第10話 秋、そして冬


 次の日の朝。

 二人はアユ家がある村へ向かった。


 これまで一切、立ち寄ることのなかった村外のピモの来訪に、人々はとても驚いたようだった。それでも追い返すような真似はせず、しかし無関心にもなりきらず、アユ家へと至る道を歩む二人の姿を、誰もが目で追っていた。


 アユ家は、村の中ほどにあった。垣根で囲んだ前庭を持つ、大きな家だ。鶏が歩く前庭には、三人の女性と小さな子供がいた。ミイルの姿もある。訪れた二人の姿を見て、はっと立ち上がったのは、小柄な壮年の女性だった。

 タイ・ピモが言う。


「ひさしぶりです。アーイさん」


 ミイルの母、タイ・ピモにとっては義妹にあたる彼女のとりなしで、二人はすぐにアユ家へと迎え入れられた。

 囲炉裏の左側に招かれ、ソバ酒をふるまわれる。とても丁重なもてなしだったが、家の主が帰るまで、アーイはあまり口を開かなかった。


「――タイ! 兄さん! よく来てくれた!」


 やがて戸口から入ってきた男は、喜色満面で両腕を広げた。――少年にも一目でわかった。この男こそが、ミイルの父でありアユ・タイの弟、アユ・ラゴだ。筋張った顔立ちは兄弟そっくりで、踊るような黒い瞳は、娘にそっくり受け継がれている。


「待たせてすまない、ちょうど畑に向かうところだったんだ。それで、今日はいったいどうしたんだ? 今まで、これっぽっちも訪ねてきてはくれなかったのに」


 ラゴは全体に、気持ちのいい人間だった。笑顔を絶やさず、言うべきことを言うのに余計な手間をかけることはしない。それでも不思議と、温かな思いやりが伝わってくる。

 そんな弟を静かに見つめ、タイもまた、余計な言葉を重ねなかった。


「かの神に告げられた。私はあと、満月を六度だそうだ」

「…………。そうか」


 そうか、とラゴは視線を落とす。

 笑顔も、さすがに続かなかった。


「そんな気はしていたんだ。父さんが死んだ時にも帰らなかった兄さんが、こうしてわざわざやってくるなんて。……そうじゃなければいいとも、もちろん、思っていたんだが」

「すまないな。私のために、お前にもずいぶん苦労をかけた」

「苦労なものか。兄さんの方が、よほど苦労したろうに」


 タイは、最後となるこの冬を村で過ごそうと思っていることを弟に告げた。弟は心からそれを喜んで、ぜひ、この家で過ごしてくれと申し出てくれた。虎昴を紹介し、この少年に自身の経典を継がせたいという兄の言葉にも、ラゴはあっさりと同意して、冬の宿を同じように提供することを約束した。

 アユ家の兄弟は、長い間話をしていた。これまでの二十数年間、交わさずにいた言葉の数々を、それぞれが相手に伝え合っていた。


 それを一通り終えた頃、家の戸口に人影が立った。


「タイ……!」

「……ショモ」


 息を切らして立っていたのは、タイと同じ年頃の男だった。四角い顎の顔にはひどく爛れた痕があり、よく見ればその痕は首や手にも現れている。しかしそれでも、彼は、自分の両足でそこに立っていた。


 わざわざ尋ねる必要もない。彼こそが悪霊カカの雷を浴びた牧童であり、そして、若き日のアユ・タイが命をかけて救った友に、違いなかった。


 二人の間に言葉はなかった。どこから駆けつけてきたのだろう、脚がもつれそうになっている親友にタイは笑いかけ、そんな親友に、ショモは怒ったように顔をしかめる。それでいて二人とも泣き出しそうで、やがてどちらからともなく歩み寄り、確かめるように肩を叩き合い、そして固く抱きしめ合った。

 壮年の男二人が涙交じりに抱き合う様子は、少し不思議で、なぜだかこちらまで泣きそうになる。


「……叔父さんが、いなくなっちゃうのが、いいことのわけないんだけど」


 途中から虎昴の隣を陣取っていたミイルは、なんでかな、と小さな声で囁いた。


「あたし今、すごく……嬉しいの」

「……わかります」


 そちらを見ないまま、虎昴も頷く。

 失ったものも、これから失うものも多いだろう。しかし同時に、それでこそ得られるものも、彼らの間には多くあるのだろう。


 それは尊く、儚いものだ。

 だからこそ、これほどまでに愛おしい。


 たとえ厳しく限られていても、ともに過ごせる時間は時間だ。それを得られた彼らの喜びを、虎昴は、まるで自分のことのように感じられた。

 そう感じられる自分にこそ、彼は、そっと感謝した。





 話を終え、虎昴たちは、取り敢えずこれまでと同じ生活に戻った。

 アユ家の方にも、二人を受け入れるための準備が必要であったし、二人の方でも、今まさに実りつつあるソバ畑の収穫をやり遂げなければ、冬の食料がなくなってしまうからだ。


 生活は同じだが、タイ・ピモの表情は、前と比べてずいぶん晴れやかなものになった。

 それがどれほどの重荷であったか、今になってわかるようだった。出会ってからこのかた、常に穏やかに虎昴を導いてくれていたタイ・ピモは、それでもずっと影を背負っていたのだ。その影が、今はまったく、取り除かれていた。


