第7話 伝説と精霊
夏が近づくと、高地の緑はどんどんと深さを増してきた。
雲と雨が増え、草がよく育つようになると、低地の病気を避ける目的もあって山頂近くでの放牧が盛んになる。
大凌山上の人々は、実にさまざまな動物を飼っていた。毛と肉を採るための羊や、家の近くで囲う豚、牛、山羊、馬に、犬や鶏まで。場所柄からは想像できないような数の群れを、とても広々と自由に飼育している。春には荒涼としたふうさえあった山頂は賑やかになり、遠く見晴るかすかなたの山まで、点々と白や茶色の群れが見えた。
「こんなにたくさんの家畜、いったいどこからきたんですか?」
ある時、少年は不思議に思って師に尋ねた。
「もしかして全部、人が担いで、あの梯子を上って?」
「いやいや、まさか」
笑って否定した男は、いくらか真面目な顔を作る。
「我々ピモに伝わる話では、この地の獣たちは〝アウォシュプ〟という神によってもたらされたと言われている。あるいは、人を含めたすべての獣や鳥は、雪から生まれたのだという言い伝えもある」
少年は驚く。
「雪から、ですか?」
「そうだ。アウォシュプ神にしろ雪からにしろ、彼ら、この地の獣はどこからきたのでもない。この地で生きるため、この地で命を得たものたちなのだよ」
まったく不思議な話だった。
故郷である河岸の村では、家畜とは町から買ってくるものだった。漁を生業としていた少年の家では必要がなかったが、それこそ畑作をする家には農耕牛がいたし、村長の家には騎乗用の馬までいた。――しかしそれはそれであり、彼らがどうやって生み出されたのかなど、誰も気にしてはいなかったと思う。ましてや雪から生まれたなど、考えたこともなかったけれど。
(でも……ここの獣たちは、本当に、そうなのかもしれない)
言葉も習慣も、まったく違う別天地だ。もしかすると、そういうこともあるのかもしれない。死者の魂が鳥になるなら、雪から生命も生まれるだろう。
そうして新たな考え方に馴染もうとする少年に、男は「しかし」と声を潜めた。
「実を言うと、この山上へ登るには、天梯の他にも道があるんだ。もう少し緩やかで、人も獣も歩いて登ってこられるような山道がね。とある言い伝えには、我々の祖先はそういった道を通ってこの地へたどり着いたというものもある。我々に身近な馬や
「――道が、あるんですか? 今も?」
「ある」
と頷いた男は、少年が考えていることを正確に読み取り、「だが」と継いだ。
「その道があるのは、もっと西の奥の方だ。漢人の人里からでは、何日かかるかもわからない。きみたちがふもとの河をさかのぼってきたのなら、天梯を使ったのは、まず間違いなく最短の選択だったよ」
「…………そう、ですか……」
足だけで登れる道を選んでいれば、もしかしたら妹も助かっただろうかと思ったのだ。それほどあの天梯は、つらく険しく、時間のかかる道程だった。しかし、それですら最短であったのなら、他の道のことなど、今更考えても無意味なことだった。
彼らの山野めぐりは、夏中続いた。
タイ・ピモは、虎昴にこの地のすべてを教えようとしているようだった。どの峰が何という名前で、どこの谷にどれだけの人々が村を作っているか。どの道がどこまで続いていて、どこの森ではどんな薬種が採れるのか。弟子が覚えるまで何度も繰り返し、根気強く教えた。
「村の外に住むのなら、外の世界をきちんと知るべきだ。場所を知ればどこへでも行けるし、ものの在処を知れば、不測の事態にも選択肢を増やせる」
河岸に暮らしてきた少年にとっては、見るものすべてが珍しい。言葉の練習も兼ねながらなので時間はかかったが、ゆっくりと、しかし確実に知識を蓄えていった。
この時期、山を歩くと、自然と人との交流も増える。放牧をする男たちや、その様子を見に来た女子供と言葉を交わし、時には食事をともにすることもあった。
村には入ろうとしないタイ・ピモも、外で出会う人々には、普通の態度で接していた。特に踏み込むことはないにしろ、依頼されれば力も貸した。
