第2話 龍鱗熱
――闇は、しかし、いつまでも闇のままではいなかった。
翻るように開き、折り畳まるように閉じ、光と影の狭間をさまざまな景色が過ぎ、いろいろな人々が、次々に現れては去っていった。その中には、河岸に広がる故郷の村があり、いつも漁に使っていた小舟と投網があり、笑い合う父母やきょうだいの姿もあった。
だからこそ、これは夢だと、すぐにわかった。
(なくなった……これはもう、全部、なくなったんだ……)
村は荒れ果て、小舟も網も打ち捨てられ、父母もきょうだいも、みんな死んだ。
残ったのは、たったの二人だけ。
「――にぃに」
そう呼んでくれる、一番下の妹と、自分だけ。
その妹も、そして自分自身も、村を滅ぼしたその病を得てしまっていた。遠からず死に至る病を、得てしまっていた。
けれど、と夢の中の妹に向かって、少年は言う。
(もう大丈夫だ。おれたちは、たどり着いたんだ。心配しなくても、今に仙人さまが、助けてくれるから――)
元気な頃の姿をした妹が、嬉しそうに笑う。それはとても、晴れやかな笑みだった。村にいた時、家族といた時でさえ見たことがないような、透き通るような晴れやかさだった。
(大丈夫だ……)
それを見て、心の底から安堵する。その安心感のまま、ぬるい泥に沈むように、深く深くへ落ちていく。そこはとても心地良く、外界のあらゆる苦難とは無縁の場所だ。あるいは、こここそが仙境と呼ばれる場所なのかもしれなかった。
ずっと、いつまでも、そこに沈んだままでいたくなるような――
「にぃに」
はっと、意識を取り戻した。
まどろみひとつない切り替わりで、少年は、唐突に現実へと舞い戻っていた。同時に、頭上にかかる大きな影に気付く。
「気がついたかい」
覗き込んでいた顔は、見覚えのないものだった。
赤銅色に焼けた肌。少し筋張った細面。切れ長の目に収まった、穏やかな光を湛える黒い瞳。
しかし、その声にはわずかながらに聞き覚えがあり、そして何より、そのおかしな訛りに聞き覚えがあった。――そう思うと同時に、さまざまなことが一気に蘇る。とっさに飛び起きようとしたが、石を目いっぱいに詰め込まれたように、全身が、くまなく重たかった。しかも、たったそれだけの身じろぎで、澄んでいた視界がぐにゃりと歪む。
「無理をしてはいけない。ひどい熱が出ているんだ」
「……、……っ」
何かを問おうとして、しかし声が出なかった。喉がつかえるほどひどくかすれ、代わりに、身体が裏返りそうな咳が出る。曲がった背中を、温かな手の平は、慣れた様子でゆっくりと叩いた。ようやく咳が落ち着くと、その手は少年を仰向けて、頭を少し持ち上げた。そしてその口元に、水を満たした器を差し出す。
「飲めるか?」
喉が渇ききっていた少年は、迷うことなく器の縁に口をつけた。その甘露かと思う芳しさに、やはりここは仙境なのだと、朦朧とした意識のまま考える。
瞬く間に水を飲み干した少年を再び横たえ、男が口を開く。
「ひどくつらいのはわかっている。だが、ひとつだけ教えてほしい。それさえわかれば、あとはまた、ゆっくり眠っていてくれればいいから」
少年はかろうじて頷いた。話ができる体調でない自覚はあったが、高熱をもった頭の痛みを刺激しない、低く落ち着いた声音が心地よかった。それに、そうして自分をいたわる一方で、わざわざ今聞かなくてはならないことなど、たったひとつしか思いつかなかった。
そして男は、予想通りの問いをする。
「きみたちに、いったい何があった? これが〝呪い〟とは、どういうことだ?」
「……、これは……」
声が掠れる。視界が歪む。目を開け続けているのがつらくなり、吐息とともに瞼を下ろす。ひと呼吸を行うだけが、これほど億劫に思えるなど、信じられない。
それでも少年は、男に答えた。
「これは……龍の……呪いです」
身を乗り出して聞く男に、苦しい息も絶え絶えに、なんとか説明を終えた後。少年はまた、眠りの淵へと落ちていった。
しかし、そうして記憶を、改めてさらったせいだろうか。
