第9話 いつかの命


 ――それは、二十数年前の初夏の頃。

 ある強力な悪霊が、この辺り一帯をひどく脅かしていたという。


「二つ向こうの峰の先に、草が茂るだけの窪地があっただろう。かつて、そこにはひとつの村があったんだ」


 ある時、その村に住んでいたカカという男が、別の男との諍いの末に殺された。

 無念な話だが、それだけでは悪霊は生まれない。ピモが適切な処置さえ行えば、どんな霊も悪霊とはならないはずだった。――ならないはずが、しかし、折悪しくその日は秋の祭りで、どこのピモもすぐには動けなかった。


 結果、ピモの鎮めは間に合わず、カカは怨みのまま悪霊となってしまった。


 カカの怨みは激しかった。木々や家、家畜や人の頭の上に、次々と雷電の矢を落とした。多くのものが焼け、多くの家畜や人々が死んだ。当然のようにカカを殺した男も死に、かろうじて難を逃れた人々も、他の土地へと逃げ出してしまった。

 結果、それほどの怨みのわけを語るものもいないまま、ただ雷電の悪霊だけが、この地に残されることとなってしまった。


「生き残りを守ったピモたちは、とても優秀だった。悪霊が決して自分たちについてこないよう、そのことだけに注意を払って、誰にも告げずに逃げて行った」


 周囲の村にその事態が知れたのは、何も知らない一人の牧童が犠牲となった後だった。

 位の高いピモたちが協力し合って、神々や、あるいはその悪霊自体にうかがいを立て、そうしてようやく、ある程度の経緯を知ることができたのだという。

 カカの悪霊は強かった。辺りのピモたちが何十人も集まり、十日と十夜、歌と祈りと生贄を捧げ続けた。それだけのことをして、ようやくカカは鎮まったという。


 しかし、話はそれで終わらなかった。


 実は、件の牧童は、奇跡的に一命をとりとめていたのだ。

 彼は、誰が見ても長くはもたないと思うほどの大火傷を全身に負っていた。驚くことに意識はあったが、その痛みを思いやると、いっそ昏睡状態に陥ってしまった方が、彼のためだと誰もが思った。

 そのまま、痛みを忘れたまま、旅立つ方が、彼のためだと。


「そいつを助けるため、まだできることがあるはずだった。しかし当時の、村のピモたちは、悪霊の名残をなくすためにも、そのまま死なせるべきだと決定した」


 そんな中――当時、二十歳になるかならないかだった若きアユ・タイは一人、その決定を、認めることができなかったという。


「実を言うとね、そいつは私の親友だったんだ。村が同じで、家も隣近所でね。兄弟の一人のようなものだったよ。それに……そいつは、結婚が決まったばかりだったんだ」


 一つ年上の、しっかりものの娘との結婚が、すぐそこに待っているはずだった。盛大な式を行い、子宝にも恵まれ、一人前となってしあわせな家庭を持つはずだった。


 ――それが、こんなことで奪われてしまうなんて。


 親友の命を諦められなかったアユ・タイは、急ぎ、一人で草原へと出た。

 そして、真っ白な雲霧の中で、あの山羊神と出会ったのだ。


「『命の代わりとなるのは命だけだ』と、かの神は言った。死へと向かう命を救いたいのであれば、別の命を捧げよと。神々とのやり取りでは、さほど珍しいことではない。ピモの儀式では、山羊や鶏を生贄とすることは普通にある。……しかし」


 その時、彼が捧げたのは、山羊でも鶏でもなかった。


「私は若く、頭に血が上っていた。深く考えることもなく、『では、いつかの私の命を代わりとしてください』と言ってしまっていた」


 いつか、と言ったのは、その場ですべてを渡してしまうわけにはいかないと思ったからだ。親友の確かな回復を、生きている己の目で見たかったからだ、と。

 それを聞いた山羊神は、可憐な顔で、愉快そうに笑ったのだという。


『それでは、いつかのお前を代わりとしよう』――と。





「彼が快復へ向かうのを確かめてから、私は村での暮らしの一切を捨てた。幸か不幸か、まだ結婚はしていなかったから、養うべき家族を捨てることにはならなかったが」

「……どうして、捨てたんですか?」

「恐ろしかったからだ」


 答えは端的で、明快だった。


「いつ終わるとも知れない呪いだ。馴染んだ人々の中で不意に迎えることを考えると、それはとてつもなく恐ろしかった。積み重ねた多くのものを突然すべて失うことが、恐ろしかった。それくらいならと、自分で時に区切りをつけ、ただ独りでその時を迎えたいと思ったのだ」


 親兄弟と友人たちに別れを告げ、最低限の荷物以外はすべて処分した。そして村から離れたこの場所に一人寝のあばら家を建て、残りの命を、たった一人、生きることにしたのだ。

