第二章 天上の民

第5話 暮らし


 大凌山の上には、春でも雪が降り積もった。

 夜間には真冬でも経験したことがないほどに冷え込み、かと思えば、昼日中には小鳥が鳴き交わすような陽気になる。氷が解けたその下から、色とりどりの花畑が現れたりする。少年が暮らしてきた河岸の村とは、本当に、まったく異なる世界なのだった。


 そんな気候では、少年がもともと着ていた服など、何の役にも立たなかった。

 河岸の村は春にもなると日差しが強く、また作業の邪魔にならないよう短い丈の着物を着ることが多かった。さすがに天上の仙境を目指すのだからと多少の厚着はしてきていたが、所詮、木綿の野良着は野良着なのだ。身体の前で合わせて細帯で締める襟元など、高地の風がいともたやすく潜り込んできて、昼間であっても肌寒い。それに比べれば、この山上に暮らす人々の服装は、非常に快適であると断言できた。

 彼らの服はすべて、羊毛を紡いだ糸で作られていた。涼しい高地で育った羊の毛はより保温性が優れるそうで、それほどの厚さがあるわけではないのに十分温かい。また、首元は立てて合わせは右脇腹になる襟元も、風を防ぐのに最適だった。そこに施された細かな刺繍の分、さらに温かみが増すような気さえする。

 朝晩にはそこに、チャルワと呼ばれる羊毛製の外套を羽織った。下の衣服に比べればかなり分厚く、少し重い。しかしこのチャルワさえあれば、吐く息が凍る夜でも、なんとか外を出歩けた。逆に言えば、チャルワなく夜を出歩くのは、まさに自殺行為なのだった。


 そして、男が用意してくれたそういう服を着て、この別天地にもいくらか慣れた頃。


「天気がいいから、今日は畑仕事をしよう」


 朝からきれいに晴れた空を見て、男がそう言い出した。

 家の少し上の方の斜面に、あまり草が茂っていない場所があるのは知っていた。ぱっと見には、ただの荒れ地にしか見えない土地だ。言われるままに農具を担いでそこまで登るが、近くで見ても、やはり荒れ地だった。それでもそこが、男が所有する畑なのだという。


「いやあ、働き手が増えてくれて、本当によかった」


 痩せた土地を見渡して、男が嬉しそうに言う。


「今年はもう間に合わないかと思っていたから、助かったよ」

「……ここに、何を作るんですか?」


 畑作については完全に門外漢の少年は、何をどうしてやれば何ができるのかもわからない。そんな少年に、男は「これだよ」と小さな粒がいっぱいに入った笊を差し出した。

 それは何かの種だった。爪の先ほどの大きさで、瓜を縦に四等分したような、不思議な形をしている。色は、薄い茶色だ。当然だが、少年は見たこともないものだった。


「これって?」

「ソバだよ」

「そばって……あのソバ?」

「そう。いつも食べているまんじゅうの、あのソバだ」


 少年は、いつも食べているそのまんじゅうを思い浮かべた。

 褪せた黄色をした、子供の顔ほどもあるまんじゅうだ。少しだけ苦みがあるが、噛めば甘い。毎度の食卓に出てくるのでどうやら米や粟稗のような位置づけらしいとは思っていたが、あの黄色の素が、こんなに小さな茶色だとは。


「痩せた土地でもよく育つし、ここの厳しい寒さにも強い。今頃まけば、秋には畑が黄金色になるんだよ」


 その黄金となる種をまくために、まずはここを耕さなくてはならないらしい。農具を手にした男に指示され、少年はまず、荒れ地に転がる大きな石をどけていった。男は男で、石がない辺りを先に耕しながら、朗らかに笑う。