彼は深く濁ったその淵で、村の滅びを、再びたどることとなった。
――それは、十日ほど前にさかのぼる。
峻険な山々に挟まれた深い谷の底。平地などほぼ存在しない大河の岸に小さな家々が集まってできた漁村に、誰も現実には見たことがない生き物が打ち上げられた。
どんな獣にも似ない長い鼻面。巨大な口の奥まで生えそろった、鋭い牙。丸太のように長くうねる身体には、端から端までびっしりと鱗が重なり並び、しかし往時には玉虫に輝いただろうその色は、くすみ、血が滲んだような痕すらあった。
それは、瀕死の龍だった。
村の長老ですら、言い伝えの中にだけ聞く神獣だった。村中の大人が岸に集まり、近付かないよう言い渡された子供たちでさえ、人目を避けつつ見に行った。少年自身はわけあって駆け付けられなかったが、興奮して戻ってきた長兄が、すべてを子細に語ってくれた。
蛇とも獣ともつかない目玉は、近寄るものがあるたび、ぎょろりと動いた。それを向けられたものは、屈強な大人でも無邪気な子供でも、畏怖を感じずにはいられない。そんな目だったと兄は語った。
その前日、春先には珍しく、この一帯をひどい嵐が襲っていた。そのせいで打ち上げられたのだろうという意見が多かったが、事実どうなのかを確かめるすべは、誰にもなかった。
巫師を呼ぶべきだと、誰かが言ったらしい。
――龍は河の神だから、その声を聞くものが必要だと。
役人を呼ぶべきだと、他の誰かも言ったらしい。
――龍は皇帝の御印だから、その予兆を伝えることが必要だと。
しかしそのどちらより早く、事態は急変してしまった。
村長の息子が、その龍を、殺してしまったのだ。
普段から口も態度も大きな男だった。その場にいた人の話では、研ぎ澄まされた大刀片手に突然現れ、誰が止める間もなく、弱った龍の首を切り落としてしまったらしい。
あまりの所業に、村人たちは恐れ慄いた。しかし長の息子は、平然と言い放ったのだそうだ。
――河の神など迷信だ。
――帝の御印であればなおのこと。凶兆として、村に咎めがあるかもしれん。
だから、外に知られる前に〝処分〟してやったのだ――、と。
愚かなことをと誰もが責めたが、死んだものは、もはやどうすることもできなかった。
御印を殺めたことさえ知られなければいいのだと長の息子が言う通りに、亡骸の処理を彼とその仲間に任せ、一方で〝流れ着いた龍の死骸を葬った〟として巫師に祭りを行わせることにした。神として手厚く祭り上げ、それでどうにか、収めようと。
――しかし、それでは遅すぎたのだ。
最初に倒れたのは、当然のように、長の息子だった。
龍を殺めたその日のうちに高熱を出し、翌日には苦悶のうちに絶命した。その遺体は、身体中すべての水をなくしたかのように干乾び、肌という肌はことごとくひび割れ、見るも無残なありさまだったという。
次に、彼と一緒になって龍の亡骸を処理した男たちが倒れた。高熱を出し、全身が干乾び、肌に細かなひび割れを作って死ぬまで、すべて同じだった。すべて同じなのだと悟った彼らは、自らの行く末に恐怖した。泣き叫ぶような嗄れ声が、少年の家まで届いてきた。
そしてその死の間際、一人の男が暴露したのだ。
――あいつが龍を殺したのは、村のためでもなんでもない。
――あいつはただ、〝龍玉〟がほしいだけだったんだ。
それは、手にすればどんな願いも叶うという、夢のような宝玉のことだ。もちろん龍と同じように、長老たちすら、話の中でしか知らないものであったのに。
村長の息子は、それに欲目を出したのだ。
話の中では龍が手に持つとあるその〝宝〟は、しかし探しても見つからず、もしや腹の中かと身体を開きすらしたという。それでも見つからず腹いせに大刀で切り刻み、あらゆる罵倒の言葉とともに、河の中へと遺骸を蹴り落してしまったのだという。
悔いた男はほどなく死んだが、残された村人たちは、恐慌の淵に落とされた。
