第6話 ミイル


 男が村を訪ねることはなかったが、だからといって、こちらを訪ねてくる人間までもが皆無なわけでは決してなかった。


 家から一番近い村からは、時折、生活の品や食料を持った人がやってくる。誰か頼む人がいて、それで届けてくれているようだった。旧知の間柄であるらしいその人たちが来ると、男は喜んで茶をふるまった。そういう機会は、どうやら満月と新月の翌日と決まっているようで、その日はどれほど良い気候でも、男は家を離れることなくその訪問を待っていた。


 そして、その他にももう一人。


「――こんにちは、タイ叔父さん! 今日はいる?」


 朝方に雨が降った初夏の昼過ぎ。元気よく訪ねてきたのは、一人の少女だった。

 ちょうどソバ畑の見回りに出ていたピモの男は、跳ねるような足取りでやってきた彼女を見ると、耕地まで転がり落ちた石を放り出していた手を休め、あいさつを返した。


「やあ、ミイル。この通り、今日は畑番だ」

「そうじゃなきゃ。あんまりふらふらしてちゃ、出た芽を山羊や羊に食べられちゃうもの」

「そこまでするやつは、いないと思うけどなあ」

「甘いわよ叔父さん。こんな柔らかくした土、おいしいものがあると思って掘り起こしちゃうんだから。あいつら」


 ぽんぽんと返ってくる言葉に、男は楽しそうに相好を崩す。


 ミイルは、ピモの男――アユ・タイの姪だ。アユ家の現在の家長である、タイの弟の三女にあたるらしい。年齢は、少年より二つ年上の十三歳。面倒見がよく勝気だが、はにかみ屋なところもあって、なかなか好感のもてる相手だった。

 村の少女らしく、華やかな彩りの刺繍で覆われた立襟の上衣と、鮮やかな色で広がる裳裾をまとい、上衣と同じように精緻な刺繍が施された黒い頭巾をかぶっている。やはり赤銅色をした肌はつやつやと輝き、丸みのある輪郭と目元はきれいに均衡がとれて、笑うと可愛らしい顔立ちだ。彼女がやってくると、彩りに欠ける男所帯がぱっと華やいだ。

 そのミイルが、くるりと笑顔を振り向かせる。


「こんにちは、フーマオ。今日もちゃんと、元気そうね」


 フーマオ――虎昴フーマオというのは、少年の名だ。

 タイ・ピモと二人でいる時にはお互い名前を呼ぶことがあまりないため、この点においても、彼女が来ると気分が違う。喉が引きつるような緊張を覚えつつ、深呼吸を挟み、虎昴は答えた。


「こ……こんにちは、ミイルさん」


 一言紡ぐにも慎重になる少年に、ミイルは明るく笑ってその肩を叩いた。


「まだまだ固いわね。でも、最初よりはずいぶんマシになった!」

「そ、そう、ですか?」


 実は今、虎昴が口にしているのは漢語ではなく、この大凌山の人々の言葉だった。

 ここで暮らすと決めた時から、タイ・ピモに教わり練習を続けている。聞くことにはだいぶ慣れたところだが、しゃべるとなるとまだ難しい。それでも、それなりに通じるようにはなり、おかげでこうして、漢語を知らないミイルとも話せるようになっているのだが。

「あ、でも」と少女が口をとがらせる。


「あたしのことはミイルでいいよって、前にも言ったでしょ?」

「まあ、それは……」

「言ったよね?」

「……うん。……こんにちは。ミイル」


 呼び方だけ変えてやると、満足そうにふんぞり返る。二つ年上のはずなのに、そんなところは、七つで死んだ真ん中の妹を思い出すようだった。

 そんな少年少女のやり取りを笑って見守り、タイ・ピモが尋ねる。


「それで、今日は何の用だい? ミイル」

「あっ、そうだ! 言われていたものが仕上がったから、持ってきたの」


 たすき掛けにしていた袋から取り出したものを、ミイルは叔父に手渡した。


 それは、彼女がしているのと似た頭巾だった。黒地に細やかな刺繍が施され、しかし彼女のものは赤など華やかな色味が主体なのに対し、その頭巾に使われている糸は、タイ・ピモと同じような青などの地味な色のものばかりだった。

 そしてその刺繍の上には、銀でできた薄い円盤が縫い付けられていた。親指と人差し指で作った丸と同じくらいの大きさで、細かな細工で破邪の模様が打ち出されている。多少、意匠に違いはあるもののほぼ同じそれが二枚、ちょうど耳の上になる辺りにつけられている。