ある深い霧の翌日には、いなくなった牛の行方を占ってほしいと求められ、その結果、森の中に迷い込んでいたところを無事に保護したこともあった――牛は大切な財産だ。その時には、駆けつけた牛の持ち主に、感謝とともに抱えきれないほどの酒や干し肉を贈られた。
「どこに生きるのでも、困っている人を助けるのは、当然のことだ」
炉端で謝礼の酒を飲み、珍しくほろ酔いになったタイ・ピモは、弟子へと語った。
「伝説にもあるだろう。かつて神の怒りで世界に水が満ちた時、チョプジュムの三人の息子のうち、神の使いアガザクに親切にした末の子だけが、彼からの助言で助かった」
少年は頷く。
「グティクズが起こした大洪水の話ですね」
「人と人、人と物事、物事と物事――すべてのめぐり逢いには、意味がある。それをよりよきものとしたいなら、己にできることを惜しまぬことだ。助けた相手が、たとえ自分の助けとはならなくとも、いずれまた誰かを助け、その誰かもまた誰かを助けるだろう。それが良い実となるか悪い実となるかは、我々が知る必要のないことだ。ただ目の前の、その出会いに、常に真剣であるべきなのだ」
炎の揺らめきを挟んだ場所で、虎昴は、酒器を傾ける師を納得とともに見返した。
(この人は、あの日のおれたちに対しても、真剣だったのだ)
困っている人と言えば、あの日の少年を置いて他になかっただろう。
もしもあの日、あの村の外でタイ・ピモに出会わなければ、まず間違いなく生きてはいなかった。小さな妹とともに冷たくなり、それこそ、無慈悲な猛禽についばまれていたことだろう。
(おれも、この人のようになろう)
いつの時にも真剣であって、惜しむことなく人助けをしよう。助けられたこの命で、誰かを助けられるようになろう。そのためにも、自分にできることを増やしていこうと決意する。
――そして、とひそかに思うのだ。
(いつか、〝良い実〟だったと、思ってもらいたい)
あの日あの時。差し伸べたその手が救ったのが、どれほど大きなものだったかを。その手を少年へと伸べたことが、どれほど偉大なことだったのかを。
きっと誇りに思ってもらいたいと、そう、強く願うのだった。
一からすべてを教わることは、当然大変なことではあったが、いっそ清々しいような気持ちも起こるものだった。自身以外のほとんどを失った少年にとって、その穴を埋めるにも等しい作業だ。抱えきれないほどの痛みや悲しみ、寂しさを置いていくには、これまで触れたことのない世界を歩くのが最適だった。
山野を行くピモの世界には、さまざまな精霊が存在した。
崖の精霊がスリ。川の精霊がムジ。杉林の精霊がルトで、野原の精霊がツピだ。彼らに人の善悪は通用せず、冗談ですまない悪戯をするかと思えば、驚くような祝福を与えてくれることもある。受け取る人間にはどちらかを選ぶ権利はなく、もし呪われれば呪い返しの儀礼を行い、もし祝われれば返礼のための儀礼を行う――という関わり方をするしかない。
そしてその時、精霊と人間との間に立つのもまた、ピモの役目のひとつだった。
「先日のように家畜や、あるいは子供がいなくなった時などは、精霊たちに行方を尋ねる。なぜなら、彼らはこの
タイ・ピモは、そして、と言葉を重ねた。
「時には、崖や川に近付いた子供が、そこの精霊に引き込まれることがある。それを防ぐため、折々に儀礼を捧げるのも大切な役目だ。儀礼を受けた精霊は、よほどの気まぐれがない限り、子供や家畜を守ってくれるだろう」
「精霊への儀礼は、どうやればいいんですか?」
「神話の口上の後、その精霊の系譜を歌う。また教えよう。捧げものは酒でもいいが、鶏などを生贄とすれば、精霊も、とても喜ぶ」
喜んだ精霊は、たいてい、その気まぐれの回数を減らしてくれるのだという。
「その求めものが重要であればあるほど、その場所が危険であればあるほど、儀礼は丁寧に、念入りに行いなさい。時には、こちらの心を逆撫でしてくるようなのもいるが、決して、激情をもって相対してはいけないよ」
「なぜですか?」
見上げた弟子の質問に、彼は静かにこう答えた。
「激情すれば隙ができる。神霊相手に隙を見せるのは、それすなわち、命を失うということだ」
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