当然だった。弱った龍を殺しただけなら、まだしも〝苦しみから救った〟との抗弁も立つ。それが、欲望のためだけに首を撥ね、腹を開き、切り刻み、侮蔑の限りを尽くして葬ることもなく河に流してしまったなど――。
その時にはすでに村長も倒れていた。仲間たちの家族も次々と倒れ、周囲の家の住人たちが倒れる頃には、村長の家族はすべて高熱に苦しんでいた。一方で、河から離れた家々でも病む村人が続出した。それらはすべて、あの日、龍殺しをその目で見た人々に違いなかった。
もはや疑うものなどいない。
それは、まごうことない〝龍の呪い〟だった。
それを〝
少年の家でも、龍の死を見た父親が一番に倒れた。そして二日と置かず、龍の近くまで行ったらしい長兄と祖父が倒れ、その翌日には、遠目に見たという母と真ん中の妹、弟が倒れた。
そうして父と祖父が死に、長兄の意識もなく、母と弟妹たちが肌に浮かんだ鱗文に恐れ戦いていた頃。家で残っていたのは、龍を神として畏れ敬い、「目が潰れる」と近寄らなかった祖母、そしてあの日、桃花の部屋にいた少年と、桃花だけだった。
――桃花は
小さな桃花は、病弱な子供だった。生まれた時から身体が弱く、四歳になっても、ろくに家から出たことがないほどだった。
そんな末娘を守るため、両親も祖父母も、彼女には特別に気を配っていた。邪気を払うという桃の字を名前に使い、清浄な日が入る東側の小部屋や毎日着る衣服などに、できうる限りの守りを配した。それは壁掛けに施された五毒の刺繍であったり、悪鬼が嫌う音を出す金属製の飾りだったりした。
天師というのも、虎に乗って天から降り立ち、地上のありとあらゆる災いを滅するという、伝説上の人物のことだ。〝
そんな部屋にいた二人だけが、きょうだいの中で、病を免れていたのだった。
そうと祖母が気付いてから、少年と末妹は、守られた部屋を出ないようにと言い渡された。
村長の息子が生きていたら、迷信だと笑い飛ばしただろうか。
それでも、なんらかの守護は確かにあったらしい。家族や村人たちが次々と龍鱗熱に倒れる中、少年と末妹だけは、なんの兆しもないまま生きていられた。
壁の向こうから聞こえる恐怖と苦悶の呻き声も、それが次第に弱まるさまも、やがて死臭が漂うだけになっていくのも。すべて、壁の向こうに聞くだけで、生きていられた。
何があっても二人を隔離し続けた祖母だったが、唯一、声をかけてきたことがあった。
それは、母の危篤の時だった。疲れた声音でそれを告げられた少年は、躊躇うことなく部屋を出た。ずっと一緒に隠れ続けていた桃花も、迷うことなく後についてきた。
深く考えたわけではない。母が危ないというのなら、その前に会いたいと思っただけだった。祖母に部屋へ閉じ込められて、祖父やきょうだいを見送れないままだったことも、その衝動を後押ししていた。別れはつらくとも、せめて最期を見送りたい、と。
しかし、寝台で乾き切っていた母は、二人の顔を見た途端、涙もなく泣き出したのだ。
――来てはいけなかったのに、と。
その夕方、さきに逝った子供たちを追うように、母も死んだ。
それと時を同じくして祖母の身体に鱗文が現れ、そして、桃花が高い熱を出した。堪えていた糸が切れるように寝付いた祖母は、少年に向かって、村を出なさい、と言った。
――桃花を連れて、村を出なさい。
――天の梯子のその上の、仙人さまに会いなさい。きっと、助けてくれるから。
一緒に行こうと訴えた少年に、祖母は微笑んで首を振った。わたしはもう、ここで休むことにするからと。動けるうちに、早く行きなさいと。
桃花と二人で、きっと助かって、と。
一人なら、心細さに動けなかったかもしれない。
しかし少年には、まだ生きている妹がいた。自分が守るべき、妹がいた。
そして、幼い日から聞かされてきた言い伝えを信じ、天空の仙境を目指して歩き始めた。
自分の腕に現れた変化に気付いたのは、村を出て、二日目の朝のことだった。
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