 それは、桃花が肌身離さずつけていた、あの銀飾りだった。


「うん。相変わらずいい腕だね、アーイさんは」


 縫い目と刺繍を確認して、タイ・ピモは満足げに頷く。アーイというのは、ミイルの母にあたる人のことらしい。しかしその娘は、つんと顎を上に向けて言った。


「褒める相手が違うわ、叔父さん。それはお母さんじゃなくて、あたしの仕事よ」

「なんと」


 驚嘆したのは叔父だけではなく、少年もだ。それほど見事な刺繍だった。

 何を表しているのだろう、桃花の部屋に掛けられてあった虎の刺繍のような写実性はないが、直線や曲線、そして鮮やかな色の糸をいくつも使い分け、不思議な躍動感が描き出されている。渦を巻くような青糸の上に銀の円盤を配しているところなど、実に趣味がいい。

 しげしげとその手仕事を眺めたタイ・ピモは、嘆息交じりにそれを返した。


「これだけ上手な刺繍ができれば、結婚にはなんの心配もないな。引く手あまただろう」

「いやね、叔父さん。結婚のことなんて、まだわかんないわ。あたしには早すぎるもの。それより、ねえ、早くこれつけてみせてよ。フーマオ」


 すまし顔で叔父をあしらったミイルは、今度は、期待に輝く幼子のような顔で虎昴に迫る。思わぬ勢いに、少年は少々ならずたじろいだ。


「お、おれが、ですか?」

「もちろんそうよ。叔父さんにはもう自分のがあるんだもの、あなたのに決まってるでしょ。さ、やり方がわからないなら、あたしが被らせてあげるから」


 ほらほら、と半ば強引に頭巾を被せられる。まだ背が伸び始める前の虎昴は、実はミイルよりも小柄なため、上から来られると逃げ出すこともできなかった。

 やがて一歩下がったミイルは、少年の頭からつま先までを眺めて、大きく頷く。


「うん、とっても似合ってるわ。どこからどう見ても、立派な大凌の男の子よ」

「……ありがとう、ございます」


 虎昴と彼らとの違いは多い。顔立ちも肌色もその状態も違うのだから、彼女が言うようなことはないとわかってはいたけれど、それでも、そう言われることには胸がくすぐったくなるような嬉しさがあった。


(おれは、ここの民にならなくてはいけない。見た目からでも、少しずつでも……)


 切実に願うそれは、焦りにも似た思いだった。

 自分がどれほど非力な存在か、虎昴は重々承知していた。一人で生きていく力もなく、頼る大人も失った、たった十一歳の子供なのだ。あるいは町まで行けば、今日明日の食べ物を得ることくらいはできるのかもしれない。しかしそれでは、先のことまではわからない。


 だからこそ、こんな自分を受け入れてくれたこの場所を、手放すわけにはいかないと思う。


 村外に暮らすとはいえ、馴染むためならどんな努力も惜しむつもりはなかったし、それこそ簡単に改められる服装などは、積極的に合わせていきたい。その背中をこうして押してくれるミイルの存在は、過ぎた表現ではなく、虎昴にとってまさに〝光〟なのだった。

 そのミイルは、きょろきょろと辺りを見回した後、首を捻る。


「そういえば、今日はタオホアは? 近くにはいないみたいだけど」

「ああ、ええと、朝の雲を追いかけていきました。春の雨が、好きみたいで」

「あ、なるほどね。春の雨って、少しひやっとして、柔らかいものね」


「あたしも好きよ」と当たり前のように笑う。


 ミイルは、神霊を見る目をもつ少女だった。

 彼女とタイ・ピモの実家であるアユ家は、その系譜の中に、とても有名なピモの先祖をもつ家柄だと虎昴は聞いていた。その末裔となる子供たちの中でも、ミイルはとてもよい目をもっているらしい。女子でなければ、稀代のピモとなれただろうと。