 山野歩きも変わらず続き、これまで入ることのなかった村々にも、タイ・ピモは顔を出して回った。そこそこで村の筆頭だというピモにあいさつし、また遺すことになる弟子についても、助力をよろしく頼んでいった。


 やがて山の畑が黄金に染まり、天上に秋がやってきた。


 ソバの収穫には、ショモが息子を連れてやってきた。虎昴より年上の十九歳だという青年で、普段は父親と一緒に、家畜の放牧をしているらしい。「知り合いに頼んで代わってもらって、わざわざ手伝いに来たんだぜ」と呆れながらも、嬉しげな父親を見る眼差しは、とても優しく微笑んでいた。


 彼らに誘われ、村人総出で行われる秋の収穫祭にも参加した。

 いくつかの村の人々が盆地に集まり、ピモたちの進行で家畜の邪気祓いをした後、夏の放牧で丸々と太った羊の毛刈りを一斉に行う。それも終わると、牛を潰しての大宴会だ。大樽の酒がふるまわれ、馬の駆け比べを始めるものもいれば、歌いながら踊りだす若い男女もいる。

 たいした知り合いもいない虎昴は、人々と盃を交わす師の後ろに隠れていたが、いくらともたたずミイルに見つかり、引っ張り出された。


「フーマオも一緒に、歌いましょうよ!」


 一張羅を着て笑う彼女はまぶしいほどだが、その誘いには尻込みしかできない。


「いや、おれ、まだ歌は……」


 普通の会話にはずいぶん慣れたものの、歌うとなるとまた別だった。

 彼女たちが歌う歌は、山の下から来た少年にとっては、まだまだ耳馴染みのないものだったこともある。節回しも旋律も、どうにも複雑で取っつきにくい。


 その後も何度も誘われたが、虎昴は固辞し続けた。そのうち、ミイルはその熱心さを他の娘たちにからかわれ、それに言い返しながら向こうへ行ってしまった。

 怒らせてしまっただろうかと気になりつつ、それよりも窮地を脱した安堵感で、ほっと息をつく。そんなところで、ずっと隣の男と話していたはずのタイ・ピモが、さりげなく口を挟んできた。


「どういう歌でも、歌えるようになった方がいいぞ。儀礼歌だけでは、先に進めない物事もある。――特に、人と人との間では」

「…………がんばります」


 すべてを見透かすような物言いに、苦く呟くと、男は朗らかな声で大きく笑う。

 やり取りが聞こえていなかった周りの人々は一瞬驚き、しかしすぐに、一緒に笑いだした。自分が笑われているわけではないと知りつつも、鱗の頬がどうしようもなく熱くなる。

 虎昴は首を竦めるように、歌う人々へと視線を向けた。


「〝香炉山に登り、四方を見渡せば、連れのある者は組になり、連れのない者は独りぼっち。私も独りでつらかったけれど、どこからか幸運がやって来た。娘さん、あなたがたのおかげです〟……」


 抜きん出た若者の歌声に、娘たちが笑いさざめき、年長らしい一人が歌を返しだす。その歌声も、なかなかのものだ。何度かのやり取りの後、歌は誰もが知るらしい舞踊歌に変わる。

 踊る輪の中に太陽のような少女の笑顔を見つけ、そのまま目で追いかける。


(……どこからか、幸運がやって来た……)


 幸運とはまばゆく笑い、歌って踊るものだろうかと、少年はずっと考えていた。





 タイ・ピモははじめ、村外の家ごとすべてを整理して、アユ家に移り住むつもりだった。


「春になっても、ここに戻ることはないだろう。こんな場所で、家屋をそのまま朽ち果てさせるわけにもいかないからね」


 それはもっともな話かもしれなかったが、しかし虎昴は反対した。思った以上に頑なな弟子に、タイ・ピモは、困るより先に驚いたようだった。


「みんな、きみのことも受け入れてくれただろう。居候では肩身が狭いなら、村に、新しい家を作ることもできるんだ。ここよりはよほど安全で、住みやすいはずだよ」

「それでもおれは……春になったら、また、ここで暮らしたいんです」


 あばら家には違いない。彼が補修しながら住み続けていたとはいえ、もともとそう長い間、暮らす予定ではなかった家だ。夏の嵐では雨漏りがしたし、立て付けの悪い窓もある。

 それでも虎昴にとって、春からの半年を過ごしたこの家は、もはや第二の我が家だった。

 それに、と思うこともある。


(……本当にそうなるかは、まだ、わからない……)


