第11話 指路経
そして、あの秋から六度目の満月がやってきた。
その日の昼、タイ・ピモは、雪解けが進む丘へと虎昴を連れ出した。薄く凍った草を踏んで向かったのは、いつか、初めてタオホアを飛ばした場所だった。
あの日と同じように、虎昴はその腕から、輝く鷹を空高く舞わせる。
「……もう、ずいぶんと風が変わったな」
晴れ渡った空の下、それでも冬の澄み方を残した景色を見晴るかし、タイ・ピモは言った。
「もうすぐここにも春がくる。きみたちが天梯を上ってきた、あの季節だ」
「あれから……まだ、一年なんですね」
信じられない気持ちだった。
もう、十年も二十年もたってしまった気分だ。
深緑の河の傍で育った記憶は、ここにいる虎昴にとって、もはや別人のもののようだった。
輝く鳥が飛んでいる。
その空を見上げる師弟の間に、しばらくの間、言葉はなかった。
「……フーマオ」
やがて口を開いたのは、タイ・ピモだった。
「明日が、私ができる、最期の教えだ」
彼は、静かにそう言った。
「葬送の儀礼は、この村一番のピモに頼んである。彼は古からの作法に則り、素晴らしい経を読むだろう。それをぜひ、きちんと覚えてもらいたい。それが、私がきみへとできる、最期のことだ」
「……はい」
と頷く。頷くしかできなかった。こんな時にまで師である相手に、それ以外どうすればいいのかわからなかった。
そんな少年を優しく見つめ、タイ・ピモは続けた。
「ありがとう、フーマオ。我が弟子にして、我が息子。きみにとって、ここへ来たことは災いの末に違いないだろうが、それでも、私にとってはこの上ない救いであった。あの日、きみと出会えたことを、天地の神々に感謝する」
「……そん、な」
それはこちらの言葉だった。
つかえそうになる喉を、必死に励まして虎昴は応えた。
「おれの方こそ……あの日、あなたに会えたことを、すべての神々に感謝しています。あなたのおかげで、おれは独りぼっちにならないですんだ。あなたが導いてくれたから、タオホアもこうしていられるようになった。全部、あなたのおかげです。タイ・ピモ」
それを聞いて、男は嬉しげに相好を崩す。
「ありがとう」
目尻にしわを寄せたまま、タイは手を伸べ、少年の手にそっと銀の耳飾りを置いた。それは出会ったあの日から、ずっと、彼の耳元で揺れていたものだった。
「きみの行く先に、すべての苦難を上回るだけの、素晴らしい幸福があらんことを。私はそれを、この七地のどこかで、ずっと見守っているよ」
翌朝。
タイは起きてこなかった。
満月が西の空に沈むまで物悲しい経文を唱えていた山の歌声は、その知らせを受けて慟哭に変わった。ショモは人目もはばからず泣き、その涙も拭わぬままに、アユ家へと駆けつけた。
タイの葬送は、古法通りに行われた。
囲炉裏がある居間に寝台が置かれ、その上に、儀礼用の衣服を被せた遺体が寝かされる。上半身には白布、頭には笠が置かれて顔は見られない。遺体の枕元には供え物の食物が、足元には器に入れた灰に香が焚かれていた。
集まった家族、友人、村人たちの中で、筆頭となったピモが歌う。
「〝イータァ……死者はもう世を去った。雄の悪鬼と雌の化け物はもう世を去った。子孫は何千何百人と残っている。豚の肩甲骨で祭祀をし、家族を水に触れさせて儀礼に入れ、穢れを祓う。……〟」
悲痛さを際立たせる旋律で、ピモは言葉を重ねて歌う。嗚咽やすすり泣きがある中で、虎昴は耳を澄ましてその歌を聞き、目を凝らしてその所作を見続けた。
この村の葬送儀礼は、三日三晩続いた。
人類の死の歴史や故人の生涯をピモが歌い、祓いを行い、集まった人々には締めた羊の料理が配られる。夜には火を焚き、悪鬼が寄り付かないようにして、亡くなった人をみなで偲ぶ。その間も、ずっと誰かが歌っていた。村中のピモが、弔いの歌を紡いでいた。
