第3話 妹


 滅びの夢が過ぎ去った後も、少年の意識は、沈下と浮上を繰り返した。


 沈む時には夢も見ず、浮かんだ時には、記憶の断片とうつつの薬湯に苦しめられた。閉ざされた穏やかな部屋の中で、太った蜥蜴の形をした死臭が明り取りの窓から入り込んでくる嫌な夢の後、覚めたと思った直後に流し込まれる青臭いような泥臭いような液体は、波間に巨大な鱗がちらつく濁流に溺れる夢を呼び込んだ。いくつもの冷たい手の平に身体を掴まれ、そしてまた、底知れぬ闇へと落ちていく……。


 やがて重い瞼を開いた時には、これもまた悪夢の続きかと思ってしまった。

 顔のすぐそばに火の気配がある。灰のにおいが近かった。しかしどうやら現実だと思い至り、何度か億劫な瞬きを重ねてから、身体を動かした。


「……、う……」


 前には微動だにしなかった身体だが、その時には、驚くほど軽くなっていた。毛布に巻かれているのは同じだが、苦もなく身を起こすことができる。座り直して、辺りを見回す。

 そこは、仙人の屋敷の一室とは、とうてい思えない場所だった。

 見上げた天井には煤けた梁が走り、がっしりした木組みの柱と土の壁、土間に直接置かれた椅子や寝台。毛織の布に巻かれて寝かされた自分のすぐそばには、使い込まれた囲炉裏が切られてある。細部に違いはあるものの、故郷の村の、少年の家と大差ない造りだった。


「…………」


 毛布から手を抜き出し、目の前に晒す。――指先まで〝鱗〟に覆われた手が、しかし間違いなくそこにあった。痛みはないが、こわばりはある。しかし動かせば、ちゃんと動く。

 つまり、と驚きをもって思う。


(……生きてるのか……おれ……)


 信じられない気持ちだった。悪夢の連続のせいだろうが、何度と知れず死んだ気分だった。

 呆然としていると、不意に玄関戸から男が現れた。おかしな訛りをもった、あの男だ。


「ああ、おはよう。もう、起き上がっても大丈夫かい?」


 どうやら今は昼間のようだった。開け放たれた戸口や窓から差し込む光に照らされ、浮かび上がった男の風貌は、少年の目には、やはり奇妙なものに映った。

 何より目にとまるのはその衣服だ。ほとんど黒に見える藍地に鮮やかな青糸で、立て襟や袖口、裾などにさまざまな刺繍がほどこしてある。その絵柄も、少年がよく知る本物そっくりな動物や花などではなく、なんだかよくわからない、しかし美しい模様ばかりだった。衣服の作り自体も珍しい。襟合わせが右脇にある不思議な上衣と、ゆるやかな筒袴。その下にしているのは、脚絆と革の靴のようだ。外套を着ていないぶん、今はそれがよく見える。

 そして黒髪の頭には、これも深い藍染めの布を巻いていた。


 歩み寄ってきた男は、無造作に少年のそばに座り込み、痛みの有無や気分についていくつか聞いた。どれも問題がないことを確かめてから、囲炉裏の灰に底を埋めてあった土瓶を引き抜き、木の器を差し出してくる。白湯かと思ったが、注がれたのは、どうやらまた薬湯のようだった。今はきちんと、湯気も見えるし、その温かさと青臭さもよくわかる。

 喉を滑り落ちる草のにおいは、あまり好ましくはないものの、気分をすっきりさせる役には立った。何度か喉を鳴らし、声を出すのもずいぶん楽になっていることを確かめる。

 そうしてようやく、尋ね返した。


「あの……ここは……?」

「ここは私の家だ。事情があって、私は、村の外に住んでいる」


 別の土瓶から、今度こそただの白湯を入れて自分で飲み、男はなめらかに答える。


「ここは、きみが上ってきた天梯てんていからずいぶん近い――つまり、この大凌山上において、最も外界に近い場所だ。だから、ふもとの村へと向かう仲間や、あるいは逆に、ふもとからやってきた漢人と話す機会がそれなりにある。こうしてきみと話せるのも、そのおかげだ」