 山羊神からの託宣はあれど、あれからのタイ・ピモの体調に、別段の変化があるわけではない。むしろ清々しく活発さを増したようにすら思える彼が、本当にあと何ヶ月かで死んでしまうとは、虎昴には、やはり信じられなかった。そして、もしも春からも彼が村で暮らすのならば、やはり自分には、一人で生きていくための場所が必要だと思うのだった。

 結局、少年の主張を受け入れて、タイ・ピモは家を残すことにした。数少ない持ち物もそのほとんどを虎昴に譲ることにし、結果、何も変わらないままだった。


 やがて朝の水差しに氷が張り始める頃。二人は、村のアユ家へと移り住んだ。

 タイ・ピモには主人の部屋の向かいにある客間が、虎昴には家畜部屋の二階部分があてがわれた。囲炉裏がある居間から梯子で上る、広い寝棚のような場所だ。床が薄く寝転がると豚の声が聞こえるが、積まれた荷物の隙間だけでも十分な広さだった。

 そして最大の利点は、壁の一ヶ所に、明り取りの小窓があることだ。


『――にぃに』


 こつこつ、と羽目板をつつく音に窓を開くと、輝く鷹が姿を現す。人間ならば頭しか通らないような小窓でも、鳥の身であれば難なく通れた。――鬼避けがある家に霊体を入れるには、こちらから招いてやる必要がある。ただ特別な儀式はなく、扉を開けてやるだけでいい。

 そうして誰にも見られずタオホアを出入りさせるのに、つまり、ここは格好の場所なのだった。


 そうして、冬がやってきた。


 山頂の集落は、風と雪に閉ざされた。人々も家畜も、壁の内で耐え忍ぶ季節だ。

 風雪が収まり太陽が覗くわずかな時間以外、一日のほとんどを屋内で過ごす。みなで囲炉裏の傍に集まり、手仕事をしながら話したり、幼子に乞われて歌ったりする。

 そんな中で、虎昴は、ピモとなるための修行に明け暮れた。

 日が出た時には開いた窓辺で、そうでない時には火明かりで、虎昴はタイ・ピモが持つ経典を、ひとつひとつ書き写していった。漢字ではない彼ら独自の文字には苦戦したが、実は、その字を読むことは夏の間におおかた覚えてしまっていた。読んでは写し、そしてまた読むことを繰り返しながら、少しずつ巻物の数を増やしていった。

 覚えるべきはそれだけでなく、儀礼の手順も山のようにあった。


「山野で行う儀礼と、人の間で行う儀礼とは、やはり違う。もっと早く、きみに、いろいろな儀礼を見せてやれていればよかったのだが」


 そう言って悔やむ師に、弟子としてできることはひとつだけだ。「この冬のうちに、覚えてみせます」と言い切った虎昴は、その宣言を叶えるため、これ以上ない努力を重ね続けた。

 そして、そういう時にはタイ・ピモの弟、アユ・ラゴがよりよい師になった。


「祖先の祭り、婚礼の歌、葬送の儀礼などいろいろあるが、私が得意なのは婚礼だな。祝いの歴史を歌い上げるのは、とても清々しくていいものだぞ」


 そんな話を聞くのは、虎昴一人だけではなかった。ラゴからピモを継ぐ二人の息子たちも、同じ炉端で教えを受けた。ミイルの上の兄が十六歳、下の弟が九つだという。二人とも、最初こそ異形の漢人と席をともにすることに戸惑いを見せたものの、次第に慣れて、熱心な少年に自分の知識を分け与えるようにまでなった。

 嬉々として語るラゴ・ピモに、虎昴も遠慮なく質問を重ねる。


「そういう自分の家の儀式を、すべて、自分たちで行うんですか?」

「いや。戸別で行うのは祖先の祭りくらいだな。あとはそれぞれ、得意なものに頼むのが慣例だ。……実を言うと、私も葬送の儀礼というのは、ほとんどやったことがない」


 そう言った際に見せた微かな苦みは、いったい何を思ってのことなのか。

 少年も、わざわざ尋ねる真似はしなかった。知らないふりで、次の質問へと気持ちを切り替えた。


 アユ・タイからピモを継ぐ少年を、アユ家の人々は、温かく支えてくれていた。

 本来ならば、ただ今日を生きるためだけにも努力が必要な季節だ。そんな中でも、こうして修行にかまけていられるのは、彼らの厚意があってのことだった。

 アユ・タイの最後の願いを叶えようという、みなの協力があってのことだった。



 天頂の厳しい冬は、そうして過ぎた。




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