「今年はもっと畑を広げないとな。きみはこれから、もっと食べるようになるだろうし」

「…………」


 つまりこれは、新しく増えた口のため――少年のための開墾なのだった。すぐ耕せるような石のない場所が、例年、畑として使われている範囲なのだろう。

 そう思えば、慣れない作業にもつらいなどとは言っていられない。かなりの範囲から石をどけた後は、休憩を挟んで、鍬での耕作にも挑戦する。が。

 これがまた、なかなかの重労働なのだった。


「ほら、もっと腰を入れて耕すんだ。膝を曲げて、こう、体重を後ろに移しながら」

「やって、る、つもりなんですけど……!」


 言われた通りに鍬を振るうが、驚くほどに歯が立たない。土が固すぎるのだ。まるで巨人ががっちりと踏み固めたかのようで、ちょっとやそっとでは掘り返せない。男が言った〝痩せた土地〟という言葉が、身に染みてわかる。また、斜面であるというのもやりにくさのひとつだった。固いからと勢いをつけすぎると、背中から転がってしまうような気がするのだ。

 そういうようなことを話すと、男は「それをうまく使うのだよ」と言った。


「固い土に鍬の歯を立てれば、後ろにひっくり返ることもない。後ろにひっくり返る力を借りれば、固い土でも掘り返すことができる。人はその間で、上手にやりくりするだけだ」


 ほら、と男は足元の土を軽々と耕していく。言うのもやるのも彼にとっては簡単なのだろうが、少年としては、まずその〝鍬の歯を立てる〟ことが難関なのだった。

 なおも苦戦していると、手を止めた男は愉快そうに笑った。


「鍬を触ったこともなくて、これまでどうやって生きてきたんだ」

「おれだって、網を投げたり潜って魚を採ったりするのなら、誰にも負けませんよ」


 むっとして言い返すと、男は合点がいったように頷く。


「ああそうか。きみの村は、河の近くにあったんだったな。しかしそれで、畑はひとつもなかったのかい? 魚だけじゃ、腹は膨れないだろう」

「豆や野菜を作ってる人も、いるにはいましたけど……」


 村の背後にある斜面を耕し、畑にしている家もあった。この山頂ほどではないにしろ、地味が豊かではなかったので、生計を立てられるほどではなかったのだろうが。


「おれの家は、じいさんがすごく腕のいい漁師だったんで。みんなで魚を採って、町まで行って売って、代わりに米とか買って帰ってたんです」


 少年も、父と兄に連れられて、何度か行ったことがある。

 山を回って、他の河との合流点となる場所に、あの町はあった。河に面してはいるものの、少年の村のように漁業は営まず、大きな港に各地からの品物を集めて市を立てていた。それは多くの舟が集まり、いつ訪れても祭りの最中のような人出だった。そんな中で籠に詰めた魚を売り、食料や布など、いろいろなものに変えて帰っていたのだ。桃花の服や部屋につけられていた魔除けの銀飾りも、大半は、あの町で手に入れたものだった。――そこまで思い出して、胸に刺すような痛みが走って慌てて頭を切り替える。


 興味深そうに話を聞いていた男は、「いろんな生き方があるもんだなぁ」と感心した様子だった。しかしそれ以上に聞き出そうとはせず、少年の耕作指導に戻っていく。


 ずいぶん苦戦したが、作業は昼過ぎにひと段落した。

 天気もいいのでそのままそこで休憩をとり、その後、あのソバの種を全体にまいていく。これもまた、ムラができないようにまくのが難しかったが、使うのは自分の手なのだからなんとかなった。


「あとは、天水と朝晩の露で育つ。まあ、鳥や獣に荒らされないよう、見守りはするけどね」

「へえ……」


 これがどんな育ち方をしていくのか、少年にはまったくわからない。

 それだけ遠い世界で生きていくのだと、思い知らされるようだった。しかし、それでいて、ただ単純にその生育を楽しみに思える自分もいた。


(これからのおれは、きっと、そういうふうに生きていくんだろう)


 掘り返され、草原の中に茶色の地肌を晒した畑を眺め渡しながら、少年は思う。

 深緑の河がない場所で。空へと届きそうなこの場所で。

 そうして次第に慣れていけるのだろうと、考えるでもなく、思った。





 ソバの種まきが終わると、男は少年を連れ、山野に繰り出すようになった。

 近くの峰登りから始め、谷間の森や沢をめぐり、脚が慣れてきてからは何日もかけて遠くの峰まで行くこともあった。風が吹きすさぶ山頂には短い草しか生えておらず、その上に登れば、遠くどこまでも見通すことができる。そんな場所では、鳥になった妹の魂――タオホアを呼んで、鳥の目を空に遊ばせることもあった。


