第四章 歌垣の花

第12話 春


 ――鳥の目が飛ぶ。


 天高く流れる風を翼に受け、光が満ちる峰々の上を、滑るように飛んでいく。

 厳冬を越えた山並みは、ところどころに雪を残しながらも、間違えようのない春の息吹を宿していた。木々には新芽と若葉が現れ、森は淡く色づき始める。草原も味気ない枯色を終えて、彩りを増して広がっている。風は甘やかさを交え、どこまでも行けそうな気がしてくる。


 高く昇り、滑り降り、人々の営みを眼下に眺める。


 やがて満足した鳥は、疲れ知らずの翼で風を捉え、戻るべき場所へ戻っていく。村を越え、草原を越え、森を越えて峰々を渡る。

 そして、ひとつの丘に佇む人影に、迷うことなく舞い降りた。

 慌てて片腕を差し出したのは少年で、見た目よりもはるかに軽いその鷹を、手慣れた様子で受け止めた。踊るように羽ばたき、その腕の上で跳ねる猛禽に、少年は笑う。


「嬉しそうだな、タオホア。天気がいいと、機嫌が違う」


 そんな少年の耳元に、鷹は小さな頭を擦り付けて言った。


『はるだよ、にぃに』

「ああ。……春だな、タオホア」


 霊体の頭を指先で撫で、虎昴は、精悍さを増した横顔で雲海を見晴るかす。


「あれから、三度目の春だ」





 タイ・ピモの死から、三年の歳月が流れていた。


 弔いを終えた虎昴は、以前から告げていた通り、元いた村外の家へと戻っていた。師がほぼ一人で造ったというあばら家で寝起きし、裏の畑でソバを育て、霊体の鷹となった妹の霊魂と暮らしていた。それまでと同じ、細々とした暮らしだ。


 ただ、以前と異なることには、村との行き来が増えていた。

 特に往路が増えていた。ピモとなるための教えを請いに、ショモ・ピモやラゴ・ピモの元へ行くのはもちろん、葬送や婚礼があると聞けば行き、春秋の祭りにも呼ばれて行き、あるいは畑仕事の手が足りないと言われて行くこともあった。お互いにそこまで馴染んだのは、やはりあのひと冬のおかげだった。

 訪ねてくる顔触れも、少し変わった。かつての訪問客はどうやらショモやラゴに頼まれた人々だったらしく、村にも顔を出す虎昴相手では、その役目もなくなったらしい。代わりに、いつだかソバの刈り入れを手伝ってくれたショモの息子や、ミイルの兄弟であるアピとログが、時々やって来るようになった。


 そして、そのミイルはといえば。


「今日は機織り、明日は刺繍。それからずっと、兄ちゃんのお嫁さんの手伝いだって」

「……そうか……」


 彼女の弟、十二歳になったログの返事に、虎昴はやるせなく肩を落とした。

 あれだけ日にも日にも訪ねてきていたミイルだったが、虎昴はしばらく、その顔を見ていなかった。最後に見たのは、今年の雪が解けるより前だったように思える。それもラゴ・ピモを訪ねた時で、気軽に言葉を交わせるような状況ではなかったのだが。


「まあ、しょうがないとこもあるよ。お嫁さん、もうすぐ産まれちゃいそうだし」


 ログの軽い慰めに、虎昴もああ、と頷いた。


「四月の終わりで、十月十日とつきとおかだったっけ。アピは嬉しいだろうな」

「そりゃね。初めての子供だもん」


 ミイルの兄、アピは去年結婚した。嫁いできたのは山を越えた村の娘で、アピとはひとつ違いの十八歳だったはずだ。柔らかな笑い方をする娘で、アピは見事、骨抜きになっている。

 村違いの二人が結ばれたのは、一昨年の秋の祭りがきっかけだった。いくつかの村が集まって行う祭りでは、若者たちの間で歌が交わされる。〝歌垣〟と呼ばれる、恋人探しの場だ。

 そう考えたのを見透かすように、ログが身を乗り出した。


「なあ、フーマオ。今度の祭りで、歌垣に交ざれよ」

「ええっ」


 虎昴は思わずたじろいだ。


「で、でもおれ、まだ十四だし、親もないし……」

「すぐに結婚しろって言ってんじゃないって」


 とログは笑う。


「……でも、姉ちゃんはどうかわかんないだろ。それこそもう十六だし、上の姉ちゃんたちも嫁に行っちゃったし。フーマオが歌垣に来て、姉ちゃんと歌ってたら、取り敢えずは他のやつらから守れるじゃん」

「守れる、って……」

「知らない間に、知らないやつに、姉ちゃんがとられちゃっても平気なわけ?」


 そこまで言われて、さすがに閉口する。


(平気なわけ、ないだろう……)


 故郷もなくし家族もなくし、別天地へと来た孤独な少年にとって、あの明るい笑顔と気さくな言葉が、いったいどれほどの支えとなったか。

 師として父としてのタイ・ピモとはまた別に、彼女はずっと、虎昴が生きる意味となっていてくれたのだ。それなのに。


(……いや。おれがミイルと、どうこうなるって話じゃない)


 ただ自分が知らないうちに、彼女と知らない相手との結婚が決まっているというのは、どう考えても望ましいことではないと思う。それだけは確かなことだった。


 相手の心が参加に傾いたことを見てとってか、ログはにこにこと笑って言う。


「安心しろよ、おれたちも一緒に行ってあげるから。なんなら、姉ちゃんへの贈り物も用意しといてあげようか? いい銀細工師のつてもあるよ」

「……ずいぶん背中を押してくれるが、何かあるのか?」

「姉ちゃんにいい結婚をしてもらいたいと思うのは、弟として当然だろ」


 ついつい疑うが、ログはすまし顔で言ってのける。


「フーマオなら、家は近いけど血は遠いし、おれたちもよく知ってるし、姉ちゃんとは歳も近いし。それに、親がないから、持参金もそれほどかからないしね」

「持参金か……」


 女性の持参金も男性の結納金も、ここでは家畜で支払われるのが一般的だ。この山頂では、それが一番、揺るぎない財産なのだ。持参金がないから嫁に出せない、あるいは結納金がないから嫁をもらえない、というのは、割とよく聞く話だった。


「まあ、そんな顔するなよ、フーマオ」


 思わず考え込んだ虎昴に、ログは悪びれなく肩を竦める。


「次に控えてる身としては、家の財産ってのは何より重要なことなんだよ。そりゃ、うちも貧乏な方じゃないけどさ。わかるだろ?」

「……ああ、わかるよ。でも、お前もわかるだろ?」

「え?」


 なにが? と首を傾げるログに、虎昴は、深々と切ない息をつく。


「おれには、十分な結納金すら支払えない。おれじゃどう転んでも、お前の将来の助けにはならないってことだよ」

「なんだ、そんなことか。じゃあどっちもなしで解決だな」

「――正気か?」


 夫は結納金を相手方に納め、妻は持参金とともに婚家へ入る。それがこの辺りのやり方だ。ようは縁を結ぶ家同士、これまでとこれからの生活を補填し支え合うものだが、だからこそ、欠くべからざるもののはずなのに。

 面食らった虎昴にも、ログは大真面目に頷いた。


「こんないい縁、他にないよ。おれが後押しするには、これ以上ない理由だね」




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