第13話 歌垣
そうして、その日がやってきた。
春の祭りは、峰に挟まれた盆地で行われる。輝く若草に覆われたそこに人々が集まり、命が芽生える暖かな季節を盛大に祝うのだ。
秋と同じようにピモによる儀礼も行われるので、祭り自体には、虎昴も毎年参加していた。松枝の門に家畜をくぐらせて悪鬼を祓ったり、人類の源とされる〝白神話〟を歌ったりしたその後は、これも秋祭りと同様に、大樽が並ぶ大宴会となる。
そしてすぐに、その傍らとなる山の斜面や森の木陰で、若者たちの歌垣が始まるのだ。
「ほらほら! 行くぞ、フーマオ!」
「あ、ああ……」
完全に野次馬状態のログとその仲間たちに背を押され、虎昴は初めて、そちらの人垣へと足を向けた。
ほどなく、歌声が聞こえてくる。
「〝……あなたも私も花のつぼみです。歌垣をしたいのなら、私を探してください。恋人になりたいのなら、私に寄り添って座ってください〟」
「〝あなたは軽やかに蓮のように歩きながら兄を訪ねてきました。妹はやはり私のことを愛しているのです。頭をあずけてあなたに寄り掛かり、あなたと肩を並べて座ります。……〟」
娘の声に、若者の声が応えている。そのどちらも、心躍るような気配に満ちている。それに耳を傾けて、虎昴はひっそりと、昔のことを思い出していた。
彼が生まれた村でも、婚姻の始まりは歌だった。
つらく寒い時期を越えた春、そして実りの時期を迎えた秋に行う祭りの中で、年頃の男女が歌を交わし合う。その祭りはとても盛大で、周辺に点在するいくつもの村から人々が集まるので、普段見ることのない人の中から良い相手を見つけ出すために、歌はとても重要な役割を担うのだ。
声がいい歌い手にはみなが注目する。歌い方が素晴らしければ、長く留まって聞いてもらえる。交わす歌はほとんどが即興のやり取りだが、ある程度の慣習のようなものはあり、大胆な内容でも聞き手はまったく気にしない。うまくいけば、名前や住んでいる村を歌の中に交わし合い、そこから婚姻へとつながっていく。そして一人との歌の交換が、たとえ芳しくない結果に終わっても、歌の技量を見とめられれば次につながる。
当然だが、見た目も大事な判断基準だ。この日のために用意した衣装で娘たちが刺繍の腕を主張するのはもちろんのこと、若者たちですら、銀や瑪瑙の飾りで財力があることを主張する。直接そのことに触れるのはなかなかの不躾だが、時には歌詞にも取り込んで、お互いに親交を深めていくのだ。
また、刺繍や装飾品には、村の別を見分ける役割もあった。知っているものなら、どの村の出身かはすぐにわかる。近親婚を避ける目的もあるのだった。
娘たちも若者たちも、何人かの組でそぞろ歩き、あるいは腰を据えて相手を探している。誘いかけられれば歌を返し、楽しげなやり取りには耳を傾ける。
そんな中で、ひときわ大きな人垣を見つけた。観衆が輪になったその中心で、一組の男女が歌を交わし合っている。
虎昴は特に考えないままそこに交ざり、そして、見つけた。
「あ……」
そこで歌っていたのは、ミイルだった。
「〝兄よ、あなたはどこに住んでいる人なの? なぜ花を摘みに山にやって来たの? 一本の渓流と二つの山、その二つの山はぴったりと寄り添っている。愛情も思いやりもある兄よ、どこの村に住んでいるのですか?〟」
朗らかな歌声を響かせるミイルに、その場の誰もが見入っている。
――この三年の間に、彼女はとてもきれいになった。
どこが変わったと言えないのに、目が覚めるような美しさを備えたのは不思議なことだった。それほど背が伸びたわけでもないのに、しなやかな印象が強くなった。ふたつのおさげ髪は黒々と艶めき、踊るような瞳の輝きは見たものを捕らえて離さない。ころころと無邪気に変わる表情が、ふと大人びた影を映す瞬間などは、見ると背中が粟立つような気さえした。