「…………。おれは……」


 自分でもわからない何かを言いかけ、しかし思い直して、問い返した。


「その……どれくらいたつんですか? おれが、倒れてから……」

「夜と昼を数えて、七日たった」

「――七日!?」


 思わず耳を疑った。

 高熱と鱗文を出してから、それだけの日数を生きていた村人はいなかった。小さな子供なら三日ともたず、大の大人でも、五日目の朝を迎えることはできていなかったはずだ。信じられないまま、しかし聞かずにはいられなかった。


「な、なんで……どうしておれは、生きて…………助かって、いるんですか?」

「私は〝ピモ〟だ」


 少年が理解できないのを承知しているように、男はすぐに続けた。


「〝ピモ〟とは、神の声を聞くもののことだ。漢人の言葉では、呪術師や巫師というのが近いだろうと、聞いたことがある」

「呪術師……?」


 それが何の答えになるのか。困惑する少年に、男は当たり前のように語った。


「私は、ふもとの大河の神にあてて、うかがいを立てたのだ。死した龍の祭りを行う代わりに、この少年の病を治してはいただけまいかと。きみがかろうじて生の縁にとどまれたのは、そのうかがいが聞き入れられたからだ。合間に飲んでもらった薬湯は、特別なものでもなんでもない。ただの熱冷ましだ」

「……じゃあ……」


 思い当たったその因果に、首が締まるような息苦しさを覚える。


「それじゃあ、祭りをしてもらっていたら、みんな助かったんですか? 最初から、ちゃんと、あの龍を祭ってさえいれば……」

「それについては、どうとも言えない」


 意外にも、男の否定は早かった。


「きみの場合は、無関係だったというのが大きい……いや、厳密には無関係とも言えないが。ともかく、見る、知る、というのは関わることだ。龍の死を見たものはその死に関わり、それを知ったものもまた、その死に関わったということになる。もちろん、手を下したものが最も強い呪いを受けるのは当然としてだ。きみは知ったが、見たわけではなかった。その姿を目にしたものとしていないものとでは、同じ知るでも軽重が違う。呪いが至る速さも違う。それにきみには……きみの妹の、導きもあったからね」

「妹……桃花の?」


 そこで初めて、男は躊躇い、言葉を呑んだ。

 しかし結局、正面から少年の目をしっかりと見据え、慎重にその口を開いた。


「残念だが、きみの妹を助けることは、できなかった」

「え?」


 少年は、言われた意味がわからずきょとんとする。


「でも……」

「倒れる前のことを覚えているだろうか。我々は仙人などではなく、ここにはそのようなものは存在しない、と言ったことを」


 そんなことを聞いたような気が、しなくもない。その程度の記憶ではあったし、しかし実際目の前の相手が仙人ではないだろうということは理解していたので、少年はただ、頷いた。


「仙人でなくとも、ただ死に瀕しているものなら、あるいは救うこともできる。しかし、ただ神の声を聞くしかないピモには、死者を蘇らせることはできないのだよ」

「…………、死者を、蘇らせる?」


 ますます混乱する少年に、男は傍らから、ひとつの籠を差し出した。竹で編まれた四角い籠で、一抱えもないほど小さく、同じような竹編みの蓋がされている。網の目は大きいが内側に晒し布が敷かれていて、そのままでは中身を見ることはできなかった。

 手にしてみると、拍子抜けするほどに軽い。首を傾げると、男が言った。


「これが、きみの妹だ」


 意味がわからず、見返した。

 その視線を受け止めて、男は告げた。


「きみの妹は、あの時、すでに息をしていなかった。いつかはわからないが、もうずいぶん前のことだったろうと思う。私が触れた時には、もう……かたく、冷たくなっていた」

「……まさか」

「きみに断らず火葬してしまったことは、本当に申し訳なく思っている。しかし、二日を越えては、そのままにしてはおけなかった。最後に会わせてやれればよかったのだが――」