 その彼女は、しかし、ふと眉を曇らせた。


「最近、この辺りで少し違う影を見るの。タオホアがいる時は、見えないんだけど」

「そうかい? 悪いものが増えた気配は、特にしないが」


 本職の叔父に言われ、ミイルは軽く肩を竦めた。


「悪いものではないのかもしれない。鳥を怖がってる、蜥蜴の化身か何かかも。春は風が強いから、どこかから飛んできたのかもね」


「気にしないで」と笑って終わらせ、用事をすませたミイルは帰っていった。


 夕暮れ前には彼らも家に戻った。戸口をくぐる師に続きながら、少年はずっと気になっていたことを、はおったチャルワも脱がないまま尋ねた。


「あの……タイ・ピモ。どうして、女性はピモになれないんですか?」

「女は、子を宿すだろう」


 囲炉裏の火を起こしながら、タイ・ピモは、さらりと答えた。


「子を宿すものは、神を宿す。その身に神を受け入れ、神と一体となってしまう」

「それって、いけないことなんですか?」


 少年自身、直に目にしたことはないが、神降ろしの巫がいることは知っている。春の祭りに神を降ろし、豊漁や豊作を予言するのだ。熱狂に身をゆだねるその様は、とても異様だと耳に聞くが、悪いものだとは思えなかった。

 しかし、彼が語るのは、そういう話ではないらしい。


「ピモは、〝神の声を聞くもの〟でなくてはならない。〝自ら神の言葉を語るもの〟は、それは〝神〟であり、ピモではない。女は神にはなりうるが、ピモにはならないのだ」


(……役割が違う、ってことだろうか?)


 神霊に関わることに違いはなくとも、その関わり方にもいろいろある、ということかもしれない。そんなことを考えたこともなかった虎昴の頭では、少々ならず持て余す議論だった。

 戸口に佇む少年に言うでもなく、男は、揺らぐ火を見つめて呟いた。


「あの子がピモになることはない。その分、我々がきちんと役目を果たすのだよ」





 そのことについては、ミイルもちゃんと承知していた。

 三日とたたず、今度は村の畑で採れたという菜の花と牛の乳を手土産にやってきた彼女は、薪割りをする虎昴の近くに座り込んだ。タイ・ピモは出かけて留守であり、そのせいもあってかいつもに増して遠慮なく、そのまま糸紡ぎなどし始めて居座る姿勢だ。

 つむをくるくると回しながら、彼女はあっけらかんと言う。


「そもそも、ピモになりたいだなんて思ったこともないわ。うちではもう、お兄ちゃんと弟が、お父さんの経典を写しているし」


 ピモの知識は父から子へと継いでいくもの――。そう言ったのはタイ・ピモだったが、その知識とは、口伝と経典から成るものらしい。経典に記されているのは、天地の始まりや生命の由来、彼らの歴史や英雄の話など。そして口伝で継ぐのは、その経典の歌い方や、さまざまな儀式の行い方だという。


 そしてこれも驚いたことなのだが、ピモとは、家の主人とほぼ同じ意味をもつものらしい。つまり、彼らの村にいる男性の戸主は、ほぼすべてがピモなのだ。


「それぞれの家で経典を継いで、父親が息子をピモにしていくのよ。〝紙が破れる前にまた写す〟って言うんだけど。その教えを継ぐ前に父親が死んだとか、継ぐべき息子ができなかったとかじゃない限り、そうして、その家の祭りごとは、その家のピモが行っていくの」

「それじゃあ……ピモがいなくなった家は、どうするんですか?」

「決まってるでしょ、他の家のピモが助けるの」


 それだけのことよ、と笑うミイルに、虎昴は愕然とする。呪術師が村内に一人もいなかったために対応が遅れ、村が滅びてしまった少年からすれば、とても考えられないことだった。


「でも、そうねえ……」


 少し考えていたミイルは、小首を傾げる。


「もしかしたら、スニくらいの知識は、あたしも持っていた方がいいのかしら」


 知らない言葉に、彼女を見やる。


「スニ、っていうのは?」

「ピモは〝神〟の声を聞くでしょ? スニは、神じゃなくて〝鬼〟の声を聞くの」

「〝鬼〟の?」


 虎昴が生まれた漢人たちの間では、〝鬼〟とは死者の霊魂全般のことを指していた。しかし、ここ大凌山の人々の間で言われる〝鬼〟は、その中でも悪霊についてのみを指すらしい。

 スニとはその悪霊を見、捕まえ、それによって呪ったり祓ったりということができる、ピモよりも下位の呪術師のことだという。


「でも、スニになるには、アサから成った守護霊がいなくちゃいけないから……ああ、アサっていうのは、人に憑いて病気を起こす悪霊のことね。その悪霊に、ピモがきちんと儀式をしたら、その憑いていた人の守護霊になるの」