そんな彼女に歌を返すのは、見覚えのない青年だった。
「〝親密になるにはもちろん真心で接します。私はカジュカムの村の者です。もしも妹がここの人なら、私はここ、あなたの村へ引っ越して来ます。行ったり来たりで、会うのが難しく、出かけたり帰ったりするのが大変です。今から夫婦の縁を結びましょう、思いがけなく山かげで出会ったのですから〟」
朗々とした歌声は、その立ち姿と同様、自信に満ち溢れていた。
歳は二十の手前だろうか。日に焼けた顔はがっしりとして男らしく、真っ直ぐな眉毛がそのまま彼の気性を表しているようだ。身長こそ虎昴と変わらないが、肩幅と体格は比べるべくもない。身の丈もある大岩を、一人で転がせそうな筋肉だった。
着ているものは、どこの男たちもほとんど同じだ。刺繍も娘たちほど華やかな違いはなく、宝飾品もそれほど目立つものではない。それなのに、その青年には、どこか人の目を奪うものがあるのだった。
ここにきてようやく、虎昴は、自分が完全に出遅れていることを悟った。
(ミイルはもう、この歌垣の花なんだ……)
誰もが彼女の歌を聞いている。誰もが彼女に見とれている。特にこの青年は彼女に夢中で、彼女に吊り合うだけのものを持っていて、当人にもその自覚がある。――虎昴とは違って。
しかしその後悔も、しばらく二人の歌を聞くうちに薄れてきた。
どうやら、ひどく熱心な青年の誘いかけを、ミイルがするするとかわし続けているらしい。それも手ひどい拒絶ではないから、青年もまた、諦めることなく歌をかけ続けるのだ。手玉に取っているのとはまた違う。ミイルはただ、この掛け合いを心底楽しんでいる様子だった。
やがて名前も村も明かさないまま、ミイルからこの場の御開きを告げた。青年もそれを受け入れて、ただし「〝秋の歌垣を楽しみにしています〟」と返すことも忘れていなかった。
人の輪が三々五々に散り、また別の場所で歌の誘いかけが聞こえだす。休憩に行くのだろう、宴会中の草原へ下りていく青年の後を、娘たちの集団がくすくす笑いながら追いかけていく。
ミイルもまた、ひと息入れるように友人たちと談笑している。どうしようかと迷っているうちに、ふとこちらを向いた彼女と視線が合ってしまった。
「フーマオ!」
ぱっと目を見開いたミイルは、友人たちに一言告げて、虎昴のもとへとやってきた。
「知らなかったわ、来てたのね。いつもピモたちとばっかり話してるから、こっちには興味ないんだと思ってた」
「そういうわけじゃ……。ただ、おれなんてまだ、場違いかなって」
「そんなことないわ。ねえ、あたしの歌も聞いてたの?」
「ああ……」
無邪気に尋ねる彼女の瞳は、この三年で、見下ろすものになってしまった。
自分の背が伸びるにつれ、その華奢さ、その危うい脆さを感じるようになってしまった。あれだけ頼もしく、大きく見上げていた存在を――守りたい、と思うようになった。
躊躇はまだ、いくらかあった。
それらをいっそ振り払い、思い切って口を開いた。
「……〝野を駆ける春風の歌に、私の心は囚われてしまいました。私の喉はまだ拙い調べしか奏でられないのに、あなたへと歌わずにはいられない。そうさせてしまうあなたを、私は恨みたい気分です〟」
きょとん、とした目が虎昴を見る。ここで歌いかけられることを想像もしていなかったのは明らかだ。
いたたまれずに俯いた直後、しかし、朗らかな歌声が返ってきた。
「〝私の手の中の葉っぱは、とても美しい調べを奏でます。谷から来た、龍のような若者よ。この葉っぱを食べて、私のためにもっと歌ってください〟」
思わず顔を上げ、節も忘れて訊いてしまった。
「本当に?」
「ええ、本当に」
くすりと笑ったミイルは、今度は自分から歌い出す。
