて問いを重ねた。
「なぜあなたは、おれの死を望むのですか? おれはあなたに、何をしてしまったのですか? あなたが何者かわからなければ、おれにはどうすることもできません」
『貴様に告げる名などない』
きっぱりとそう切り捨てながら、だが、と相手は言葉を続けた。
『我が何者か知りたければ、これだけで十分であろう――』
ミイルの顔が悪鬼のごとく歪み、口からカッと炎を巻き上げる。
『貴様ら卑しき人の子が、あらん限りの屈辱を与えて
「……!?」
虎昴は無意識に、龍鱗が刻まれた片腕を握った。
(あの龍の……つがいだと!?)
三年前。少年の故郷と家族とそれまでの人生すべてを奪った〝龍の呪い〟。
それをまき散らした神獣のつがいが、今、まだ、ここまできて、どうして虎昴の前に現れるのか――ミイルの身体を、乗っ取って。
『憎き人の子よ。お前は死ぬべきであった』
絶句する虎昴に、ミイルに宿った龍女が告げる。
『かの愚かな村人どもがすべて死に、それで我が夫の無念は晴れるはずであった。お前が疾く死ぬようにと、我はずっとその時を待っていた』
「……し、しかし……」
黙って聞いていられず、口を挟む。
「呪いは解かれたと……かの龍神を祭ることで、それは終わったと」
『終わりなどするものか!! 我が怨みと憎しみに、終わりなどがあるものか!!』
爆発的な怒りに圧される。タオホアの翼にかばわれなければ、無防備だった虎昴の魂など、吹き飛ばされていたかもしれない。
その様を憎々しげに睨みつけ、龍女は吐き捨てる。
『
「おれの――つがい?」
ぽかん、と口を開いてしまう。
怒れる神を目の前にしていることも、その一瞬、意識の中から抜け落ちた。
(何を言っているんだ、このひとは……)
虎昴が呆気にとられている間にも、相手は苛立ちを増していく。
『害なすものを退ける護りだと? 我を悪鬼か何かのように扱いおって……口惜しい! いっそこのまま、崖から飛び降りてくれようか……!』
「ちょ……ちょっと待ってください! その娘は、おれのつがいなんかじゃありません! ただの、その、友人で……!」
我に返って慌てて否定するが、相手は鼻先で笑っただけだった。
『痴れ者が。我は見ておったのだ、貴様がこの娘に、妻問いの品を渡すのを。この娘がそれを受け取るのを。……その品が、これほど忌々しいものであるとは思わなかったがな!』
苦々しく吐き捨ててから、突然、相手は花咲くような微笑みを見せた。
思わず後ずさる虎昴を笑い、その笑んだ唇に手を添える。
『ひと息とはいかなかったが、この娘の魂はもらっていこう。なに、己が魂を吐き出すことまで、この銀符も拒みはすまい。――愛するものを失う苦痛に、貴様も悶え苦しむがいい』
言う間にも、流れる霧のような霊体を、ミイルの口元から引き出していく。美しい指先が、彼女の死を繰り出していく。神にとっては、人の死など、それほど容易いものなのだ。
その光景に募る焦燥を、しかし虎昴は必死に押しとどめた。
(だめだ! 焦っては……だめだ)
焦りで言葉を出してはだめだ。それでは、神との対話などできるはずがない。
ピモとは、神の声を聞くものだ。己の感情で動いては、その声を聞き違えてしまうことになる。隙を見せては――すべてをとられることになる。
深く息を吸い、虎昴は腰の小物入れへと手を伸ばす。
そして、そこから取り出した儀礼用の鈴を、からん、と短く振り鳴らした。
「――龍王に連なる貴き公主。問いかける無礼をお許しください」
静かな声音に、ぴたり、と龍女の動きが止まる。
「あなたの望みは、おれを苦しめることですか。おれを殺すことですか。それとも、あなたのつがいを、弔うことですか」
瞬きをしない目が、虎昴を見た。
それを真っ直ぐに見返して、虎昴はなおも問いかけた。
「あなたの望みは、無辜の娘を殺すことですか。その肉親に怨まれることですか。それとも、あなたのつがいを、その魂を、安らかに送ることですか」
『……聞いてどうする』
「おれの故郷の人々は、重い罪を犯しました。しかしそれは、おれたちの罪です。他のものが被る罪ではありません。龍神公主、その罪はおれが償うべきものです。――〝おれの死〟以外の罰をもって、償うべきものです」
『貴様の死、以外だと?』
食いしばった歯の隙間から、炎が漏れ出る。
『貴様は疾く死ぬべき身だと、何度言えば気がすむのだ。償いたいなら、今すぐ死ね』
「――あなたのつがいが、おれを赦して、生かしたのに?」
その言葉に、龍女の炎が、すっと消えた。
「おれは、あなたの夫に、生きることを赦された身です。龍神公主。おれの勝手で、彼の遺志を曲げることはできません。だから、おれは生きながらにして、あなたへの罪を償わなくてはならない。おれだけが、あなたへの償いを、しなくてはならない」
『…………』
「おれが生きて、おれだけで叶えられる償いを、あなたは受け入れなくてはならない。それこそが、あなたのつがいが、望んだことなのです」
――ピモとは神の声を聞くもののこと。しかしその先で行うのは神との対話だ。交渉と言い変えてもいい。人には理不尽な情動の彼らに、どれだけもっともらしく思い込ませることができるかが、その交渉における鍵なのだ。
それこそが当然の真実だと、神を相手に、思い込ませる。
やがて元の容貌を取り戻した龍女は、ミイルの魂を握ったまま、言った。
『……そこまで言うのなら、お前に温情をかけてやろう』
はっとして、虎昴は相手を見る。
『我が夫の魂は、貴様らの醜悪な愚行により、あの穢れた地に縛りつけられている。あの方の無念が晴れれば解き放たれようが、それは貴様が死んだ時だ』
龍女が、ふうっと息を吹きかけると、霧のようだった魂が一輪の花に形を変えた。
その花を唇にあて、美しいがゆえに恐ろしい微笑みで、彼女は言った。
『我が望みは、かの方の解放だ。我への償いをと言うのなら、その魂をかの地より解き放ち、我がもとへお連れせよ。――できぬと言うのなら、それもいい。その時には、この無辜の娘は、二度と目を覚まさぬものと思え』
それだけ告げて、花とともに龍女は消えた。
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