龍鱗のピモ

かがち史

龍鱗のピモ

第一章 龍の呪い

第1話 天梯


 ――鳥の目が飛ぶ。


 天頂へと続く風の道を、滑るように昇ってゆく。

 数日前の嵐が残していった風は、地上に澱むものも吹きさらい、春の太陽へ向かって鋭く流れていく。猛禽の強い翼は、その流れを捉えて高く舞い上がっていく。

 すぐ目の前には山があった。申し訳のように松を生やした固い岩の塊は、上へ上へと、天を支える柱かと思う姿でそびえ立つ。その岩肌にへばりつくように、一本の、細い梯子が伸びていた。山の様相に比べれば、松葉ほどにも見える木の梯子だ。吹けば飛ぶようなその中途に、豆粒のような登攀者の姿があった。


 風が変わる。気付いた鳥は、翼を傾けてねぐらへと向かう。

 雨が、近付いていた。





「……にぃ、……とり」


 耳元からの微かな声に、その登攀者は動きを止めた。日に焼け少しやつれた顔は、思いつめたようにこわばっているが、まだ幼い。十歳くらいの少年だった。

 少年の背には、さらに幼い子供がいた。荒縄の背負子で背負われたその子供は、てんでばらばらな色味の服を何枚も重ねられ、なめし皮の外套でくるまれて、さらには蓑まで着せ掛けられていた。丸い蓑虫のようなその上に、笠をかぶった小さな頭がある。その頭を兄の背中に預け、まどろむような目を後ろの景色に向けている。

 同じように藁蓑と笠を着こんだ少年は、梯子にもたれて手足を休め、振り向いた。


「……ああ、本当だ。鷹がいる」


 半身で振り向いたその先には、いまだかつて見たことのない、雄大な景色が広がっていた。霞がかる松の山々。谷底をうねるように流れる大河。村はおろか人家のひとつもないその絶景の中、悠々と飛ぶ鳥がいた。美しい土色の翼を広げて滑る、巨大な猛禽だ。肉食である彼らの襲撃は恐ろしいが、今その鳥は、くるりと円を描いてどこかへ飛び去っていってしまった。やせ細った人間の子供など、食いでがないと思ったのかもしれない。

 少年はそれを見送りながら、足元を見ることだけは、決してしなかった。妹を背負い、半日かけて上ってきたここがどれほどの高さなのか、想像することさえ恐ろしかった。

 その恐ろしさをごまかすように、強いて明るく話しかける。


「いいな。……おれたちも、あんなふうに飛べたらいいのにな」


 ん、と小さくこぼした、それは同意か、ただの相槌か。背負った妹の吐息の熱さに、少年は口元を引き締める。

 そして希望を込めて、行く手を見上げた。


「行くぞ。……きっと、あともう少しだ」


 ――この梯子は、仙境へと続く梯子だった。

 天を衝く大山脈のその上には、仙人たちの住まう美しい仙境がある――少年たちの村には、そんな古くからの言い伝えが残っていた。幼い頃から、寝物語に母や祖母がよく語ってくれていた。村のすぐそばを流れる大河を眺めた時は、父や祖父も語ってくれた。


「この河をずっとさかのぼり、やがて平地がなくなった辺りのことだ。こことはほとんど行き来がないが、緩い斜面に家と田畑が並んだ、小さな村がある。その村をさらに越えて、険しい山道を登り続けると、やがて、誰が掛けたのかもわからない、長い梯子が現れる。その梯子はずっと高く、天の上まで続いている。その先はとてつもなく美しい仙境で、老いることも病むこともない仙人たちが、なんの苦労もすることなく、遊び暮らしているそうだ――」


 その言い伝え通り、少年は大河をさかのぼり、小さな村を過ぎ、険しい山道を歩いてきた。

 家から持ち出した食料と、小川や滝の水で食いつなぎ、この日が落ちて明日になれば、三日三晩が過ぎることになる。この梯子が目の前に見えた時には、夢かうつつか、自分でもわからなくなっていたところだった。

 それでも少年は、果敢にもその横木に手をかけた。

 これが最後の試練だと、自らに強く言い聞かせて。


(これさえ上りきってしまえば、もう、大丈夫だ。おれも妹も……きっと、助かる)


 ――だが、そう簡単にはいかなかった。


 上れど上れど、梯子に終わりはやってこない。風雨に耐え、年月に耐えて使い込まれた木の梯子は丈夫ではあったが、絶壁を駆ける風にはときおり揺れる。そのたびにしがみついてやり過ごしたが、いつ崩れるか知れない足場への恐怖心は、拭って消え去るものではなかった。

 さらに悪いことに、雨が降り始めた。春だというのに、凍り付くように冷たい雨だ。あるいはそのための蓑笠でもあったが、梯子を上り続ける以上、むき出しの手や顔は冷たい雨にさらされ続ける。横木を掴む手はかじかみ、次第に感覚もなくなっていく。

