第三章 死の約束

第8話 雲中の山羊神


 それは晩夏の頃。

 とある尾根を下って、家路についていた時だった。


 朝から晴れ模様だった山の向こうから、ひと群れの雲が滑り降りてきた。真夏の雲とは違い溶け入るような質感のそれは、草の斜面を歩いていた二人をあっという間に呑み込んだ。

 一瞬にして、世界が白に埋め尽くされる。


「しまったな……」


 タイ・ピモはこれまで、そういった雲に行き当たるのを用心深く避けていた。

 夏場とはいえ雲霧に触れると身体が冷えるし、視界の悪さの中で、何が起こるかわからない。


「夏のチャルワじゃ、冷えますね。どこか岩場に入りますか?」

「いや。……奥行はそれほど大きくない。少しでも見えるうちに、歩いて抜けてしまおう」


 いつも慎重な彼がそんなことを言い出すとは思わず、少し驚く。しかし雲がかかる前に見た景色に難所はなかったはずで、それなら歩いた方がいいのかもしれない。山を越えてきた雲がこの草原を過ぎるまでに日が傾けば、凍えてしまう危険もある。

 男を前にして、二人は進んだ。

 白昼なのに、一寸先もわからない。白に包まれた世界は、長く居続けると息が詰まってしまいそうな圧迫感があった。早く抜けてしまおうと言ったタイ・ピモの気持ちがよくわかる。


 その時、ふっと強い風が吹き、少し先までの視界が開けた。


 その瞬間、前を行く男が足を止めた。すぐ後ろについていた少年はぶつかりそうになったが、かろうじてとどまり、師の背中を見上げた。


「どうしたんですか?」

「シッ! 静かに」


 潜めながらも強い口調に、虎か狼でも出たのかと身を固くする。ここで出会ったことはないが、家畜を狙ったそういうものがいることは、虎昴も耳にして知っていた。

 猛獣であれば応戦の必要がある。太刀や弓矢でそのための武装はしているが、実際に使ったことはない。とにかく状況を把握しようと、目の前の背から顔を覗かせた――のだが。


 そこにいたのは、虎昴が想像だにしないものだった。


「え……?」


 は、雲霧をまとうようにして歩いていた。


 若く美しい白面に、重さなどないかのようになびく髪。少女のような上半身には一糸まとわず、遠目にもすらりとした腰元と、小ぶりな乳房が魅力的に映る。――だがその脚はどう見ても獣のものに間違いなく、小さな頭に生えているのは、山羊の角で間違いなかった。周囲の雲と同じ毛並みをした獣を引き連れ歩く姿は、どう見ても、この世のものではありえなかった。


「あ、あれは……?」

「神だ」


 短く答えた男は少し俯き、少年にも同じようにさせて早口で言った。


「決して顔を上げず、目も合わせるな。向こうが話すまで口を開かず、もし話しかけられたら、短く、だが必ず丁寧に答えなさい」


 さくり、と草を踏む音が届くまでになり、少年は返事もできずに固まった。

 さく、さく、という足音は、固く繊細に耳まで届いた。革の靴底が立てる音とは、明らかに違う。無意識のうちに息を潜めるその視界に、やがて現れたのは、割れた蹄をもつ二本の獣の足だった。


『――呪いか』


 不意に聞こえた声音は、わん、と響く鐘の音のようだった。


「呪いです」


 応えたのは、タイ・ピモだった。


鱗尾うろこおのにおいだ』

「龍の呪いです」

『地の底のにおいが、なぜここでするのかと思っていた。それのせいか』

「左様かと」

『ふうん。おかしなものだ』


 どこかしら慣れた調子の会話をへて、俯いた虎昴の頭に、白魚の手が伸べられた。


『鱗の子』

「え? ……あ、はい!」

『呪いは解かれた。されど鱗尾の怨みは深いぞ。ゆめ、忘れるな』

「は、はい……」


 蹄の脚を見つめたまま頷くと、ふっと頭上の気配が遠ざかる。

 別れの言葉もなく、蹄は再び歩き出し、二人の横を通り過ぎる。そう感じて、思わず顔を上げた時だった。


 去りかけていたその背が、不意に振り向いた。

 そして一言。


『――お前はあと、満月を六度だ』


 それを聞いた時、こわばっていたタイ・ピモの身体が、ふっと弛緩したように見えた。


 神は歩み行き、やがて雲が過ぎ去った。


 立ち竦んでいた師弟は、東の空に星が輝き始めているのを見て、急に現実に立ち返った。このままでは凍えてしまう。慌てて歩き出しながら、少年は、小声で師に尋ねた。


「今のは……なんだったんですか?」


 決して歩みを止めないまま、男も小声でそれに答えた。


「あれは、雲中の山羊神だ。雲を引き連れ、山々を渡り歩く。ただすれ違うだけのこともあるし、出会ったものに予言を行うこともある。……機嫌を損ねると、死を与えることもある」

「そんな――理不尽な」

「神とは理不尽なものだ。だからこそ、我々を助けもする」


 思わず呟いた少年に、男は真っ直ぐ前だけ見据え、噛み締めるように言葉を返した。あまりにも真に迫ったその様に、少年は何も言えずに口を閉じる。


 二人は黙々と、山を下っていった。

 やがて、薄闇の中に見慣れた小さな家が現れた頃。男がぽつりと呟いた。


「お前にも、もう〝いつか〟の話をしなくてはな」

「いつかの?」


 それにも振り向かず、彼はただ一言で答えた。


「――私が、村を避ける〝わけ〟だ」





 夜に語るのは縁起が悪いからと、話は翌日に持ち越され、その日は二人とも就寝した。

 その深夜、虎昴は何度か山羊の蹄にうなされ目覚めたが、そのたびに、すぐそばにいるタオホアの優しい翼に悪夢を払われ、安心して眠り直すことを繰り返した。


 翌朝は、雲ひとつない快晴だった。見晴らしがよく、近くに放牧するものもいない丘に登り、タイ・ピモは黙ったまま岩に腰かける。人が腰をかけられそうな岩はそのひとつだけというのもあり、少年は特に考えず、その足元に胡坐をかいた。

 しばらくの間、風が流れるだけだった。


「私は、もうすぐ死ぬ」


 不意に口を開いたタイ・ピモは、たった一言、そう告げた。


「……え?」


 意味が分からず、虎昴は師を見返した。

 その視線をしっかりと受け止めて、彼は言った。


「正確には、あと六度の満月の後だ。おそらくその翌朝だろう」

「そ、それって、あの山羊神の……?」

「そうだ」


 頷く相手に、愕然とする。


『――お前はあと、満月を六度だ』


 雲中の神が残した、去り際の言葉――たったそれだけにすぎない言葉が、タイ・ピモの余命を告げるものであったなど、容易には信じられない気持ちだった。


 そもそも、それはいったい、なぜなのか。

 少年が持て余しているその疑問に答えるように、男は淡々と、話を続けた。


「私もまた、この身に〝呪い〟を受けている。まさに、あの山羊神による呪いだ」




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