「〝水はただ美しく流れ去る。流れのかなたに見知らぬ村があり、あなたのような素敵な青年が住む。私の心は、恋に悩むばかりです〟」
「……〝水が流れ去るかなたから、あなたを探してやってきました。山を越え峰を越え、あなたのためだけにやってきました。春の陽のようなあなたの歌を、隣に座って聞いていたい。どうか許してくれますか?〟」
「〝あなたの声は小さくて、私にはよく聞こえません。こちらに来て、隣に寄り添って歌ってください。春の日が落ち、春の月が昇るまで、私のために歌ってください〟」
そう誘われるままに、そばの斜面に腰を下ろして、二人は歌を掛け合った。
実際に掛け合ってみて心底実感したが、ミイルは、本当に歌がうまかった。
まだまだ固く、言葉に詰まることも多い虎昴の歌を、さりげなく助けて繋げてくれる。――繋げようとしてくれるそのことに、少年の心は、完全に舞い上がってしまっていた。
(ミイルとの歌なら、いつまでだって、続けていられる気がする――)
ログたちや、ミイルの友人を含めた周囲の視線も気にならない。ただこの素晴らしく楽しい時間が、永遠に続けばいいのにと思いながら歌を返し続けていた。
そんな気持ちがあったのと、実際、虎昴には歌垣を締めくくるだけの技量がなかったこともあり、場の御開きを告げたのはやはりミイルの方だった。その頃には本当に月が昇ってしまっていて、歌垣に興じる人々も、ちらほらと見えるだけになっていた。いつの間に消えたのか、お互いの連れすらいなくなっている。
「さすがに歌いすぎちゃったかしら。ちょっと、喉が疲れたわね」
そう笑う声はやや掠れていて、申し訳なさに肩をすぼめる。
「すみません、おれ、楽しくってつい……」
「ああ、いいのいいの。あたしも楽しかったもん。これまでで一番、楽しかった!」
野原で行われていた酒宴もすっかり片付けられ、二人を照らすのは夕日の残照と、輝き始めた月明かりばかりだった。
薄暮の中、満面の笑みを見せてそんなことを言うミイルに、未だ歌った熱の冷めやらない虎昴は、たまらない気持ちで手を伸ばした。
「ミイル……あの……」
「なあに?」
微笑んだまま、彼女が首を傾ける。
それではっと我に返り、伸べかけた手を慌てて戻す。
そして少し迷ってから、腰の小物入れから、用意していたものを取り出した。
「あの……これ……」
それは、銀と玉製の吊飾りだった。彫刻がされた銀の円盤を中心に、帯に挟む紐と、瑪瑙玉の飾りが連なっている。それを一目見て、ミイルは目を瞬いた。
「あれ? これって、あの頭巾の……?」
その銀の円盤は、かつては桃花のものであり、その後、ミイルの針仕事によって頭巾の飾りになっていたもののひとつだった。
あの時のミイルには「大凌の男の子らしい」と太鼓判を押された刺繍の頭巾だったが、実際それは、男の子と呼ばれる年齢の子供がつけるものだったのだ。亡きタイ・ピモの意向があって、またその弟子としての立場を表すためにもつけてはいたが、それも彼がいなくなってからはやめていた。それでも、肌身離さず持ち続けていたのだが。
この歌垣に来ると決めてから、なんとか渡せる形にしようと、作り変えたのだ。
「おれが作ったので、あまりきれいじゃないかもしれないですけど……よければ、ミイルに、持っていてもらいたくて」
「あたしに?」
差し出すと、驚きながらも受け取ってくれる。
そして彼女は、花が綻ぶように微笑んだ。
「――うれしい。ありがとう、フーマオ」
それを見て、虎昴もほっと微笑み返す。その時だった。
『これが、お前のつがいだな』
ミイルの向こうから、二本の腕が伸びた気がした。
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