「いや、ちょっと、待ってください」


 悔いるように俯く男を、少年は慌てて遮った。


「これが桃花って、そんなわけないじゃないですか。だってこれ、籠でしょう? いくらおれが子供でも、こんな小さくて軽い籠が妹だなんて、そんなこと信じませんよ」


 それに――、と男の後ろに目を向ける。


「桃花は、そこにいるじゃないですか」


 男が、はっと息を呑む。驚愕を込めて見返してくる男の瞳に、しかしその理由がわからず、困惑が深まる。


 少年の妹、桃花は確かに、そこにいた。

 あぐらで座り込んだ男の背後に、半分隠れるようにして顔を覗かせている。兄である少年と目が合うと、悪戯げに笑ってちょっと引っ込み、反対側からまた顔を出して目を合わせ、また嬉しそうに笑って引っ込んでみせる。桃花がもっと小さい頃、父や祖父母の背中を使って遊んでいたのと、そっくり同じだ。そうでなくても、その笑顔を見間違えるはずがない。

 それなのに、男は驚きの表情のままで言い放つ。


「きみには……この子が、見えるのか」

「当たり前じゃないですか。おれ、村でも目はいい方なんですよ」


 むっとして言い返すと、男はもどかしげに首を振る。


「当たり前じゃないんだ。――見なさい」


 少年から引き取った四角い籠を、男はその目の前で開ける。生成り色の布の上に、ほとんど隙間なく詰められていたのは――灰茶けた骨の数々と、驚くほど小さな髑髏だった。その上には、見覚えのある銀の装飾品が、丁寧に置かれてある。

 それを二人の間に置き、男は言う。


「これは間違いなく、一昼夜焼いて残った、きみの妹の遺骨だ。着ていたものは遺体と一緒に焼かせてもらったが、この銀の護符だけは、〝兄に遺してほしい〟と……」

「…………、でも、そんな……」

「今きみが目にしている幼子は、本当に、きみが見知ったその子なのか? きみが最後に見た妹は、どんな様子だった? 病に侵された彼女の顔を、本当の顔を、思い出してみろ」


 言い募る相手に、愕然とする。


(忘れられるわけがない……)


 龍鱗熱の特徴である鱗文に、顎から額まで、びっしり覆われていた小さな顔。そればかりでなく、続く高熱にやつれ、やせ細り、うるんだ瞳と頬骨ばかりが目立っていた。

 それが、どうだ。

 今、そこにいる妹は、元気そのものの姿をしていた。幼さの象徴のような丸々とした頬は、その名の通り桃色に艶めいている。日焼けなどしたことがない肌はなめらかで、そこには鱗文どころか傷一つない。あんなにも苦しそうだった表情まで、今は晴れ晴れと、輝かんばかりになっている。


 少年は、己の手を見下ろした。幼い頃から父の仕事を手伝ってきた、まだ小さくとも頑丈なその手の甲には、龍の鱗が刻まれていた。熱が下がり、危機が去っても、消えることなく。


 顔を上げる。妹を見る。

 その笑顔の健やかさは、この世のものではないのだと、ようやく悟った。


「……じゃあ……それじゃあ、そこにいる、桃花は」


 未だ半信半疑で尋ねると、それ自体には躊躇うふうもなく、男は「魂だよ」と答えた。


「ここにいるのは、亡くなったきみの妹の、魂だ」

「桃花の、魂……?」

「その様子では、もともとその目を持っていたわけではないようだね。スニになったと思えばいいのか……しかし、その儀式を行ったわけでもないのに……」


 考え込む男をよそに、その背後の幼い妹を見る。目が合った妹は、心から嬉しそうに破顔して――そして、ほんのわずかな瞬きのうちに、その存在の密度を薄めた。輪郭が淡く透き通り、窓から差し込む光の中で、輝いているようにすら見える。

 思わず息を呑んだ少年に、妹は微笑んだ。


『だいじょうぶ』


 どこか遠くから聞こえるような、耳のすぐそばで囁くような。


『もう、だいじょうぶだからね。にぃに』


 これまで聞いたことがない、とても確かな口調でもって、魂となった妹が告げる。


 声など出なかった。息すら出せる気がしなかった。

 それでも涙は溢れ出して、深く俯き、乾き切った両手に顔を埋めた。ざらついた手肌を濡らして、少年が生きていることのその証は、次々に零れ落ちていく。


 家族も、故郷も失って。

 せめて守ろうとした、たった一人の妹すら失って。

 それでも少年は、まだ生きていた。


 生きることを望まれるのはこれほど痛いものなのだと、思い知りながら、生きていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る