 そうしていてわかったが、大凌の山頂は、少年の想像をはるかに超えて広かった。

 雲を眼下に拝むような土地が、二十日かかっても歩き切れないほどの範囲で広がっている。そのうち風の当たらない谷や山陰に沢が流れ、木々が茂り、そして人々が暮らしていた。

 山頂の村は、少年が目にしただけでも八つあった。

 それぞれ三十世帯以上はある村ばかりだが、最初の村のような牆壁を持つところは、他にはなかった。せいぜい野生動物の侵入を防ぐための柵くらいで、その出入りを管理したり制限したりということも特にない――ないのだろうと、少年は思っている。その実際がどうであるかは、あまり、確かめようがなかったのだが。


 顔や手足に龍鱗を持つ少年はともかく、ピモである男も、人との交わりを避けている節があった。よほど何かに困り、どこかの村に立ち寄っても、その入り口からは一歩も中に入らない。迎える村人たちの方が、外からの客人を歓迎しようという態度でも、その歓待を受けたことはただの一度もないのだった。

 思い余った少年は、丘の上で聞いたことがある。


「あなたが村を避けるのは……おれを、助けたからですか?」


 龍の呪いを得た漢人の存在は、どこの村にも知れ渡っていた。

 得体の知れない病に敏感になるのは、当然のことだ。たった一人の病人に哀れをもよおして招き入れ、それが流行病だったために、村ひとつがまるごと滅びてしまうこともある。

 しかし男は、「それは違うよ」ときっぱり否定した。


「きみのそれを忌避しているものは、我々の中にはほとんどいない。それは呪いであって病ではないと、どのピモも認めているからね。呪いを返して生き残った子供を、そのうえ弾き出すような非道な真似をするものはいないよ」

「でも……じゃあ、どうして?」

「きみは、村で暮らしたいかい?」


 問いに問いで返してきた男に、少年は戸惑って相手を見返した。男はなおも言う。


「もしも壁の中で暮らしたいなら、どうにかしてやることもできる。これも縁だと思って私の知ることを教えてやろうとも言ったが、それに縛られることはないんだ。きみがそうしたいのなら、確かな人に、後見人を頼むこともできるんだよ」

「……、おれは……」


 俯いて言葉を探すその肩に、大きな羽ばたきとともに輝く猛禽が舞い降りた。くるる、と甘え鳴きして頭を擦り付ける。それを撫でてやってから、少年は顔を上げた。


「おれは、村で暮らしたいと思っているわけじゃ、ないんです。どれだけ何でもないって言われても、やっぱり、おれが中にいると不安に思う人もいるだろうし……それを気にして暮らすくらいなら、こうして、外に住む方が気が楽だし」


 すべて本音だった。牆壁の外の暮らしは、確かに野獣の脅威を感じることもあるが、それもタオホアがいる限り深刻ではない。彼女では追い払えないものが存在する壁内での暮らしの方が、少年にとっては、不安の大きいものだった。

 だから、自分はそれでいいけれど。


「おれのせいじゃないなら、どうしてあなたは、村を避けるんですか?」

「……それほど気にすることではないのに」


 重ねて問うと、相手は少し困ったように笑う。


「ずいぶん前だが、私が〝わけあって村の外で暮らしている〟と言ったことは覚えているかい? ……その〝わけ〟は、きみたちがここへ来るより、ずっと前にできたものだ。私はもうずっと、二十年以上は、こうして過ごしているんだよ」

「その〝わけ〟は、おれには教えてもらえないんですか?」


 なおも尋ねたが、男は、静かに首を振った。


「いつか、きみにも話す時が来るだろう。だが、それはいつかであって、今ではないんだ」


 それだけ言って、また歩き出す。

 そしてもう二度と、その話題に触れることはなかった。




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