第4話 魂の鳥
龍鱗熱の名残は、少年の額から顎までをびっしりと覆っていた。
元がどのような顔立ちだったか、もはや自分でも思い出せない。しかし、恐ろしげな痕とはいえ、少年にとっては見慣れてしまったものでもある。大甕に溜められた水を覗き込み、初めてその顔を見た時にも、別段、心が動かされることはなかった。
病状が落ち着いたとはいえ、少年には、そこを動くこともできなかった。
すっかり落ちてしまった体力を取り戻す時間が必要だったからでもあり、動いたところで、行くべき場所も、その必要もないからでもあった。
与えられた寝床で寝起きし、時には軽い作業を手伝って過ごす。そんな日々の傍らには、しかしずっと、死んだはずの妹の姿が楽しげに付き添っていた。
「あの……桃花はどうして……ここに、残っているんですか?」
ある晩、囲炉裏を囲んでの夕食を終えた後、少年はずっと考えていたことを口にした。
何に使う道具だろうか、火明かりのもとで、小刀で木片を削っていた男は、ふと顔を上げて少年を見る。
「〝どうして〟?」
「魂になったのなら、どこにでも行けるんでしょう? もう病気も何も関係ないんだから、ここにいる必要なんて、ないはずなのに……」
元気な姿を見られたのはよかったと思う。
言葉を交わせたのも、よかったと思う。
しかし、それでよかったのだ。死んでしまった幼い妹に、それ以上を望む気など欠片もない。少年自身はそうなのに、こうしてずっと魂がそばにいるのは、何か自然に反したことのような気がしていた。――きょとんとこちらを見上げる当の妹の眼前では、そこまで言うことはできなかったが。
男は合点したように頷いて、簡潔な言葉でそれに答えた。
「その子は、きみの守護霊になったのだよ」
「おれの……守護霊?」
「そうだ。きみのそばにいて、きみを悪しきものから守る霊魂のことだ」
絶句した少年に、男は不思議そうに首を傾ける。
「肉親の守護霊でも、漢人は恐れるものなのかい?」
「え、いや、そういうわけじゃなくて……」
嘘ではなく、少年は慌てて首を振る。
「怖くなんてないです。そういうんじゃなくて……ただ、おれは……」
隣を見やる。座った妹の無邪気な瞳に、やるせない気持ちが強くなる。
二人分の視線から逃れるように、少年は深く俯いた。
「だって桃花は……ずっと、自由に遊びまわることもできなくて……大きくなったら、きっといろんなところに連れてってやるんだって、おれ、ずっと思ってて……。それなのに、こんなことになって……それでも、おれのそばにいるなんて、そんなこと」
魂になってしまったのなら、せめて、自由になってほしかった。
これまでできなかったぶん、これからできるはずだったぶん、自分の意思でどこまででも行ってほしかった。
どこまででも、行けるはずだったのに。
(おれのせいで、ここに縛りつけてしまうなんて……)
口を閉ざした少年をしばし見つめ、ピモは、歌うように語りだした。
「我々、ピモの間では、死者の魂は、三つに分かれると伝えられている。一つ目の魂は天へと昇り、二つ目の魂は村を守り、そして三つ目の魂は〝あるべき場所〟へ帰るのだと」
思わず顔を上げ、少年は尋ねる。
「……あるべき、場所……?」
「我々にとっては、祖先が遠く後にしてきた、かつての故郷だ。きみや、きみの妹であるあの子にとっては、下流にあるというきみたちの故郷だろう」
「でも……あそこにはもう……何もないのに……」
少年が村を出たその時、生者はごくわずかだった。その人々もすでに病に侵されていたし、たとえ同じように逃げ出して、自分のような幸運を得たものがいたとしても、再び村に帰っているとは思えない。葬送もままならない死者たちで溢れ返ったあの村に、魂だけで舞い戻ったとして、いったい何ができるというのだろう。
しかしピモは、「だからだろう」と頷いた。
「帰る魂は、帰るためのものだ。何がなくても帰ってゆく。しかし、守る魂は、守るものがなければその役目を果たせない。……そこにいるきみの妹は、きっと、滅びた故郷の村よりも、守るべきものがここにあると、ちゃんとわかっているんだよ」
「……、そんな……」
透き通り、薄く輝いている妹を見る。彼女が生きていた時にはついぞ見ることがなかった、底抜けの明るさを灯した笑顔を見つめる。
「その子の魂は安らかだ。それに間違いはないだろう。きみに感謝し、きみを守りたいと願う気持ちを持つのも、当然のことだ。その当然を、生者が無理に曲げるべきではない。強い思いをもつものは、強い災いにもなりかねないからね」
「…………。でも……」
それでもやはり、と考えてしまうのだ。
いっそ見えなければ、ここまでこだわることはなかったのかもしれない。しかし、妹の魂は今、確かにここにいて、そばで少年を見守っている。それでいいのだと言い切ることが、少年には、どうしてもできなかった。
それを受けて、少し考える様子だった男は、やがて頷いた。
「確かに、そのままの姿でいるのは哀れかもしれない。魂は自由だが、幼子の意識があるままでは、それと同じだけしか動こうとしないから」
つまり、その姿の通り、四歳児と同じ行動しかしようとしないのだという。魂としてできることでも、四歳児であるという意識が、無理だと思い込んでしまうらしい。
「それをどうにかしたいなら、魂の形を変えてやればいい」
「……魂の、形を? ……変える?」
「そうだ。たとえば馬に変えるなら、人を乗せてどこまでも駆ける丈夫な脚を得るだろう。犬に変えるなら鋭い耳と鼻をもち、山羊ならどんな険しい断崖をも越えていける。そうして形を変えて村や人を守る霊は、それほど珍しくもないのだよ」
「馬や、犬に……桃花が?」
想像すらしたことがない話に、少年はぽかんとするより他にない。
それをよそに、男は細工途中の木片を軽く確認し、小刀と一緒に片付ける。作業で出た木っ端は集めて火口用の小箱に入れ、唖然としたままの少年にもう寝るよう促した。
「幼いこの子なら、〝人間〟としての意識もまだそれほど濃くはない。兄であるきみから言い聞かせれば、それほど難しくはないはずだ。明日、天気がよければやってみよう」
少年が毛布にくるまるのを待ち、男は囲炉裏の炭火に灰をかける。窓も締め切り、真っ暗になった部屋の中に、無邪気に火があった場所を覗き込む妹の姿だけが浮かび上がった。
それを見つめているうちに、気付けば、少年は眠りに落ちていた。
翌朝は夜明けが遅かった。山頂に吹きつけた雲が濃霧となり、朝の太陽を深く遮っていた。
それでも時がたつほどに霧は晴れ、ほどなくして快晴が訪れる。ソバ粉を練ったまんじゅうと羊の干し肉の汁を朝食にして、男に連れられ、少年は家の裏にある小高い丘を登った。
遮るもののない山頂では、絶えることなく風が吹く。気温も上がり始めてはいたが、借りた外套がなければまだ肌寒かっただろう。そんな場所でも草は生え、少しの窪みにも高山の花が咲き始めていた。ふもとよりどれほど寒くとも、春の訪れは確かにあるのだ。
「まずは、その子をどんな形にするか、自分が想像することだ」
男は少年にそう教えた。
「どんな形でもいい。だが、その子がわからないものには、なることはできない。その子の魂が、はっきり思い浮かべられるものがいいだろう。もしも馴染みのある動物がいるなら、それが一番いいのだが」
「馴染みのある、動物……」
「村で飼っていた家畜でも、よく目にする機会があった野の獣でもいい」
――その時、脳裏に浮かんだのは鷹だった。
あの日。天へと至る梯子で妹と見た、大きく力強い猛禽の姿。山河も人の営みも関係なく、風に乗ってどこまでも飛んでいけるあの翼。河で漁をしていた故郷でも、魚を狙う猛禽の姿はよく見かけた。外へ出られない妹の部屋の窓辺でも、その姿を見ることはできただろう。
何よりおそらく、生きている妹が最後に目にしたのだろう、あの鳥なら――
顔を上げる。その顔を見て、男は少年の心が決まったことを知る。
「想像ができたなら、妹へ語りかけなさい。お前はそれであると。彼女はその姿をもつものなのだと、きみこそが心から信じて語りなさい。そうすればきっと、きみの妹は、ちゃんと応えてくれるはずだ」
「……わかりました」
少年は頷き、ずっとそばについてきた妹を見下ろす。
病弱だった妹は、たとえ生き残っても、こんな場所には来られなかっただろう。雲を見下ろす草原も、手を伸ばせば届きそうな日月や星々も、目にすることはなかっただろう。今ここに魂としているだけでも、それは、奇跡なのかもしれないけれど。
(まだ、ここで終わらなくたって、いいんだ)
もっと自由に。もっと遠くまで。
羽ばたいていける、その姿へ――。
「……お前は、鷹だ」
無邪気に見上げてくる瞳を真っ直ぐに見据え、少年は語りだす。
「美しい鷹だ。どこまでも飛べる、強い翼をもつ鷹だ」
魂の輪郭が揺らぐのを見た。境界が薄らぎ、四歳の幼子の姿が溶けてゆく。その行く先に迷わないよう、少年は言葉を連ね、重ねて繰り返した。
「お前は鷹だ。美しい鷹だ。なにものにもとらわれず、望むままに飛んでいける。おれを止まり木として、どこまででも飛んでいける。お前は鷹だ。美しい鷹だ――」
魂の変身はやがて収まった。
その時、そこにうずくまっていたのは、翼をたたんだ美しい猛禽だった。
小さな頭に短いくちばし。相対するものを射貫くような瞳は黄金色に縁どられ、木肌色の翼や鋭い爪のその先まで、うつつのものが持ちえない、仄かな輝きを発している。
とても、美しい鳥だった。
少年はその眼前に片手を伸ばし、名前を呼ぶ。
「……タオホア」
鷹は黄金の瞳で少年を見返し、その目を細めて、くちばしと頭を手に擦りつけた。くるる、と喉を鳴らすような声を発した鷹は、頭を上げて翼を広げる。その大きさは大人が両腕を広げたほどで、思わず後ずさった少年の前で何度か羽ばたき、力強く飛び立った。
輝く鳥は、山頂の風を味方にして、地面の有無など関係なく空をゆく。峰を越えて円を描き、切り立った崖の上で高度を上げてまた滑り降りてくる。壁に囲まれた村を眺め、草原に生きる動物たちを見下ろして飛ぶ。
どこまでも自由に。どこまでも遠くへ――。
やがて戻ってきた鷹は、慌てて差し出した少年の腕にふわりと舞い降りた。霊とはいえ触れられないわけではなく、見た目よりは軽いが重量もある。器用に腕の上を跳んで肩に移った鳥は、馴染んだしぐさで少年の耳元に頭をこすりつけた。
そして、妹の声音で、鷹が言う。
『ありがとう。にぃに』
「……おれこそ、ありがとう。タオホア」
くるる、と甘えた声を出す鳥を、そっと片手で撫でてやる。
男は少し離れたところから、ずっと彼らを見守っていた。龍の鱗を得た少年と、猛禽の翼を得た幼子の兄妹を優しい眼差しで見つめ、そしておもむろに口を開いた。
「きみには、素質がある」
振り返った少年に、男は言った。
「神の声を聞く素質――ピモの素質だ」
「……ピモの……?」
「本来、ピモとは父から子へと受け継ぐものだ。それ以外では継がないものだ。しかし私には、息子がいない。これから先、できることもないだろう」
だから、と彼は言う。
「きみが、そうなってくれると、私も嬉しい」
「――――」
とっさに何も言えないでいる少年に、にっこりと微笑み、踵を返す。
そのままゆっくりと山を下っていく背を見つめていた少年は、やがて彼には聞こえないように、そっと猛禽の頭に囁いた。
「……もう、大丈夫だ」
大丈夫になれるはずだと、そう信じようという気持ちがあった。
高地に吹く風の中、高く鳥の声で鳴いた猛禽は、再び羽ばたいていく。けれど、その身に紐などつけなくとも、慌てて追い縋ったりしなくとも、その鷹はまたここへと戻ってくる。
そのことを、少年はもう、知っている。
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