「つまり……アサに憑かれて病気になって、それを儀式で守護霊にしてもらった人が、スニになれるってことですか?」

「そういうこと」


 アサがいないと、鬼と話すのも危ないでしょ、とミイルは言う。生まれつき神霊が見えたとして、それでなれるものでもないらしい。


「だから、フーマオって、実はスニに近いのよ。タオホアは悪霊じゃなかったし、叔父さんもそのための儀式をしたわけじゃないらしいから、本当のスニとは言えないけど」

「そう、ですか……」

「スニもね、ピモがする儀式をいくつかはできるのよ。鬼祓いとか。あたしもどうせこういう目を持って生まれたんだし、アサがいなくても何かできるよう、ちょっとくらい、叔父さんに教わった方がいいのかもね」


 何が楽しいのか、糸を紡ぎながらそう言って笑う。

 そんなミイルを少し眺め、いつの間にか止まってしまっていた薪割りを再開する。切り株の台に短い丸太を立てて置き、手斧を使って割っていく。軽く刃を刺し、丸太ごと手斧を振り上げて、そのまま台に打ち下ろす。半分にして、そのまた半分にしてを繰り返し、そうして不意に口を開いた。


「……タイ・ピモは、おれに、ピモを継いでくれると嬉しい、と言ったんです」


 くるくるくる、と回るつむを見たまま、ミイルが応える。


「聞いてるわ。大丈夫よ、あなたにはもう、タオホアっていう守護霊もいることだし」

「――でも」


 地面に散らばる薪を見たまま、虎昴も言う。


「でも本当は、親子で継いでいくものなんでしょう? そうやってずっと、継がれてきたものなんでしょう? それなのに……あの人の息子でもないおれが、それを継ぐなんて」


 聞けば聞くほど、知れば知るほど思うのだ。

 ピモとは、彼らの生活に深く馴染んだ存在だ。この世に生まれて死んでゆくまで、あるいは死したその後まで、この山上に暮らす彼らを導き、守っている人々だ。そしてまた、その大切な役目が決して途切れてしまわないよう、ずっと守られてもいる人々だ。

 だからこそ、考えてしまう。


「本当に、おれなんかがピモになって、いいんでしょうか……」


 ようやく、ミイルが顔を上げた。気配でそれを知りながら、虎昴は自分の手元から目を上げることができなかった。どんな色がそこにあっても、恐れてしまうような気がしていた。

 やがて、ミイルがそっと尋ねてくる。


「……フーマオは、本当はピモになりたくないの?」

「そ、そういうわけじゃない! そういうわけじゃ、なくて……」

「じゃあ、いいのよ」


 すぱっ、と即座の返答に、思わず相手を見返した。「え?」

 肩を竦めてつむをまとめ、ミイルは同じ言葉を繰り返す。


「いいのよ。だって、叔父さんがいいって言ったんでしょ? だったらいいのよ」

「でも……」

「というか、本当にピモになれるかどうかなんて、まだわかんないじゃない。どれだけ素質があったって、どれだけ強い守護があったって、経典を読めなきゃピモじゃないし。覚えることなんて、それこそ山のようにあるのよ。それが全部できるようにならなきゃ、誰だってピモにはなれないの。――それなのに、なっていいかどうかなんて、迷ってるような暇はないでしょ?」


 ミイルは真っ直ぐ、虎昴を見る。


「自分がなりたくて、なってくれると嬉しいなんて言ってくれる人がいて。それでいったい、フーマオは何を迷っているの?」

「…………」


 唇を噛んで、少し俯く。

 野から二羽の雲雀が飛び、戯れながら頭上を横切り、その鳴き声も聞こえなくなった。それと入れ替わるかのようにどこからともなく舞い戻ってきた鷹の神霊を、半ば無意識に片腕にとまらせ、さらにしばらく躊躇ってから、虎昴は尋ねた。


「おれ……ピモになれると、思いますか?」

「どうかしら。あんまりうじうじしてると、叔父さんの気が変わって、なーんにも教えてもらえなくなっちゃうかも」

「えっ」


 ここは励ましてくれるところじゃないのか、と思って見返すと、きらきらとした黒い瞳が、悪戯げな笑みを浮かべて自分を見ていた。それで、気がつく。

 ――ここは、励ましてもらうところではなかった。


「ミイルは……おれがピモになっても、いいと思ってくれますか?」

「もちろんよ」


 変わって即答したミイルは、太陽のような笑顔になる。


「フーマオがピモになるんなら、どんな悪霊や災いも、きっと全然怖くないわ」

「…………。ありがとう、ございます」


 つられるように、虎昴も笑う。

 それだけ聞ければ、他にはもう、どんな理由もいらない気がした。




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