四字熟語短編集

煌花(こうか)

第1話 歓天喜地

 歓天喜地かんてんきちとは、この上なく大喜びすることだ。

 その例を実際に見てみよう。

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 朝、雄二が教室に入るとなんだかいつもと違う妙な違和感を覚えた。

 雄二は高校の数学教師で、今日は自分が担任として受け持っているクラスの一時限目の授業を担当しているのだが、教室に入った瞬間に気づいてしまうほど明確な違いがそこにはあった。


「……なんでこんなに人が少ないんだ?」


 雄二は思わず疑問を口に出したがそれは無理もない。本来教室にいるはずの33人の生徒のうち、今雄二の目の前に着席しているのはその半数もいない。

 どうやら生徒たちも困惑している様子で、ひそひそと囁き声が聞こえてきた。

 その中の1人が雄二に問いかける。


「先生、何か連絡は入っていないんですか」

「いや……1つも来ていないよ。鞄は——なさそうだし、登校もしていないか……心配だな」


 今までにない不可解な状況に困惑していた雄二だが、とりあえず授業を開始しようと教卓に出席簿を置き黒板に振り向く————と、その時。

 ふと目をやった窓の向こう側、2階のベランダ越しに広がるグラウンドに見知った影を見つけた。

 グラウンドの端に並ぶ灌木かんぼくを分けて、土煙にスカートを汚しながら何かを探している様子の女子生徒。彼女は雄二のクラスの生徒である前島だった。


「おい、前島! そんなところで何をしているんだ」


 窓からベランダに出て、雄二は声を張り上げた。

 前島は自分が呼ばれていることに気が付くと、ゆっくりと教室に歩み寄ってきた。


 そして見上げる形でこう言った。


「先生……机が、私の机が外にないの」

「え?」


 意味の分からないことを言う前島に、雄二は呆けた顔を向けてしまう。

 しかし、前島の真剣な表情を見て雄二はとりあえず彼女に教室に入るよう促した。


「全く何を言ってるんだ、前島の席ならここにあるだろう」

 前島が教室に着くと同時に、雄二は教室の中央辺りの席を指さした。


「あれ、本当だ。なんでだろう」


 眼前の前島は、まるで自分の机が教室にあることが不自然なことのように懐疑かいぎしていた。

 雄二は前島を着席させると、今度こそ授業を進めるべく黒板にチョークで数式をすらすらと書いていく。だが、教室のざわめきは収まらず、むしろ前島が来てからいっそう騒がしくなっていた。


「おい、静かにし……」


 振り向いて注意しようとした瞬間、教室のドアが、ガラガラッと大きな音をたてて勢いよく開いた。


「平石先生! 大変です……先生のクラスの生徒がッ!」


 教室に慌てた様子で入ってきたのは隣のクラスの担任の若い女教師だった。

 緊迫した様子の彼女は教室に飛び込んできたかと思うと、小走り気味に走り寄って雄二に1枚のA4用紙を渡してきた。

 雄二はそれを受け取ると紙に乱雑に書かれた文字を目で追った。そして顔がみるみるうちに青ざめていき、わなわなと震え始めた。


「衝突事故……バスに乗り合わせていた高校生全員死亡……」

「平石先生ッ!」


 傍に立つ女教師に名を呼ばれ、はっと我に返ったがとっくに手遅れだった。

 教室中がパニックになり、生徒たちの絶叫で溢れかえる。


 その時、雄二は確かに見た。

 狼狽し恐怖と混沌で満ちた生徒たち、その中で一人奇妙に振る舞う少女を。


 前島は今まで見たこともない笑顔で天を仰ぎ、喜びを露わにしていた…………。

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四字熟語短編集 煌花(こうか) @boltzmann_138

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