 男は遠くの山並みを見つめ、「だが」と話を続けた。


「五年たっても十年たっても、その時は訪れなかった。私は、天梯のそばで風変わりな関守となり、ここに暮らして根付くまでになった。そうして二十年……ようやく独りにも慣れたと思っていたのに、きみたち兄妹が現れて、ミイル、あの子までよく来るようになって……」


 そこまで語って、男は厚い両手に顔を埋めた。汚れを取るようなしぐさで何度か顔をこすり、それから、大きな溜め息をつく。


「諦めを、見抜かれていたのかもしれないな。生きることを諦めたものを死なせても、それは呪いにはならないだろう。死を望むものへの死は、ただの祝福だ。かの神は、私がこうして、〝もう少し〟と願う時を待っていたのかもしれない」

「…………。あの」

「ああ、心配することはないよ」


 上げられた顔は、いつもと同じ穏やかさを持っていた。


「大丈夫、ちゃんと心は決まっているんだ。今更、逃げも隠れもすることはない。だからこそきみには一人で生きていけるようにと教えているし、この冬をともに過ごせるなら、残りを伝えるのにも十分だろうと思う。もしそれでも不安なら、前にも言ったように、後見となってくれる確かな人を探しておくし――」

老師せんせい


 堪え切れず、少年は話を遮った。漢語での呼びかけに、男も、ふと口を閉じた。

 師のいつにない口数の多さが、心の臓に、突き刺さるようだった。


「アユ・タイ老師」


 もう一度呼び、語りかけた。


「もしもその神が、あなたが〝もう少し〟と願う時を待っていたのなら。それは、感謝すべきことだと、おれは思います」

「…………。なぜ?」


 問う声はどこか固かった。

 だからこそ虎昴は、それに答えた。


「絶望の中の死は、確かに甘やかで安らかです。失うものが何もないのは、とても楽だと思います。でも、それを諦めとして受け入れて、まだある時間を潰すように生きるのは、なんだか違うと、おれには思えるんです」

「違う? 何が違うだろうか?」

「だって――半年、あるんですよ」


 そう言うと、男は一瞬の後、はっと小さく息を呑んだ。

 あるいはそれは、目の前の少年の瞳に映る、仄暗さのためかもしれない。


「もしもあなたが〝もう少し〟と願った瞬間に命が終わっていれば、それは強力な呪いかもしれない。でも、あの神は、あと半年くれたんです。――今日でも明日でもなく、あと半年を、約束してくれたんです。それは、死の約束に違いはないかもしれないけど、ただそれだけでは、ないはずでしょう」


 何の猶予もなく、河岸の村ひとつを滅ぼした呪いとは、違うだろう。

 ――たった半年。されど半年だ。


(あと半年あったなら――あと半年と、知っていたなら)


 家族とできることが、どれほどあっただろう。友人と笑い合える時間が、どれほどあっただろう。小さな妹にしてやれることが、いったい、どれほどあっただろう。


「〝もう少し〟と願って、まだあと半年あるんです。神々の言葉なら、それは誓約と同じでしょう。あと半年、生きたいと願うことを自分にも許して、神々に許されてもいるんですよ」


 呪いなどなくても、今日明日のことすら、人間にはわからない。

 そんな世の中で告げられたそれは、感謝すべきことに違いないと、虎昴は思う。

 唖然と固まっていたタイ・ピモは、やがて、大きな息を吐き出した。


「……負うた子に教えられ、というのは、こういう時に使う言葉なのだろうかね」


 しみじみと出された言葉に、少年は渋そうに顔をしかめる。


「負われたことありましたか? おれ」

「村の前からあの家まで、どうやって来たと思っていたんだい? 今はともかく、あの時のきみたちに触れる勇気のあるものは、ここでは私一人だったんだよ」


 それも、死への諦めがあったからなのかもしれない。

 そう呟いて、少し笑う。


「……きみに、そこまで言わせて悪かった。師匠面をしておいて、情けないことだな」


「まったくです」と無遠慮に言うと、「まこと、申し訳ない」と笑い交じりに頭を下げる。

 そうしておいてから、タイ・ピモは、丘から見える山並みをはるかに見やる。


「雪が降り始めると、ここでの生活はより厳しいものになる。私一人なら、もう慣れたものだったのだが……きみもいるこの冬は、村で過ごすのも、いいかもしれないな」


 どこか窺うような言い方に、虎昴は真っ直ぐ、頷いてやる。


「あなたがそうしたいのなら、それがいいと思います」


 それを聞いて、少年の師は、ほっと安堵したように相好を崩した。


「ありがとう」と言ったその声音は、もしかしたらこれまでで一番、人間らしいにおいがするように思えた。




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