 手足が滑るたび、頭の芯まで冷え切るような思いを味わいながら、それでも少年は上り続けた。寒さに耐え、風に休み、背負った妹に声をかけながら上を目指していった。


「冷たいな。濡れてないか、桃花タオホア。ちゃんと引っ込んでろよ」

「……にぃ、……さむい」


「雨がやんだら、陽が出るはずだ。そしたら寒くなくなるから」

「…………にぃ……」


「もうちょっとだ。もうちょっとの辛抱だから、こらえてくれ」

「…………」

「桃花。ほら、雨がやんだぞ。桃花……」


 やがて梯子の道が絶えた時、辺りは夜に覆われていた。ずいぶん前に雨はやみ、頭上には、手が届きそうな高さに輝く星々があった。半分の月は南天にあり、さらなる高みまでそびえる峰々を、夜空に青く浮かび上がらせる。


 夜の仙境は、美しいと同時に、凍えるほど寒かった。雨に濡れてしまったせいもある。過酷な登攀により上がっていた体温が、ひと息吐くごとに失われていくのがわかる。背負子を一度下ろした少年は、眠ってしまったのだろうか、丸まったまま動かない妹を温めるように抱きかかえ、わずかの休憩の後、再び歩き出した。

 天上の景色は美しいが、足元に広がる地面は、想像よりも現実的だった。固い岩と薄い土の上に、短い草が生い茂っているのが靴越しの感覚でわかる。仙境というともっときらびやかな、水晶の大岩や金銀の砂でできているものだと、そう思っていたのだが。


 妹を抱えなおす。本当に寒い。お互いの体温で温め合えればと思ったが、濡れた蓑が冷たいだけだった。しかし、背負子に戻す気力も、もはやない。一刻も早く、どこか、安心して休める火のそばにたどり着かなくてはならなかった。

 微かな声に呼ばれたのは、そんな時だった。


「……にぃに」

「起きたのか、桃花。……寒いだろう」


 ん、と小さく呟いて、存外しっかりした口調で妹は続ける。


「にぃに。あっちにね、だれかのこえが、したよ」

「……あっち? あっちって、どっちだ?」


 尋ねながら、蓑虫になったそのままでは指もさせないことに思い至る。この春、四つになったばかりの妹は、まだ方角というものがわからない。

 しかし少年の心配をよそに、幼い妹は、戸惑うことなく「おつきさまの、はんたいのほう」と答えた。


「きのむこうにね、やねがあったよ。さっきね、ちょっとだけ、みえたの」

「……わかった」


 少年自身はなにも気付かなかったが、自分が朦朧としている自覚はある。ずっと背負われて眠っていた妹の方が、周囲の音や景色に敏感になっていても、おかしくはない話だった。


「行ってみよう」


 たとえそれが気のせいで終わるとしても、ほっとする気持ちだった。ひとつには、妹が少しでも元気を取り戻していることに対してであり、もうひとつには、判断を仰げる相手ができたからでもある。――気丈に歩き続けてはいるが、十歳の少年であることに変わりはない。幼子を連れた寄る辺のない道中に、心身ともに、疲れ果てていたのだった。

 そして、その判断は正しかった。


「――、――!」


 突然、頭上から降ってきた鋭い声に、息と足を止める。どれだけぼんやりとしていたのだろう、気付くと目の前十歩先に、高い壁が迫っていた。声は、そのさらに上から降ってくる。


「――! ――、――!」


 最初、少年は、まだ自分がぼんやりしているのかと思った。見上げた先――物見櫓らしいそこからの声が、いったい何を言っているのか、まったく理解できなかったのだ。

 しかし、どうやらそういうわけではないようだった。どれだけ耳を澄ましても、わかる言葉が出てこない。ただ、こちらに制止をかけているらしいことは、なんとなくわかった。無暗に近づくとどうなるかも、櫓にともった松明にきらめく矢尻の鋭さで、よくよくわかった。


 やがて、どこかにある門から男たちが出てきた。一人が松明を、もう一人が槍のようなものを持っている。その姿を見て、――少年は、ここが別天地であることを確信した。


 闇に溶けるような黒い服と帽子。そこに鮮やかに浮かび上がる、色とりどりの緻密な刺繍。羽織る形の外套は分厚く、動物の毛で作られたものらしい。炎に照らされて赤銅色につやめく顔立ちすら、どことなく、自分たちとは違うものに見えた。

 しかし少年は、そのことにむしろ安堵した。


(こんなおかしなひとたちが、ただのひとなわけがない……)


 きっと仙人の召使に違いない。霞を食べて生きるという仙人でも、身の回りのことをさせる人間の一人や二人、使っていても不思議ではないはずだ。

 だから、迷いはしなかった。


「……――お願い、します……!」


 少年は、崩れ落ちるようにその場に跪いた。


「お願いします、なんでもします……! なんでもするから、ここの仙人さまに会わせてください……! おれと妹を……どうか……!」


 伸ばした手で、目の前の足を掴む。驚き、振りほどこうとする相手にも負けず、必死でしがみつき、声を振り絞って懇願する。もう一人に首根っこを取られ引きはがされたが、それでも諦めずに手を伸ばし、妹を抱きかかえたまま、這いずるように追いすがった。


 絶対に、この機会を逃してはならなかった。


 仙人ともなれば、誰にでも会うものではないのかもしれない。それでも会って、慈悲を垂れてもらわなくてはならなかった。多少、手荒に拒絶されても諦める気はなかった。たとえこのまま引き下がったとしても、どうせ二人とも、死んでしまうのだから――。

 その時だった。


「おい――落ち着きなさい。落ち着いて。話はちゃんと聞いてやるから」


 聞こえてきた言葉に、はっとする。――理解できる。他の男たちの意味不明な言葉とは違う。いくらかおかしな訛りはあるが、間違いなく、それは耳に馴染んだ言語だった。

 もしやこの人こそ仙人かと見上げるが、そこにいたのは、ごく普通の男だった。他の人々と同じく分厚い羊毛の外套を着こんだ、声からすると、三十代から四十代くらいの優しげな人物のようだ。松明の明かりに、銀の耳飾りが揺れて光った。


「きみは、下の村の子かい? いったい、何があったんだ?」


 仙人ではないにしろ、言葉が通じる相手に会えてほっとする。そのまま脱力してしまいそうになった少年は、慌てて「おれは……」と言葉を継いだ。


「おれは、龍潭りゅうたん村から来ました。下の……ふもとの村より、ずっと河下にある村です」


 そんなところから、と相手はひどく驚いたようだった。


「いったい、何があったんだい? どうして、こんなところまで」

「――お願いします!」


 詳しいことを話す余裕はなかった。なんとかとどまったとはいえ、今にも倒れ伏してしまいそうな状況は変わらない。全身、血の気が引いたように寒く、それでいて顔は熱くてめまいがする。合わない歯の根を必死で動かし、かすれた声で言い募る。


「お願いします、どうか仙人さまに会わせてください。おれと妹は、病気なんです。妹はもう、ずっと熱が下がらないんです。普通の薬じゃだめなんです、この病は……この呪いは、仙人さまの、仙薬でないと……!」


 妹、という言葉に、相手は初めて、少年が抱えるものに気付いたようだった。黙ったままだが、伸ばされた両手の誠実さを信じて、少年は、大事なその身体を相手に預けた。

 男が、小さな頭から笠を外す。衣服や蓑でくるまれた手足を出すより、そちらの方が、脈を診るにしろ病状を見るにしろ都合がいい。そうして妹を見た男は――しかし、その直後、息を呑んで身を反らした。怪訝そうに覗き込んだ周りの男たちも、呻き声をあげて後ずさる。


「こ、れは……!」


 ――松明の明かりに照らし出されているそれを、少年はよく、知っていた。

 かつては、丸くなめらかだった妹の顔。しかし今、その肌はひどく乾き、ひび割れ、細かな皮膚の重なりで覆われてしまっている。額から顎まで、そして身体中、手足のつま先まで。


 それはまるで、龍族がもつ鱗のように。


 それと同じものが、自分の腕や脚にも現れている。そのことも、少年は知っている。知ってはいるが、妹の方がはるかに重症だ。手足に現れたその症状は、高熱と節々の痛みを伴って全身をめぐり、侵し、やがては身内に至って心の臓を止めてしまう。

 それより先に、治療を施してやらなくてはならない。村にあったどんな薬草も、それで作ったどんな薬湯も、この病にはきかなかった。だからここまでやってきたのだ。この仙境に住む仙人なら、老いることも病むこともない仙人なら、きっと特別な術や仙薬を使って、たちどころに治してくれるに違いないとそう信じて――。


 それなのに、男はやがて、信じられない言葉を吐き出した。


「残念だが……我々では、きみの妹を助けることはできない」


 驚愕で声も出なかった。振り仰ごうとした頭の中身が、外側の動きについていけずくらくらする。割れ鐘を叩くような音が耳の中で響き、相手の声は、そのさらに向こうからしか聞こえない。どうして、と問い返したいのに、唇は凍り付いたように冷たく、動かない。

 それでも答えは、返ってくる。


「我々は漢人がいうような仙人ではないし、そうでなくとも、仙人というものはここにはいない。この大凌山だいりょうざんにいるのは、人と獣と神々と精霊――それだけだ」


 耳鳴りがひどい。胃の腑が裏返るような吐き気がする。目は開いたままのはずなのに、すぐ前にいるはずの男の姿が映らない。聞き慣れているはずの言語が、異界の言葉のように、ただの音列となって鼓膜を叩く。


「それに、この子はもう――」


 その言葉を最後まで聞けないまま、少年の意識は、闇に落ちた。




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