三日目の朝。遺体は、近くの丘で焼くことになった。風が当たらない斜面で九層の薪を組み、少し離れたところでは、二人の若いピモが経文を唱える。その間、村人たちはやはり集まり、死者を悼んだ。一日かけて灰と骨になった遺体は、ひとまずアユ・ラゴが家に持ち帰った。
そして、その夕方。
虎昴の元に、ショモがやって来た。
「タイの頼みだ。お前には、最後まで見てもらわなくてはならない」
あれだけ泣いたショモだったが、三日のうちになんとか持ち直したようだった。毅然とした態度で、虎昴を連れて、遺体を焼いた丘より高い峰に登った。そこで腰を据え、これから一晩、最後の経である『
布を敷いただけの冷たい地面に座り込み、沈みゆく日に、ショモ・ピモは歌った。
「〝イータァ……死者はもう世を去った。いい人だった祖母は世を去った。いい人だった祖父は世を去った。子孫が何千何百といる家族が残った。道を指し示し、家族を水に触らせ、家族を儀礼に入れて穢れを祓う。……〟」
夜を遠く貫くように、小さな鈴を絶え間なく鳴らす。
「〝出発だ、出発。祖父よ、祖母よ、出発しよう。大きな屋敷を出て、ジュプネズを出て、ダゴルクが見えてきた。ダゴルクに到着し、ブズシュシャが見えてきた。……〟」
『指路経』は、死者の霊魂に行く先を指し示す経文だ。三つに分かれた魂のうち、あるべき場所へ戻るという魂の、道案内となるものだ。
かつてこの地で桃花を弔ってくれた時のタイ・ピモも、この『指路経』を歌ったという。ただ行く先だけは異なるため、妹の霊魂が語ったままに、ふもとの大河を下るようにと経文を変えて。
凍える夜が続くうち、ショモ・ピモに促され、虎昴もまた鈴をとった。冬の前、師から譲り受けた鈴だ。
清浄の酒を口に含み、先達に揃えて『指路経』を歌った。知らない土地の数々に、よく知る師の魂が、迷わずたどり着けるようにと強く祈って。
やがて東の空が白み、雲海の縁が金色に輝き始める。
「〝黄色い道と赤い道は神と化け物の道だ。黒い道は悪鬼の道だ。白い道が先祖の霊魂の道である。陰と陽の分かれる所で、生者と死者は別れ、生者の霊魂は戻って来る。……〟」
日が昇る。眼下の雲が、明け色に染まる。朝が来て、死者の魂が去ってゆく。
送るピモと、送られる死者の別れが、ここに成る。
歌が終わり、最後の鈴の音が朝日に溶ける。世界を照らすその光は、雲の上に霧を生み出していく。被った頭巾も、チャルワの下の服も、髪やまつげまでもが冷たい露を宿す。
陽のまぶしさに目を瞬くと、溜まった露が、頬を伝った。
(……さようなら、タイ・ピモ)
彼は旅立った。そのことが痛いほどに感じられた。わずかにあった温かな気配も、一晩の闇に呑み込まれたかのように、空虚だけを残して消えていた。桃花の時とはまったく違う。彼は迷わず、旅立っていったのだ。
ぼんやりと夜明けを見つめる虎昴は、不意に肩を掴まれて、はっとした。
「……タイに誓った。お前のことは、私とラゴが、立派なピモにしてみせる」
ショモだった。焼け爛れた瞼の下で、強い瞳が、少年を見据えていた。
「私とラゴだけじゃない。私の妻と息子たちも、ラゴの妻と息子たちも、お前には立派なピモになってほしいと思っている。そのためにできることは、なんでもしようと思っている。お前はここで、あの村で、タイを受け継いで生きていくんだ」
向かい合った少年の両肩を掴み、彼は、絞り出すように言う。
「頼むぞ、フーマオ。ここで、生きてくれ」
「…………」
そこに込められた想いは、わからない。
だからそれは、ただ虎昴の衝動だった。
露でも雨でもない雫が、目の奥から湧き上がる。零れたそれは、焼けるほどの熱を残して、龍鱗の頬を伝い落ちる。途切れることなく、流れ落ちてゆく。
少年は、師を失って、初めて泣いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます