SS5 ステイツへの一時帰国(3日目:検査)

『まえがき』

長いです。

重要回です。


『あらすじ』

精霊を撃退

ステイツへ一時帰国

会長が同行

 ***


 ステイツ一時帰国の3日目の朝。

 ニューヨークのホテルの一室。

 寝坊癖のある会長様だが、この国に来てからは案外寝起きが良い。


「さて後輩君、今日はどこに連れて行ってくれるのかしら?」


 今回の旅で、行き当たりばったりの行動が多い俺達だが、大まかなスケジュールに関しては俺が決めており、会長様は任せっきり。


「申し訳ございませんが、今日1日は用事があります」

「ちょっと、聞いてないわ!」


 聞かれていないからな。

 俺は会長に今回のステイツ旅の目的について、まだ何も伝えていなかった。


 テトラドの本部で、仮面を付けた人型の精霊と戦った際に、俺の肉体に刻まれた“魔法狩り”が暴走した。

 強敵だったはずの精霊をいとも簡単に消滅させ、絶対強者すら無力化した。

 精霊殺しの短剣で自傷することによって、暴走自体は収まったものの、未だに悩みの種になっている。


 能力を発動していなくても、右腕には黒色の魔法式がタトゥーの様に残ってしまった。

 再び“魔法狩り”が暴走する危険もあるし、能力そのものが変質している可能性だって考えられる。

 取り急ぎ専門家による意見が欲しい。


 今回の帰国の第1目的は、医師であり、研究者でもあるクレアさんによる診断を受けること。

 ついでに俺の懐にある精霊殺しの短剣の解析もお願いしたい。


 クレアさんが働く研究所はステイツの秘密施設なので、会長を連れて行くことはできない。

 だけど魔法式の診察を受けることついて秘密にする必要はない。

 そもそも会長だって、俺が魔法狩りを暴走させた現場にいた当事者。


「俺の担当医にこいつを鑑定してもらいます」


 右腕を上げて軽く袖をまくる。

 ここには会長と俺しかいないので、魔法式を隠していない。


 彼女は茶化さずに、真面目な表情を返す。

 納得してくれたのだろうか。


「じゃあじゃあ、私はホテルで大人しくしていればいいの?」


 会長が留守番かどうかは、まだ決まっていない。


「検査の前に、ステイツでの俺の身元保証人に会います。その人が会長の観光案内を申し出てくれております。どうしますか?」


 上司のフレイさんからは、会長を一緒に連れて来るように言われている。

 しかし会長が本気で拒めば、こちらから無理強いはできない。

 むしろ俺個人としては、この提案を断って欲しい。


「どのような人なの? 後輩君との関係は?」

「亡くなった母親の知り合いで、4年前から俺の保護者です。親というか姉みたいなもので、会長にとっての九重院の千春さんに近い存在です。公社のライセンス持ちではありませんが、こちらの魔法結社の所属です」


 事前に用意していた設定をつらつらと語った。

 母親の知り合いというところ以外は、大体こんなところだろう。


 違法行為もいとわない裏組織の所属であることを伏せると、フレイさんと俺の関係性を説明するのはとても難しくなる。

 フレイさんは俺と違って魔力があるし、現在は裏方業務がメインでも本来は武人。

 先に魔法使いだと申告しておいた方が、余計な疑いを避けられる。


 魔法公社の台頭以前には、それぞれ個別の結社が超常絡みの依頼の窓口だった。

 ニホンでは富士の高宮家や、陰陽師の草薙家などが有名。

 公社は効率的に傘下さんかを増やすために、魔法結社の代表者がライセンスを取得することで、その監督下でなら結社の人間達は、公社の仕事を受注できる仕組みを提供した。

 つまりライセンスを持たずに、公社が把握していない魔法使いだからといって、俺の様な裏社会の人間とは限らない。


 時雨叔父さんにも、俺がステイツにある魔法結社に属していると伝えてある。

 後ろめたいことがあるとすれば、その結社が魔法公社とは無関係にアウトローな仕事をしていることくらい。


 とりあえずフレイさんのことを簡単に説明したものの、余計な混乱を招かないためにも、2人を引き合わせたくない。

 できれば会長にはこのままホテルで留守番をして欲しい。

 しかし彼女の行動は、なかなか俺の思い通りにはならない。


「望むところよ。後輩君のげんお姉さんとして、ビシッと決めてあげるわ!」


 会長がお姉さんらしい振る舞いをしたことなどあまり記憶にない。

 しかもフレイさんも、プライベートでは基本的に大人げないのでお姉さんとは呼べない。

 目の前で張り切る会長を見ていると不安でしかない。


 ***


 ホリdayホテルのロビー隣にあるカフェ。

 待ち合わせ相手は、先に到着していた。


 スタイリッシュなグレーのパンツスーツを着こなし、仕事ができるキャリアウーマン風の女性。

 カール状に丁寧に巻かれた金色の髪。

 白い肌はシミひとつ見えない。


 外見だけなら、この街のどこにでもいそうな30代前半のオフィスレディ。

 その正体はステイツ政府直轄の秘密組織の部隊長。

 そして九重紫苑の護衛のために俺の派遣を決めた上司。


 当初は俺がフレイさんのデスクがある本部へと出向く予定だった。

 しかし予定外の客人が付いて来てしまったので、上司の方から足を運んでくれることになった。


 マナーとして、約束の時間より前に着きたかったのだが、昨日に引き続き会長様が準備に大分時間を掛けた。

 さすがに俺1人で先に出迎える訳にもいかず、待たせることになってしまった。


 俺達の到着に気がついたフレイさんは軽く目配せをして、手にしていたカップをテーブルに置き、その場で立ち上がる。

 こちらの方を向く彼女の口角が少しだけ上がっている。


 悪い笑みだ。

 俺をからかうときに見慣れた顔。


「まさか芙蓉君がニホンに行って、たった3カ月で恋人を連れて来るなんて」


 久しぶりに顔を合わせての、第一声がそれか。

 どうして世の人間は、男女がいれば色恋に繋げたがるのだろうか。


「後輩君と恋人だなんて。えへへへ」


 こっちはこっちで、どうして否定をしないのだろうか。

 会長の言葉を上辺だけで受け取ってしまうと、満更でもないと勘違いしたくなる。

 しかしこれまでの付き合いで、今はおふざけモードだということを分かっているつもり。


「お久しぶりですフレイさん。こちらは東高でお世話になっている紫苑九重女史です」


 今、俺らが使っているのはニホン語。

 普段フレイさんと会話する際はエイ語なのだが、この場には会長もいるのでそちらに合わせている。


 フレイさんは初めて会うターゲットへと手を差し出す。


「フレイよ。うちの芙蓉が大変お世話になっているようね」


 会長の方も差し出された手を素直に握る。


「いえいえ。後輩君はとても優秀よ。だけど女性の扱いが少しなってないようね。ミセスフレイ」


 ピリッとした寒気が走る。

 2人は互いに、必要以上の力で強く手を握り合っている。


 未婚女性にMrs.ミセスはとても失礼。

 こういう時は無難に、未婚者にも既婚者にも使えるMs.ミズを選ぶべき。

 会長の天然だと思いたいが、初対面のフレイさん相手に喧嘩腰のようにも見える。


 特にフレイさんはここ数年、学生時代の同期が結婚する度にとても嘆いている。

 30代に突入した彼女だが、実際のところ年齢をあまり気にする必要はないと思う。

 フレイさんは美人でスタイルもよく、高収入なので、花嫁としての条件はそれほど悪くない。


 問題があるとすれば年齢ではなく仕事の面。

 結婚後に裏の仕事を続けるにしろ、引退するにしろ、機密保持の都合上、身持ちが堅い相手でなければ政府側が納得しない。

 組織の同僚達の間では度々、フレイさんの婿むこ候補になり得る人物がいないか連絡が回っている。

 ステイツ上層部でも、彼女の結婚が議題になるほど周りを悩ませている。


 さて、十数秒の固い握手を交えたフレイさんはすぐに平静取り戻し、綺麗な仕草で手を離す。


「紫苑ちゃんは若いのだから、もっとおしゃれしなきゃね。流行はやりの洋服店やジュエリーショップを案内してあげるわ」

「私のセンスを疑っているの。やってやろうじゃない。私だってやろうと思えば、カッコよく着飾れるのよ!」


 どうして会って数秒で、張り合えるのだろうか。


 俺個人としては、会長のシンプルな服装を好ましく思っている。

 しかしフレイさんの言うことも確かで、最近の流行りとは逆行しているし、磨けばさらに輝くかもしれない。


 だけどうちの上司にそれができるかと言えば不安で堪らない。

 彼女は仕事こそできるものの、私生活は結構ガサツ。

 今日もそうだが、スーツ以外の私服を見たことがない。

 さらに料理はまともにできず、酒さえ飲めれば良いという駄目人間。


 一応この場では顔合わせだけで、これから別行動の予定。

 だけどこの2人をそのままにしても良いのだろうか。


 未だにピリピリとした触れてはならない空気を感じる。

 これまでに彼女らに接点はなく、今日が初対面のはず。

 俺がいなくなれば収まるのか、それともヒートアップするのか。


 単純な力比べならば、間違いなく絶対強者の会長様が上。

 しかしフレイさんだって、一癖二癖あるエージェント達を束ねる才覚を持つ。

 舌戦ぜっせんならば、うちの上司に分があると思うが、他人の言うことを聞かない会長様に通用するのだろうか。


 もし会長様が話術で上手く丸め込まれたなら、その分のストレスはのちに俺が受け止めることになるのだろう。

 一方で、俺のいないところで会長に暴走して欲しくないという思いもある。


「芙蓉君。別にあなたのいないところで、恋人をイジメたりしないから。安心して行ってきなさい」


 大丈夫だろうか。

 俺は会長の方へと目を向ける。

 たとえ今からでも、彼女が拒絶してくれれば、ホテルで留守番という選択肢もある。


「後輩君。女には引くことのできない戦いがあるのよ」


 何の戦いなのだろうか。


 ***


 会長らと別れた俺は、フレイさんが用意した車に乗って、この国の研究所のひとつに訪れていた。

 軍の医療施設の中に秘密裏に設置された魔法研究機関。

 担当医のクレアさんの職場。


 国家としての魔法戦力の保有は、国際法によって禁じられている。

 魔法公社の関連組織でなくても、私立大学などが魔法の研究をするのは問題ない。

 しかし軍の施設での魔法研究はご法度はっと

 それが学術や医療を目的としていても、いつ軍事転用されるのか分からない。

 そして少なくとも常任理事国の5カ国は、裏で魔法による軍備増強を行っていることは暗黙の了解。


 セキュリティが強固なこの建物は白を基調としており、研究区画の廊下はどこも似たような光景が続く。

 いつもならばフレイさんが先導してくれるが、今回は俺一人。

 しかし代わりの案内人がいた。


 最初のセキュリティをくぐった先で、研究室にこもりがちなクレアさんが職員を引き連れて出迎えてくれた。

 彼女はフレイさんと高校だったか、大学だったかの同期。

 日光を浴びる機会の少ない肌は、白人の中でも色白な方。

 運動不足のように見えるが、食事の方で調整しているようで、ボディラインはこの国の標準よりも細い。

 そして茶色の長い髪は1本に結っており、白衣の上に堂々と鎮座している。

 俺のことをマックスではなく、芙蓉と呼ぶこの国では数少ない人物。


 彼女らの出迎えによるVIP対応の理由は簡単。


「芙蓉。遠路はるばるご苦労様。精霊殺しの剣はここで預かるわ」


 彼女の後ろに並ぶ研究員の1人が、過度に仰々しい台車を俺の前まで転がす。

 指示従って懐から短剣を取り出し、ゆっくりとした動作で台の上に置く。


 すでに会長や俺が何度も触れているが、本来ならば未知の魔道具の扱いは慎重に行うべき。

 それが精霊王に傷をつける神器ならばなおのこと。


「許されているのは半日だけなので、鑑定士達には持ち時間をしっかり守らせなさい」


 上級研究員のクレアさんが指示を飛ばす。

 彼女以外の職員達は短剣と共に奥へと消えていく。

 この日のために、各分野で政府御用達ごようたしの専門家を集めたと聞かされている。


 本来ならば、俺の滞在中に検査の延長も可能だったのだが、会長が付いて来てしまったので、半日で全ての行程を消化する必要になった。

 彼女のことをあまりないがしろにできない。


 一部の政府高官やエージェント達が九重紫苑の存在を恐がって、俺が彼女の傍を離れることに反対している。

 詳しい事情は聞かされていないが、俺が護衛任務を受ける前、ステイツは各国に先んじて九重紫苑から精霊殺しを強奪するために、複数チームを送って返り討ちにあっている。

 どうやらそのせいで、絶対強者の恐ろしさが独り歩きしているようだ。


 短剣を預けたままにするという選択肢もあるが、いつ能力が暴走するのか分からない俺を安全装置無しで、ステイツ国内を闊歩かっぽすることを、フレイさんもミスターも容認しなかった。


 今のステイツ上層部としては、精霊殺しの扱いをランクダウンさせ、九重紫苑への対応の方へと重きを置くようにシフトしている。

 それでも短剣を解析するのは、未知の魔道具を調べるのは当然のこととして、量産の糸口を探る目的もあるのだろう。


 生徒会ハウスの隠し部屋にあった精霊殺しの火器は、せいぜい拳銃レベルだったが、精霊殺しの戦闘機や核弾頭の量産に成功すれば、公社優位の世界をひっくり返すことができる。

 さらにその先には精霊界への侵略も念頭にあるのかもしれないが、流石に深読みしすぎだろう。

 ミスター本人はそこまで野心家ではない。


「さて、こちらも時間が限られているし、さっさとじっけ、診察を始めるよ」


 今、実験と言おうとしたな。


 挨拶もそこそこに、背中を向けて歩き出すクレアさんの後を追いかける。

 精霊殺しについては、ステイツの上層部や、ニホンへの派遣組だけでなく、この研究所の職員の一部も知るところだが、関係者をできる限り制限してある。

 一方で俺の能力を知る者はさらに少ない。

 クレアさんの対応が素っ気ないのは、他人の目があるこの場で余計な情報を口にしないため。


 廊下側から、それぞれの部屋の扉には名前や番号が記載されておらず、ドアノブ横にカードリーダーがあるだけ。

 部外者の俺にはフロアマップが開示されていないし、偶にしか訪れることがないので、案内がなければ目的地にたどり着くことができないだろう。

 そんな俺でも違和感に気づいた。


「クレアさん。いつもの研究室じゃないのですか?」

「あぁ、機材を壊されては堪らないからな」


 暴走を危惧してとのことだろうか。

 それとも何かしら危険なことをするつもりなのだろうか。

 クレアさんならば十分にあり得る。


 何だか急に怖くなってきた。

 今からでも担当医を変えられないだろうか。


 ここにいる連中は一見話しが通じる理性的な相手のようでも、その根底は知識欲と探求心にりつかれたマッドなサイエンティスト。

 そうでなければ、こんな日の目を見ることのない裏の研究施設などでは働くはずがない。


 未だにクレアさんが一線を越えないのは、充実した研究環境を失いたくないからに過ぎない。

 彼女は以前より、ローズかあさんが残した魔法式や俺自身の体質を徹底的に調べたがっている。

 もし俺がこの国の貴重なエージェントでなければ、強力な麻酔で眠らされた後に、拘束され、度重なる人体実験の末、解剖されていたかもしれない。


 他の国ならば、軍の研究施設には秘密を守れる愛国心に溢れる人材を起用する。

 しかしステイツは国としての歴史が浅く、また多民族国家なこともあって国民全体としての同胞意識があまり強くない。

 だからここに集められた研究員達は2つの政党のどちらが第1党になったとしても、仕事振りを変えないどころか、政権が変わったことに気づかないような連中。

 国家のために貢献する思想はなくても、自由な発想で成果を重ねている。

 政府側も彼らのことを理解して、研究環境の提供と報酬を渋らない。


 先を行くクレアさんが足を止め、前方のドアのロックを解除する。


 結局逃げるタイミングを逸してしまった。

 どの道、精霊殺しの短剣を置いては行けない。


 部屋の中の間取りは、いつものクレアさん専用の実験室と似ているが、余計な物がほとんどない。

 何もない実験台と、パソコンが置かれているだけの簡素なデスク。

 床や壁、そして実験台のあちこちに焦げた跡や、コンクリートを塗り直した修繕の痕跡がいくつもある。


 そして最も目を引いたのは、部屋の端。

 1メートル四方程度の立方体に厚手の黒い布が被せられているものが、4つ並べて床に置いてある。

 耳を傾けると、中から獣の呻き声のようなものが聞こえてくる。

 実験動物がいてもおかしくないが、俺の勘は魔獣だと判定している。


「診察だけでなく、芙蓉には実際に能力を使ってもらう」


 当然のこと。

 未知の魔法に対して、発動していない平常時の観察だけで、今後暴走しないと保証できるわけがない。


 実際これまでにもクレアさんの前で能力を使ったことがあるので、それに関してはあまり抵抗がない。

 いつもなら同僚の魔法を分解したり、体育館で強化した運動能力を見せたりなど。

 しかし魔獣相手に能力を使う場面は見せたことがない。


「まずは今の魔法式の状態の記録から始める。とりあえず脱ぎな」


 クレアさんの言葉に従ってジャケットを脱ぎ、右腕の包帯を解く。

 そこには黒色の模様が鎮座ちんざしている。


 上半身の素肌を晒し、下半身は下着だけの状態。


 女性とはいえ、クレアさんは医師。

 11くらいの頃から定期的に検査を受けているので、今更恥じらっても仕方がない。

 それでも見られても無難な下着を選んだつもり。


 胸元に電極、左腕に圧力計が繋がれていく。

 心拍数や呼吸、血圧、脳波、魔力などの基本的なバイタルの測定を行うためのもの。

 今のところ計器には、安定した波形が流れている。


 彼女はデジタルカメラを取り出して、何枚も撮影していく。

 魔法式が浮かび上がっている右腕だけでなく、全身を画像として取り込まれている。


 見た目の保存も目的のひとつだが、CCDやCMOSといったイメージセンサーは、人の肉眼では捉えることができない可視光の外側の波も検出できる。


 一通りの撮影を終えると、次にクレアさんは魔石を取り出し、俺の背中側から近づける

 彼女自身も魔力を持っているが、検査の際はいつも魔石を使っている。

 人的介入による余計なファクターを減らすための措置。


 静止画の撮影だけでなく、カメラに繋がれたPCのモニターには、俺の後ろ姿が映っている。

 魔石のエネルギーを吸い取ることで、全身の魔法式が浮かび上がる。

 黒い影のような模様が皮膚の上を走り回っているが、俺自身に実感はない。

 そして魔法式は取り込んだ魔力を勝手に身体強化へと割り振ってしまうので、エネルギーを蓄えることはできない。


 ここまではいつも通りの慣れた工程。

 クレアさんは過去に蓄積したデータをパソコン上で開いて、今の状態と見比べていく。


 魔法式には言語や文法が存在する。

 世界のどこかに意味が記述されたライブラリが存在し、そこから叡智えいちを引き下ろしているというのが有力な説の1つ。

 検証の済んでいる共通言語コモンスペルに関しては、整理されたデータベースがいくつか公開されている。

 しかし文献として報告されている魔法式の中には、未解読の記述の方が多い。

 それでも画像のパターンをコンピューターに学習させることで、新たな未知の魔法式でもある程度意味を推定することができる。


 それでもローズかあさんの残した魔法式には、他に類を見ない記述が多くある。

 彼女独自の操作関数や変数には全く手をつけられない。

 クレアさん曰く、使われているライブラリそのものが違わないと説明できないそうだ。


 今できることと言えば、過去に撮影しておいた魔法式と比べて変化している部分だけに絞って、良性か悪性かを診断することくらい。

 単純に思えるかもしれないが、変化を調べるだけでも専門家の彼女でなければ、膨大な時間を要する。

 俺の魔法式は、魔力に反応しなければ隠れており、いざ能力を発動すると常に動き回るので鑑定が困難。


 暴走以降、魔法式が浮き上がっていること以外で、自覚症状はなにもない。

 クレアさんならば、俺では分からない何かしらの情報を引き出せるのだろうか。


「魔力を吸収したときの反応はいつも通りだし、今のところ暴走の兆候もないな。右腕の方も魔石を近づける程度では変化なしか」


 俺も同意見なのだが、クレアさんの言葉があると、安心感が増す。

 彼女は、魔力の定量データと魔法式の画像解析で統計学を元に診断を下している。


「ニホンでの活動報告は、フレイから受け取って読んだけど、芙蓉自身はどのように考えているの。主観が混ざっても構わないので、教えてくれるか」


 助かる申し出。

 自分のことを客観視するなどと、平然と口にする者もいるが、実際はかなり困難。


「まず現状、右腕の魔法式が浮かび上がっている以外では、以前との違いに自覚症状はありません」


 しかし再び暴走することを怖れて、能力の使用を控えていたので、間違いないとは言い切れない。

 そしてより気になるのは暴走の原因。


 俺は言葉を続ける。


「魔法狩りが暴走したのは、九重紫苑を庇って精霊からの攻撃を右腕で受け止めようとしたときでした。でも精霊との接触だけが原因ではないはずです。苦戦、もしくは生命の危機も関係あるかもしれません」


 俺が初めて精霊に触れたのは、会長と同じく九重院出身の佐参さざんと対峙したとき。

 上半分が馬で、下は魚類のケルピー型の召喚獣を精霊とは知らずに分解しようとした。

 さらに沙耶ちゃんが呼び出した仮面を付けた人型の精霊に対しても、攻撃のために何度も触れた。

 そうなると精霊との接触は、きっかけであっても、原因とは考えられない。


 生命の危機ならばどうだろうか。

 前回と同じような絶体絶命のピンチならば、これまでにも何度かあった。

 偶然で生き延びたことも、咄嗟とっさの機転で乗り越えたことも、そして味方に救われたこともある。

 いくつが俺自身の力では不可避な死に直結していたのかは分からない。

 これは検証のしようがない仮定の話でしかないか。


 暴走のきっかけには、もうひとつ心当たりがある。


「もしかしたらですが、九重紫苑がそばにいたことも関係あるかもしれません。頭の中で鳴り響く声は、彼女の魔力を欲していました」


 魔法狩りの発動には精神汚染を伴う。

 それが現実世界に影響を及ぼすことはこれまでになかった。

 今回の強制発動では、精霊の魔力を吸い尽くした後、俺の意思に反して会長を襲った。

 しかも今までと違い、対象に触れることなく、魔力を剥がしとったのだ。

 あの逼迫ひっぱくした状況下で、絶対強者と称された彼女は何も抵抗できなかった。


「医者としては、安全を期して彼女の護衛任務から外れるべきだと思う。研究者の立場としても、希少なあなたが遠い島国で塵になってしまったら、標本にできないのでやはり反対だな。しかしフレイやその上は首を縦に振らないのだろう」


 クレアさんらしい物言いだが、俺の身を案じてくれているのだと受け取っておこう。


 以前までなら、俺の代わりになるエージェントはいくらでもいた。

 しかし本国強硬派が送り込んだアックス達の狙撃を阻止してからは、状況が大きく変わってしまった。

 九重紫苑を狙う世界中の組織が、俺のことをステイツ側の駒だと認識した。


 今後、第2、第3の狙撃を諦めさせるために必要な措置だった。

 一方で暗殺に対する抑止力として組み込まれてしまった俺が、長期的に彼女の傍を離れると、各国が付け入れる隙になってしまう。


 もしステイツから新たなエージェントを送り込んだとしても、第5公社とサブライセンス契約を結び、会長の懐に飛び込める保証はどこにもない。

 クレアさんの言う通り、現状俺の不確かなリスク程度では任務から外されることはない。


「さて、観察はここまで。次はじっ、検証の時間だ」


 言い換えたところで、大して変わらない。


 クレアさんは部屋の端に置いてあった4つの箱をおおっていた布を剥ぎ取る。

 姿を現したのは鉄のおり

 囚われているのは、4匹の茶色のうさぎ


 突然現れた俺達に対して、唸り声を上げて威嚇いかくしてくる。

 全てが魔力持ち。

 それもチキュウ産ではなく、魔界の住人。


 魔獣は霊峰のような魔力に満ちた特別な土地にのみ出現する。

 基本的にその土地に留まり、外の世界に順応できる個体は珍しい。

 奴らには俺達と同じ栄養学は適用されず、魔力さえあれば大半の生命活動を維持できる。

 その特性のため、本能的に出現した地を好む。

 他には、種族によっては雌雄の両方が確認されているが、繁殖能力がないとされている。


 さらに俺は奴らに対してとても相性が悪い。

 魔獣達のほとんどが、当たり前のように身体強化を使っている。

 奴らの肉体は魔力との親和性が高く、人間に比べて効率良く運動能力を増強する。


 俺の魔法式は、触れた魔法を瞬時に分解できるが、身体強化や召喚獣、ゴーレム等は肉体への魔力の定着が強固で、最低でも5秒は接触していなければならない。

 戦闘において、数秒は命取りになる。

 この手の相手に対して、俺1人の状況ならば戦闘は控える。

 もし避けられないならば、リボルバーで牽制しながら、数度に分けて魔力を奪う戦略を選ぶ。


 目の前にいる囚われた魔獣は小物。

 いくら魔力を持っていても、鉄格子を壊す力はない。


「魔獣に触れて強化魔法を分解してみてくれるか。まずは左腕」


 俺はクレアさんの指示に従う。

 もし暴走を起こした場合は、同じ施設内で解析中の精霊殺しの短剣を持ってきてもらうことになっている。


 常時発動している魔法の分解能力だが、積極的に使おうと思うと効率が上昇する。

 測定結果に影響しないように、できる限り感情を落ち着かせる。


 兎の魔獣からこちらへの警戒が虚になるタイミングを見計らって、格子の隙間に腕を突っ込み、その首根っこを掴み上げる。

 危険があるとすれば、噛みつかれた時くらいだろうか。


 10秒ほどで兎の魔獣から力が抜け、ぐったりとした仕草を見せた。


 特に問題はなく、いつも通りのこと。


「次は右腕だ」


 予想はできていた検証実験。

 魔法式が消えなくなってから、何度か能力を使っているが、右腕で触れることは躊躇ためらっていた。


 先ほどと同じように今度は右腕を2匹目へと伸ばす。


 結果はすぐに出た。

 兎の首に触れた瞬間に、暴れようとした獣の身体から力が抜けたのだ。


 動揺した俺は、すぐに手を放して距離を取る。

 右腕に目を向けるが、その模様に変化は見られないし、暴走の兆候も感じとれない。


「右腕の分解効率が格段に上がっているな。魔力の吸収速度に関しては誤差範囲なのか数回試してみる必要がある」


 先にクレアさんが所見を語ったが、振り返ってみると俺も同じ感想。


 まだ魔獣は残っているし、先の2匹だって魔力を吸い尽くしていないので、少し待てば回復する。

 半日もあればいろいろと検証可能。


 こうして能力の確認作業を続けることになった。


 ***


 市内にある人気のカフェ。

 フルーツサンドを堪能した後の、ゆったりとしたティータイム。

 ショッピングで歩き回り、少し疲れたので、後半戦に向けての休息中。

 買い物に熱中してしまい、昼食のコアタイムを逃してしまったが、ちょうど混雑を避けることができた。


 よく冷えた紅茶を味わう私に対して、目の前に座る少女はケーキとサンデーを交互に口へと運んでいる。

 ニホンの女子高生は全てがこのような生き物なのか、それとも彼女が特殊なのか。

 芙蓉君の話を聞く限りだと、後者なのだろう。


 今の紫苑ちゃんは食べることに夢中で、周囲への警戒を怠っている。

 報告にもあったが、日常の彼女からは強者の気配が全くない。

 目覚めた力がまだ体に馴染んでいない。

 それに戦いの経験も乏しいようだ。


 それにしても、若さとは尊いものだな。

 女子高生の行動力を甘く見ていた。


『この服は後輩君の好みかしら』

『あぁ、こっちのゾンビのぬいぐるみも可愛いわ』

『不思議なお店があるよ。足ツボ占いだって』

『ひねったらコーラが出る蛇口はないの?』

『マジックミラーだってぇ。生徒会へのお土産にしようかな』

『マーライオンはどこかしら?』


 市内の観光案内は芙蓉君がしているようだし、彼の負担を減らすためにも買い物へと連れ出すことを安易に企画してしまった。


 最初は一介の学生では入れないようなお店に案内して、驚かそうとしていた。

 あわよくば、優位に立てるかなと少しくらいは期待をしていた。


 しかし彼女は全く物怖じしなかった。

 ふざけているようでも、意外と締めるところはしっかり締めている。

 どこで仕込まれたのか、所作の中に気品が見え隠れしている。


 そんな第5公社の姫君は珍しいものに対して興味があっても、高価なブランド品には大して執着しなかった。

 彼女の好みは多種多様で、買う量は半端ではなかった。


『遠慮しないで』と口にしたことを少し悔やんでいる。

 次から次へと店を移動して、この土地に何年も住んでいる私ですら入ったことのない店を何軒も開拓した。

 金銭的には問題ないが、あちこち移動して商品を見続けるのは大分疲れた。

 内勤が増えるにつれて、前線にいた頃に比べて身体が鈍っていることは当たり前なのだが、年齢を重ねたせいなのかもしれないと、不意に思ってしまうとどうしても疑念を拭えない。


 紫苑ちゃんとの散策は案外楽しかった。

 ころころと変わる感情豊かな顔を見せてくれるので、一緒にいて飽きる気がない。


 ちなみに買った商品は、1度彼女の宿泊先のホテルに届けてもらい、まとめてニホンに発送するように手配をしてある。

 買い物で予算を超えることはなさそうだが、もし今回の滞在の緊急対策費を使い切ることになれば、まずは芙蓉君、次に私の報酬が削られることになる。


 それにしても、まさか世界を騒がせている九重紫苑が単身で、ステイツに乗り込んで来るとは思わなかった。

 彼女の後ろにいるガウェインがよくもまぁ、許したものだ。


 紫苑ちゃんが秘密主義の第5公社の副長だということは裏を取れており、ミスターにも報告書を提出してある。

 ステイツ上層部の中には、所詮は子供に過ぎないと軽視する声もいくらかあるが、ミスターは九重紫苑の存在を重く受け止めている。

 彼が要請した今回の接待兼警戒体制は、公社のナンバー2の肩書だけだとあり得ない充実ぶり。

 私の方からは、ミスターに対して紫苑ちゃんの正体までは伝えていないが、別のすじから情報を得ているのかもしれない。


 どちらにしても、もう計画は私の手を離れてしまっている。

 今できることは芙蓉君のバックアップと、余計な連中の横槍を防ぐことくらい。

 まぁ、九重紫苑の力をどの組織が手に入れようと、いずれ失われる、いえ、失われなければならないもの。


 そろそろテーブルの上のケーキとサンデーが無くなりそうだ。

 私の方も飲み物が残り僅か。


「追加の注文をしようか?」


 昼食後の一服のつもりだったが、紫苑ちゃんはデザートを2つもペロリと平らげてしまった。

 この年齢だと、まだおしゃれよりも、食い気なのだろうか。

 時間に余裕はあるし、まだ食べられるのならば付き合うつもり。


 だけど私の提案に対して、九重紫苑は表情を引き締めた。


「いつ本題に入るつもりなの? 後輩君の検査は予定されていたことだし、今日はホテルの部屋で留守番でも仕方がなかった。私を外に連れ出した目的があるのでしょ」


 不自然過ぎる急な話題展開。

 切り出す場所もタイミングもそれほど悪くない。

 私の指揮下ならば不合格だけど、学生としてなら十分に及第点かな。


「そうだな。でも飲み物くらいはあってもいいだろ。おかわりはさっきと同じものでいいか?」

「分かった……いえ、私もあなたと同じお茶をいただくわ」


 協調性というよりも、ただ好奇心が旺盛おうせいなだけなのだろう。

 店員を呼んでアールグレイのストレートアイスティーを2人分頼む。


 おかわりが来るまでは、静かな時間が流れる。


 このカフェでは席同士の距離が十分にあるので、周りの客の会話はほとんど聞き取れない。

 さらにスピーカーから流れるピアノやバイオリンによるゆったりとしたBGMが、小さな雑音をかき消してくれる。


 内緒話をするとき、私は個室よりもこういう場を好む。

 プライベート空間だと警戒が緩んでしまうことを危惧しているが、それだけではない。

 私の敵には政治権力の中枢にいる連中も含まれるので、密談向きの個室だと情報が筒抜けになってしまう可能性がある。


 冷えた飲み物が再び運ばれ、ウエイトレスが離れたところで、改めてゴングが鳴る。

 せっかくの仕切り直しなので、こちらからジャブを繰り出す。


「まさか芙蓉君が彼女を連れてくるなんてね」

「その茶番、いつまで続けるつもりなの? ガウェインのお爺ちゃんから聞いているわ。あなた……軍神の後継者なのでしょ」


 少女がすごまってみせるけど、その程度で崩れるようなもろい仮面ではない。


「あら、私は結構楽しんでいるわよ。それに本心から芙蓉君の親代わりとして、彼の連れて来たガールフレンドの相手をしているつもり」


 芙蓉君は今回限りの設定だと思っているようだけど、彼の母の咲夜さんとは何度か顔を合わせたことがある。

 先ほど出た軍神Sirは、彼女の指輪の騎士だった。

 当時はまだ魔法公社に属さない高位の魔法使いが闊歩かっぽしており、Sirはステイツの懐刀ふところがたなとして世界的に有名だった。

 彼は数いる弟子達の中で、当時最も政治的なしがらみの少なかった末弟の私だけを、咲夜さんに引き合わせた。


「紫苑ちゃんと顔を合わせてまだ数時間だけど、あなたは咲夜さんととてもよく似ているわ」


 彼女が食いつきそうなネタ。

 話題の中心を私の背景から、彼女の方へとすり替える。

 咲夜さんのことはさすがに無視できないはず。


「そうかな。ガウェインのお爺ちゃんは、ぜんぜん違うと言っていたけど」


 意外とあっさりした返答。


 紫苑ちゃんは直感が鋭いかもしれないが、本質的には駆け引きに向いていない。

 陰謀を張り巡らせているのは、後ろにいるガウェイン導師辺りだろう。

 もしかしたら私以外にも、先代騎士の意思を継ぐ者が協力しているかもしれない。


 導師と呼ばれた元契約者のガウェインは、咲夜さんらの好敵手として幾度となく立ちはだかり、最後に越えられなかった壁になった。

 良く知る仲でありながらも、互いの内面を見ることのない最も遠い間柄。


 それに導師は魔法使いの素質を見る目は確かなようだが、女心の機微を読むのはまったく異なる種目。

 もしできるならば、保護に成功した紫苑ちゃんを九重院に預けず、自分で面倒を見ていたはず。


 そもそも咲夜さんと紫苑ちゃんは魂のレベルで似ているからこそ、共にアレを魅入られて悲劇のヒロインにさせられてしまった。


「見た目はもちろん違うし、浮き沈みの激しい性格は表面的に近いようだけど、咲夜さんの方が思慮深いというか、もっと腹黒かった。だけど2人とも他人を惹きつける魅力がある。それは透き通った器なんかじゃなくて、まるで鍋ね。清濁せいだくを混ぜて抱え込んでいる。そして自分自身は……底の見えない深い闇の底にいる。世界に失望し、自分のことすら諦めている。今だって楽しいフリをして、どうにか奮い立たせている」


 少女の顔から余裕が消えた。


 半分は事前情報によるプロファイリング結果で、残り半分は一緒に出歩いた私の感想。

 人工契約者の実験体として、苦痛と不自由を強いられた経緯には同情を禁じ得ない。

 彼女は諦めることで、心が壊れないように自衛したのだろう。

 しかしそのことこそがアレを引き寄せる決定打に繋がった。


 感情をそのまま見せる裏表のない紫苑ちゃんだが、その姿はどうしても後付けの顔に見えてしまう。

 演じていると言うと大仰おおぎょうになってしまうが、無理をしているのは分かる。

 茶番なのは、むしろ紫苑ちゃんの方。


 芙蓉君もそろそろ彼女の素顔に気づき始めているようだけど、私からしてみれば簡単。

 仕事柄、人を見てきた経験はとても多い。


「さて、本題だっけ。たしかに今日の買い物は必要なものではなかった。ただ私が紫苑ちゃんとデートしてみたかっただけ」


 紫苑ちゃんは疑っているようだけど、本当に企みなどない。

 あえて挙げるならば、彼女の本心を見極めること。


「紫苑ちゃんの方はどうなの? 私とのお出かけを断ることもできたでしょ」


 彼女は少しだけ回答を迷ってから、パッと明るい顔を見せる。


「そうだ。そうだった。後輩君を私にちょうだい」


 紫苑ちゃんは他人の話を無視して自分の用件に入る人物だと、芙蓉君がこぼしていたけど、今日1番の唐突とうとつさだ。

 この辺りは本当に咲夜さんとは違うな。

 相手の防御を崩すことなど考えておらず、正面突破で素直過ぎる。

 まぁ、搦め手で来たとしても、親切に答えるつもりはない。


「それは芙蓉君の自由よ。彼がうちを辞めたければ、私に止める権利はないわ」


 さて紫苑ちゃんは、どの程度こちらの事情を把握しているのか。

 ステイツ政府による非合法機関だと知っているのか、それとも魔法公社に従属しない結社程度に思っているのか。

 とりあえず後者を前提に押し通すか。


「そもそも魔法公社とうちの掛け持ちは問題ないはず。世界的には大半の魔法使いが結社にも籍を置いている。禁じられているのは複数の魔法公社での重複登録だけ」


 公社側のルールなら、芙蓉君が第5公社の正式なメンバーになっても問題ない。

 このままだとステイツの紐付きにはなるけれども。


 もちろん紫苑ちゃんは私の説明に納得していない。


「あなたの言っていることは本心と違うわ。後輩君のことを手放す気なんて一切ないでしょ。あなたは後輩君の行動を操れる立場にある。彼から逐一ちくいち報告を受けているのに、彼に与える情報はあなたにとって都合が良いものだけに絞っている」

「どうかしらね。私は芙蓉君のことを信頼しているし、彼も私のことを慕ってくれている。紫苑ちゃんと比べて、付き合い長いからね」


 交渉において、相手の本音を暴いたところで、自身の主張を押し通せるとは限らない。

 彼女が言っていることは、さざ波を起こす程度のこと。

 認めなければ、論点を変えることなど簡単。


「あなたのこと嫌いだわ」

「あら、私は紫苑ちゃんのこと好きよ」


 会って話してみたら、どうしても彼女と芙蓉君が結ばれて、人並みの幸せを築くことを願ってしまう。

 でもそれはあり得ない未来。


「でも忘れないでね。紫苑ちゃんの傍に芙蓉君がいるのは、私が割り振った任務があるからよ」


 彼女に意地悪をしたい訳ではない。


 芙蓉君本人は自覚していないようだけど、彼には何かに依存するきらいがある。

 幼少期にローズと2人だけの環境で育ったことが関係しているのだろう。


 彼女に捨てられ、私と出逢った頃の芙蓉君は精神的にとても不安定な状態だった。

 ただ生きるためだけに戦う狂犬に成りかけていた。

 そんな彼が人としての尊厳を取り戻すのは、並大抵のことではなかった。

 規律に厳しい軍部の訓練に身を置き、社会を守るために力を振るうことで、徐々に心を取り戻した。


 組織が、エージェントという立場が、今の芙蓉君の拠り所になっている。

 現状彼の実力ならば、もうこの国のエージェントを続ける必要性はあまりない。

 だけどまだその肩書にしがみついている。

 なんなら、ローズのことなんて忘れて、自由に生きれば良いものを。


 もし芙蓉君から今の立場を取り上げてしまったら、次は目の前の少女に依存するのだろう。

 それは彼だけでなく、紫苑ちゃんにとってもプラスにならない。

 芙蓉君が精神的に自立するまでは、軸足をこちら側に置いておくべき。

 だから今は護衛という一線は残しておいた方が丁度良いだろう。


「もし紫苑ちゃんがこの場で、彼のことを心の底から愛していると言うならば、私も協力するのもやぶさかではないわ」


 彼女を試す言葉だが、愛を口にすることができないと分かっていての挑発。


「こっちの事情を知っていて、性格が悪いわねぇ……もうっ! 後輩君の事は好きよ。異性として1番。もちろん凛花と静流の次だけどね。でも彼に対する想いはそれだけじゃないわ。私は自身の祈りのために彼と一緒にいる。もし私の望みを叶えられるとしたら……それができるのは後輩君だけ」


 彼女の言う望みとは具体的には分からないが、ある程度なら想像できる。

 ガウェインが芙蓉君の存在を教えたのか。

 それとも紫苑ちゃんの中にいるアレが、咲夜さんを通じて得た情報を流したのか。


「芙蓉君が何者なのかは分かっているようね」

「えぇ。後輩君は先代、九重咲夜が私のために残したストッパーでしょ。私が私でなくなった時……私達を殺せる唯一の人物」


 志半ばに散った咲夜さんは、芙蓉君に過酷な運命のろいを残した。

 彼の真の能力は、自身の命と引き換えにして、九重紫苑と彼女の中にあるアレを完全に葬り去ることができる。


 本来九重紫苑が死ねば、自殺、他殺に関わらず、アレは次の依代を探すことになる。

 これまでは上手く逃げてきたようだが、いつかは精霊王に捕まるだろう。

 そうなれば奴らは、こちらの世界への侵攻を再開する。

 だけど芙蓉君が魔法式によるリミッターを解除すれば、アレを完全に分解して、そのエネルギーを魔界に転送することができる。


 芙蓉君自身も薄々勘づいている。

“魔法狩り”が質量体を完全に分解しているならば、エネルギー収支がどうしても合わないと疑問を抱いて口にしていた。

 術の維持に消費されているのではと助言してみたが、本人はに落ちていなかった様子だ。

 実際のところ、大半の魔力は魔界へと送られている。


 元々、咲夜さんはアレと共に魔界に行って、心中するつもりだった。

 だけど力が大きすぎて、ローズが作り出した扉を通ることができなかった。

 長い年月を掛けて成熟してしまったアレに、世界の境界が絶えられないのだ。


 計画が頓挫とんざしてしまってから、ローズを中心に残された僅かな時間で新たな策を用意した。

 彼女らはアレを分解して、その力を転送する術式を作り出した。

 しかしその力は、人の手に余る代物だった。


 魔法使いでなくても、生物、無生物に限らず全てのモノには魔力がある。

 分解の術式は、自分自身の魔力と反発してしまい普通の術者ではまともに扱えない。


 そこで生まれたばかりの芙蓉君の魔力炉まりょくろを封じて、術式を施し、その上からさらに魔法式で力を封印した。

 唯一の予定外だったのは、ローズが彼のことを殺人機械キリングマシンとしてではなく、息子として愛情を注いだこと。

 そのおかげで彼は自身の能力の本当の使い方を知らないまま。


 それでもようやく芙蓉君は、力の片鱗へんりんを見せた。

 予定よりも遅くなってしまったが、九重紫苑がこの世界の害悪になるシナリオへと進んだ場合、排除する準備が整いつつある。

 そして彼女も自身を滅ぼす存在だと分かった上で、芙蓉君を傍に置くことを望んでいる。


「私の方から後輩君に今以上の関係へと歩み寄ることは、ちょっと無理かな……後輩君の方から求めて来てくれるならば、全てを受け入れるつもり。だけど空っぽの私に差し出せるものなんて何もない……」


 世界を相手に幅を利かせているのに、意外と臆病者だな。

 相手任せというか、自身を卑下し過ぎている。

 第5の運営や精霊王に対する画策などの身の振り方は、導師が主導しているようだが、恋愛に関しては何もサポートがないので素の自分で精一杯考えているのだろう。


 これは芙蓉君の方にも問題があるな。

 仕事では合理的でとてもクールな仕上がりなのに、変なところで律儀というか、紳士的というか不器用というか。

 強引に押せば紫苑ちゃんは、もう落ちるところまできている。

 彼女の暴挙に手を焼いているならば、それこそ手籠てごめにしてしまえば楽なのに。

 せっかくホテルを同じ部屋にしてあげたけど、これでは進展はなさそうね。


 まぁ、彼らの年頃ならば、付き合う前のじれったい関係が楽しいのも分からなくもない。

 だけど2人に残された時間は限られている。


「ところで紫苑ちゃん。タイムリミットはいつなの?」

「……もう1年も残されていないと思う。これまでは魂を削って魔力に変換することで抑えてきたけど、最近ではもう歯止めがかからない」


「ちっ……」


 この対談で初めて驚かされた。


 想定よりも短い。

 ローズの見積もりならば、覚醒まで最低でも残り5年はあった。

 咲夜さんが見た予知でも、紫苑ちゃんと芙蓉君が争うのは高校卒業後のはず。


 先代は、彼女が25の時に限界に至った。

 代を重ねるごとに覚醒が早まっている問題は知っていたが、あまりにも急過ぎる。


 やはり紫苑ちゃんの方がアレとの相性がいいのか。

 せめて学生の間は、2人共ニホンで平穏に過ごして欲しかった。


 会話を先導しなくても、紫苑ちゃんが今後の計画を明かし出す。


「第5公社としては、半年もしないうちに行動を起こす算段でいる。最低でも2柱は私の代で道連れにする」


 咲夜さんは最も頼りにしていたローズを欠いた状態だったとはいえ、水の精霊王相手に騎士共々全滅した。

 それが全部で4柱。

 しかも精霊王を倒したところで、紫苑ちゃんの覚醒が止まる保証はどこにもない。


 だから先代は精霊王との対決よりも、問題の根源を取り除くことに尽力した。

 それでも次の代に託す結果になってしまった。

 咲夜さんは我が子の成長を見届けることなく、この世を去るしかなかった。


 精霊王に挑むつもりの紫苑ちゃんの背後には導師がいる。

 彼ならば王に対して勝算があって、事を進めているはず。

 今代の騎士達は確認されているだけでも、トリッキーな使い手が多い。

 咲夜さんの周りには正統派の魔法使いが多かったけど、紫苑ちゃんの騎士のうち魔法使いは東高に通う2人だけ。

 4元素魔法の頂点に位置する精霊王相手に、正攻法では敵わないと考えて、意図した選定なのだろう。


 さらに精霊殺しの存在はとても大きい。

 咲夜さんのときにはなかったカードだ。

 武器の使い手が一流であれば、王に対して物理攻撃が有効になる。

 それでも紫苑ちゃんは4柱全てを倒すのは難しいと分かっている。

 彼女だって、不完全な状態だったとはいえ土の精霊王と対峙しているので、目指す壁の高さを思い知ったはず。

 現実を見据えての『最低でも2柱』。

 つまり敗北の未来を想定できている。


「幕引きは、もう決めてあるの?」

「……もちろん。精霊王に捕まるくらいなら、その前に、九重紫苑は自ら舞台を降りるわ。だけどもし……もし、後輩君が私の願いを叶えてくれるなら、終幕は彼と踊りたい」


 彼女の祈りは1人ではたどり着けない先にある。

 決めるのは芙蓉君の側。

 そこには2人への救いがない決断だけど。


「私からも確認したいことがあるわ。あなたの目的は? もちろん今日のお出かけじゃなくて。どうして後輩君をステイツで囲っておいて、東高に送り込んだ? 一体全体何を企んでいるの?」


 どこまで語るべきか。

 何を口にすれば、納得してもらえるか。


「私は紫苑ちゃんのように当事者でなければ、導師のように精霊王との因縁もない。ただ、この世界の危機は看過できないし、Sirがやり残した仕事でもある。この盤上において全てをくつがえせるのは芙蓉君だけ。真っ先に彼を抑えるのは当然のこと」


 真面目に答えているが、目の前の少女は嘘を見抜こうと必死に疑っている。

 少しだけ本心を見せるとするか。


「私の立ち位置は芙蓉君の味方。彼とは深く関わり過ぎてしまった。もうあなた達をほうむるための人柱ひとばしらとして見ることができない」


 それこそ芙蓉君がステイツから離反したとしても、手助けをするつもり。

 もうSirからの宿題とは関係ない。


「私としては、せめて最後の決断は紫苑ちゃんと芙蓉君の2人に委ねたいと思っている。そのために彼を東高に送った」


 願わくは、芙蓉君と紫苑ちゃんの2人の魂が報われる結末になってくれれば……


 この後、再び2人でショッピングを楽しむことになった。

 振り回された午前と違って、今度は私の方が紫苑ちゃんのことをいじりたおした。

 からかうと楽しいのは芙蓉君と一緒だな。

 2人とも叩けばよく鳴る。


 夕方に解散するときに、紫苑ちゃんは溜まった鬱憤うっぷんを芙蓉君にぶつけると息巻いていた。

 彼の困る姿が、今にも目に浮かぶ。


 ***


「芙蓉、終わったぞ」


 クレアさんの声によって、目を覚ました。

 彼女の実験室にある作業机を改造した急ごしらえの手術台の上。


 ぼんやりとした意識の中で、肉体の感覚を確かめる。

 ゆっくりと関節を動かすことで、固まった体をほぐす。

 意識を手放していたのは、1時間くらいだろうか。


 吸入麻酔は肉体への負担が軽く、復帰が早くて助かる。

 薬品耐性の高い俺を眠らせるために、有効濃度の倍の量を使っている。

 それでも効果があるのは、俺自身が受け入れているから。

 本気で抵抗すれば、成人男性に対する致死量だとしても、数分は意識を手放さない自信がある。

 麻酔を受けいれていたからといって、外科的手術を施されたり、解剖をされたりした訳ではない。


 左腕を軽くさすってみる。

 目では見えなくても、そこにあるものが感覚で分かる。

 ファイアボールの魔法式を刻んでもらっていたのだ。

“魔法狩り”に並ぶ俺の奥の手。


 このやり方ならば、たとえ属性の適正がなくても、魔法式に魔力を流すだけで術を発動することができる。

 しかも詠唱を必要としないアドバンテージもあるので、かなり実戦向き。

 そしてクレアさんが改良した特別製は、溜め込んだ魔力を全て放出する破壊力特化の遠距離攻撃。

 発動すると魔法式が耐えられず自壊してしまうので、1回きりの手札。

 霊峰で吸血鬼相手に使って以来、ニホンの地では再装填できずにそのままにしていた。

 せっかくステイツに帰ってきたので、この機会にクレアさんにお願いしたのだ。


 魔法式を刻む際は多少の痛みを伴う。

 苦痛に対しても耐性があるつもりだが、筋肉の反射までは抑えることができない。

 そこで効率的に作業をするために麻酔を受け入れた。


 さっそく試し撃ちをしたいところだが、1発しか入っていないので、本番に取っておく。

 それにこの魔法は“魔法狩り”とセットであり、通常時では発動のための魔力が足りない。


 さて、左よりも右腕に浮かび上がったままの魔法式について。

 研究用の兎の魔獣相手に何度も検証を試してみた。

 その間、暴走の兆候は全くなく、むしろ有益な情報を得ることができた。


 右の指先から肩の付け根辺りまで。

 この部位に限定してだが、魔法の分解能力が格段に向上していた。


 魔獣の身体強化を解除するのに、要した時間は測定不能の早さだった。

 厳密には数msecミリセカンドオーダーだが、この桁の値になると測定環境や計器の質で変化してしまうので、精確な数字は分からない。

 そもそも人間には知覚できない早さなので、値を把握していなくても戦闘に支障はない。

 おおよそだが、人間の神経細胞同士が化学シナプスを用いて情報を伝達する早さがこのmsecオーダー。


 一方で、魔力そのものの吸収速度に関しては変化がなかった。

 分解速度の違いのせいで、触れてからの初速は右腕の方が早いが、純粋な魔力を奪う効率は元のままだった。

 変化の起きた右腕だが、“魔法狩り”に比べてとても使い勝手が良い。

 魔法式が浮き上がったままなことを除けば、発動条件は特になく、自損のリスクもない。

 これまでに苦手としていた分解に抵抗力を持つ相手でも、十分に戦うことができる。

 対魔法使いを主な任務とする俺にとっては、大幅な戦力向上。


 身体強化や魔法生物だけでなく、ダニエラや精霊が使う魔法も分解耐性を持っていた。

 吸血鬼の騎士曰く、人間が使う魔法に比べて存在確率が高いそうだ。

 これまでなら戦闘を避けるか、ダメージを覚悟して飛び込むしかなかった。

 もちろん魔法狩りを使えば、分解は可能だが、あれは諸刃の剣。

 発動までのハードルが高く、使用中のリスクと使用後の消耗が大き過ぎる。

 特に触れた対象を無条件に分解してしまうのはとても厄介だ。


 良い情報もあるが、悪い情報もある。

 結局、暴走についてクレアさんでは解き明かすことができなかった。


「能力が変質してしまっていることは確かだな。担当医としては、未知の魔法を使い続けることをあまり勧められない。長く現役でいたいのならば、今からでも魔法式に頼らない違うやり方を考えることね」


 どんな魔法にもリスクがある。

 そして先人のいない未知の魔法には、当然のことながら、注意事項が記載された取扱説明書は存在しない。

 固有魔法は長い歳月を掛けて、代を重ねることで、人間が使い易いように改良してきた。

 その際に人の手に余る危険な魔法は、禁忌きんきとして語り継がれている。


 精霊王が人類に与えた4元素魔法は歴史こそ浅いが、世界を舞台に大規模に検証されて最適化が進んでいる。

 一昔前は各国による知識の独占もあったが、今では魔法公社が収集した情報を開示している。

 さらには一般向けの教本があるくらい。


 それにしても、魔法使いとしての寿命は考えておかなければ。

 普通の仕事ではないので、定年まで現役でいられるのは一握りだけ。

 フレイさんのような統括する立場や、裏方に回れば、体力的に衰えても続けることができる。

 自己分析だが、俺に適性があるとは思えない。


 そもそもローズかあさんの真意を確かめることさえできれば、俺が戦う理由はなくなる。

 しかし彼女と再会しても、簡単には本心を語らないだろう。


 魔法でローズを上回ることは不可能。

 これまでに武術や火器の扱いも鍛錬してきたが、それらは魔法を分解する能力があってこそのもの。

 兵士としての俺の実力は、中堅程度でしかない。

 成長途上のこの肉体だと、魔力による補助がなければ、武装した大人を1対1で正面制圧することは困難。

 ローズに対しては、子供騙し程度でしかない。

 もし戦いに発展するとしたら、通用し得るのは固有魔法としての“魔法狩り”だけ。


 そしてもう1つ。

 彼女が残した手紙の中で、復讐を望むならば“第5の精霊王”について調べろとあった。

 長年、気にはなっているものの、未だに手がかりを掴めないまま。

 第5公社に何かあるかもしれないと思っていたが、サブライセンス契約程度では、大して内情を明かしてもらえなかった。

 まだまだ問題は山積みだな。


 そんな俺の悩みのうち一部を解決する秘密道具らをクレアさんが用意してくれた。


「これらを渡しておこう。こっちは魔道具の鑑定士が使う手袋。そっちの方は今回の件の報告を受けて急ピッチで作った人工皮膚だ」


 彼女が机の上に置いたのは、白い布の手袋と、肩までの長さがある肌色の薄い膜状の手袋。


「手袋の方は知っているだろ。魔力を遮断する素材だから、普段から着けるといい。洗濯は丁寧にな」


 そう説明するクレアさんは1組の手袋を投げる。

 俺は片手で、空中にある手袋を両方共キャッチする。


「そんなぞんざいに扱わないでください。それにしても、まさか支給されるとは」


 希少性があり、とても高価な品。

 分類上は魔道具なのだが、魔力を持たない。

 材料は魔獣の体毛だとも、霊場の植物だとも言われている。

 作り方はもちろんのこと、職人の素性に関しても非公開になっている。


 一方で魔力を通さないといっても、所詮は布手袋なので、防具としての性能は貧弱。

 用途はとても限定的で、魔道具や魔石に影響を与えずに触れるため。

 他には魔力を検知する電子回路の製造現場くらいだろうか。


 以前から欲しいと思っていたが、ようやく俺の手元にやって来た。

 これがあれば布越しではあるものの、魔法使いや魔道具に触れても魔力を吸う心配がなくなる。

 俺の仕事の報酬では購入できる金額ではないので、支給品として使わせてもらえないかフレイさん経由で何度も打診していた。

 しかし俺の職務は基本的に戦闘担当なので、上層部には必要性がないと却下され続けていた。

 ニホンへの出発前にも、駄目もとで申請してみたが、受理されているとは思わなかった。


 そして今回の支給品はもう1種ある。


「こちらの人工皮膚というのは、魔法式を隠すためのものですか」

「そうよ。とても薄い膜で、通気性と発汗性に優れた素材を使っている。とりあえず今は10枚しか準備できなかったけど、追加分が用意できたら定期的にニホンに送らせる」


 こいつも今の俺にとってとても有用だな。

 右腕の魔法式を隠すために、テーピングや包帯を毎回巻くのは手間だし、その状態で日常生活を続けるのには無理がある。

 これから真夏に突入すれば、長袖で二の腕を隠すのにも限界がある。

 誰かに疑われる前に、要所で肌を人目にさらしておいた方が無難。


 とりあえず、“魔法狩り”の暴走は精霊殺しの短剣で、強化された分解能力は手袋で、右腕に残ってしまった魔法式はこの人工皮膚で対処する。

 暴走に関しては根本的には解決していないが、そこまでは期待していなかった。

 クレアさんから今のところ暴発の兆候がないというお墨付きをいただけただけでも大きな収穫。


 後は鑑定をお願いした精霊殺しの短剣を受け取って、会長と泊っているホテルに帰るだけ。


 ***


 大分遅くなってしまった。

 研究所を発って、ホテルに着いたのは20時過ぎ。


 ニホンならまだ学生が出歩いている時間帯かもしれないが、この都市では危険なよいの世界。

 同僚の運転でホテルの前まで着けてもらい、寄り道せずに最低限の歩数で建物の中に入る。


 車に乗っている間に、タブレットで精霊殺しの鑑定結果についての報告書を読んでおいた。

 まず材質は地球上にある鉱山から得られる金属だけで、特別な素材は使われていなかった。

 そして俺が扱えたことから予想はできていたが、魔力は通常の短剣の規定値しか検出されなかった。


 さらに事前に俺の方で採取しておいた指紋や掌紋しょうもんは会長だけでなく、凛花先輩と静流先輩のものもあった。

 そしてそれ以外に、最低でも2人。

 おそらく第5公社の他のメンバーなのだろうが、欠損が激しくてデータベースとの照合は困難。


 科学分析だけでなく、魔術方面での調査も行った。

 鑑定家達には、精霊殺しだとは伝えないブラインドテスト方式を採用した。


 魔道具の評価という、客観的に数値化できないものを扱うのはとても難しい。

 せめて事前情報がなくても、精霊殺しだと言い当てられるくらいの能力がなければその評価は疑わしい。

 もちろん目利きの腕を確認できれば、具体的な情報を教えて次の段階に進む算段だった。


 方面の異なる様々なタイプの魔道具の専門家を揃えたものの、誰1人として能力を読み取ることができなかった。

 むしろ魔道具ではないと主張する者が多かったそうだ。


 ただ1人だけ、占い系の能力者が短剣には強い怨念おんねんが込められており、恨みの相手を模した偶像を斬れば本体を害すると口にしたそうだ。

 微妙に違うが、似てはいるな。

 テトラドで俺が斬ったのは、確かに偶像に近い。

 精霊本人の魔力で造り上げられたこちらの世界での肉体。


 そして占い師は、情報開示を受けてもこれ以上は読み取ることができないと、次の鑑定に進むことを辞退した。

 どこまで信憑性しんぴょうせいがあるのかは分からない。

 当てずっぽうが偶然に一致した可能性もある。


 結局、魔道具としては何も情報を引き出すことができずにお手上げだった。

 今回はステイツ政府と繋がりのある信用の厚い人物しか集めることができなかったが、それでも実力に定評のある鑑定家を招いた。

 いよいよ本当に神器なのかもしれない。


 これ以上の鑑定には、実証実験が求められるが、精霊なんてそうお目にかかれられるものではない。

 俺がテトラドの地下で奪った研究成果の追試が行われているならば、近い将来には可能かもしれない。


 最後に補足資料に、成分分析の結果とその考察がまとめられていた。

 数値上の結果は軽く読み飛ばして、結論として短剣はここ数年の内に作られたもの。

 つまり第5公社にある精霊殺しシリーズは遺跡などから発掘した品ではなく、今生きている人の手で生産されたもの。


 短剣としての構造はとてもシンプルだが、人が手で作ったむらが見つかったそうだ。

 量産されている精霊殺しだが、工場の機械で作った可能性は低いそうだ。

 二ホンに戻ったら、生徒会ハウスの隠し部屋にある他の短剣と見比べてみる必要がある。


 そして鍛冶師の腕は決して一流ではないそうだ。

 俺自身でも確認してみたが、短剣のどこにもめいはなく、類似の作品はステイツのデータベースにはなかった。

 厳密には、教本通りの平均的な仕上がりのせいで、様々な作品に似ていて鍛冶師を特定できなかった。


 精霊殺しの短剣の鑑定に頭を悩ませるよりも、九重紫苑の傍で情報を引き出す方が武具の性能と量産の秘密にたどり着ける見込みがある。


 とりあえず本日の山場はまだ残っている。

 ホテルの自室に帰宅してからだ。

 タブレットで資料を読み終えた頃に、フレイさんからのメッセージが届いていたことに気づいた。


『紫苑ちゃんは無事に部屋まで送り届けたわ。夕食も済ませてある。後は頑張ってね』


 会長は先に戻っているようだ。

 俺は夕食どころか、昼食もまだ。

 研究所では食べ物を口にする時間がなかった。


 ルームサービスで済ませたいところだが、フレイさんが最後に残した『頑張ってね』という言葉に不安しかない。

 敏腕なうちの上司は、仕事以外の余計な話もするが、意味のないことをわざわざ言う人物ではない。

 挨拶としてのただの激励でないことは十分に伺える。

 これから困難が待ち構えているとしか思えない。


 考えをまとめている間に会長が待つ部屋の前に辿り着いてしまった。

 カードキーは彼女が持つ1枚だけなので、外側から開錠はできない。

 内側から開けてもらうためにドアベルを鳴らす。


 電子音が鳴りやまない間に、ガチャリと開錠される。

 慎重を期して耳を凝らしていたはずなのに、部屋の中から足音すら聞こえなかった。

 危険は感じないが、嫌な予感はする。


 今からでも、どこかのビジネスホテルにチェックインできないか。

 何なら公園で一夜を過ごしても構わない。


 中に入ることを躊躇ためらっていたら、内側からドアがゆっくりと少しだけ開かれ、そこで静止する。

 会長が何かを企んでいることは明白。

 それが俺にとって、良くないものであることもこれまでの経験で察している。

 フレイさんがメッセージの最後に残した言葉も気になる。


 もしここで逃げたら、これまでに構築した彼女との信頼関係にひびが入るだろうか。

 それとも時間が経過すれば、矛を収めてくれるだろうか。


 今まで他人と深く関わった経験のない俺には、どこまでが許される境界なのかまだ分からない。

 気は進まないが、ここで彼女のストレス発散に付き合って、小まめにガス抜きをしておいた方が火種を残さずに済むか。


 1度だけゆっくりと息を吸って、吐き出す。

 どんな理不尽が待っていても、受け止める覚悟を固める。


 差し出された半開きのドアを、自分の意思で最後まで引いて、部屋の中に入る。


 その先にいたのは、エプロン姿の少女。


「旦那様。お食事にしますか。お風呂にしますか。そ、れ、と、も」


 会長様が洋服の上からまとっているエプロンは、白の生地にピンク色のハートマークがプリントされている。

『がちゃり』と俺が手を放したドアが自然に閉まる音がする。


 綺麗な姿勢で出迎える会長様は素敵な笑顔を浮かべている。

 しかし俺には、その目が笑っていないように思えてしまう。


「それとも?」


 自然と彼女が貯めた言葉を復唱して聞き返す。


「それとも、わ、た、し……のサンドバッグになりますか」


 変化球かと思ったら、直球だった。


 フレイさんとの買い物はお気に召さなかったのか。

 朝の顔合わせの時から喧嘩腰だったが、やはり2人の相性は悪かったのだろう。

 俺のことをからかうフレイさんと、俺のことを振り回す会長様だが、うちの上司の方が上手うわてだった。

 癖の強いエージェント達を束ねるフレイさん相手では、さすがの会長様でも形無しか。

 ご立腹のようだが、いきなり暴力に訴えない辺りが実は恐ろしい。


 とりあえず選択肢を用意されているので、選んでみるか。

 もしかしたら正解があるかもしれない。


「……お風呂」


 これが当たりであってくれ。


「えぇ、もちろん。愛しの旦那様のために、煮えたぎった熱々のお風呂を用意したわ」


 大外れだった。


 熱湯の中に入るくらいならば、まだサンドバッグとして殴られる方がマシだ。

 魔法を分解できても、ただの熱い湯は分解できない。

 長年の訓練によって苦痛や薬剤に対する耐性を手にしても、生物の枠の内側にある限り越えられない壁がある。


 いや。

 バスタブのお湯を1度流すか、水を加えればいいだけのことか。

 会長の悪巧わるだくみも、今回ばかりは子供の悪戯いたずら程度だな。


 平静を取り戻した俺は、風呂の支度を始める。


「わざわざ用意していただきありがとうございます」


 ストレートをかわしたけど、カウンターには間に合わなかったので、軽いジャブで牽制。


 風呂上がりの着替えを用意した俺は、シャワールームに入る。

 ユニットバス形式のシャワールームだが、トイレ部分とシャワー部分の間にカーテンのような仕切りはなく、ただ間隔が広めになっている。

 中は大量の湯気が充満しており、大きな鏡が曇るどころか、入り口からだと浴槽側がまったく見えない。


 トイレの横にある棚には白いタオルがたくさん詰まっているが、半分は空きスペースになっている。

 そこに着替えを置いてから、今着ている服を脱ぎ始める。

 着ていた服は明日には洗濯するが、様式美として一度綺麗に畳んで着替えの隣に並べる。


 バスタブにはお湯が満たされており、触れなくても近づくだけでかなりの熱を感じる。

 さすがに沸騰はしていない。

 おおよそだが60℃を少し下回る程度。

 数秒の入浴ならば、火傷にならない絶妙な加減だ。


 入浴前にバスタブに水を加えて冷まそうとした時、ガチャッと防水機能のある浴室のドアが開く。

 一応内側から鍵を掛けたはずだが、コイン1枚あれば簡単に開錠できる造りになっている。


 白く濃い湯気のせいで、侵入者の姿はほとんど見えないが、会長以外にあり得ない。


「どうして入って来るのですか!?」


 彼女の行動原理が予測不可能なことは分かっている。

 理解することを諦めたはずなのに、自然と質問が口に出てしまった。


「お馬鹿さんなの? 熱湯で苦しむ後輩君の姿を見なければ、せっかく準備した意味がないでしょ」


 どうして俺が馬鹿にされなければならない。

 俺が同年代の常識にうといことは認めているが、今回の件は会長の方がおかしいはず。


 彼女がシャワールームへの入り口を開けたままにしているので、霧のように部屋を占有していた湯気が外へと流れ出ていく。


 どこにも逃げ場がない。

 唯一の出入り口にたどり着くためには、会長の真横を通り抜ける必要がある。


 さらに俺は風呂のために脱衣を済ませてしまい、着替えやバスタオルも会長の方が近い。


 このままだと恥部ちぶさらすか、熱湯風呂の2択。

 軍の野外訓練では、異性の目など気にしないのが当然だったが、平時はそうでもない。

 特に会長が相手になると冷静を保てない。


 追い打ちを掛けるように、モーターが駆動する音がする。

 止まっていた換気扇が動き出した。


 一気に湯気が薄くなりだす。

 決断までのカウントダウンが加速する。


 熱湯風呂か、裸体を晒すか。

 いや。

 近場に1枚だけ、タオルという防具が残されている。

 白い布を腰から下に巻き付ける。


 湯気の奥にあった会長の姿がはっきりしだす。

 先ほどに引き続き、可愛らしいエプロン姿。

 まだ熱湯に入らない俺を見た彼女は、落胆の表情を浮かべるが、すぐに悪戯顔に変わる。


「私がこの手で、剥がしていんどうをあたえてあげるわ」


 言葉と共に彼女の視線は、俺の下半身を守る防御力1の装備に注がれている。

 せめて風呂に押し込めばいいものを、どうしてタオルを狙う発想に至るのだろうか。


 セクハラ発言の多い会長様だが、実体は異性への恥じらいをしっかり分かっているはず。

 暴走気味の今の彼女は、完全におかしなテンションになっているな。

 だけどこれも彼女の魅力のひとつで、好ましく思えてしまう自分がいる。


「会長には羞恥心しゅうちしんとかないのですか。もし見ることになってもいいのですか」


 一応は指摘してみる。

 もちろん何を見ることになるのかには言及しない。


「ここにいるのは私と後輩君だけじゃない。何を気にする必要があるの。さぁ、さぁ、さぁ」


 さも当然のごとく、あっけらかんと返されてしまった。


 どういう意味だろうか。

 俺のを見ても大したことがないということなのか。

 それとも他人の目がないので、恥じらう必要がないということなのか。

 どちらであったとしても、俺は自身の下半身を守らなければならない。


 会長が突拍子もない行動を起こし、俺が拒否をする。

 それがこの遊びのルール。

 ここに至って、もう水を差すつもりはない。


 戦いは一瞬で決着するだろう。

 互いの特性上、会長が先攻で、俺は受けからの切り返しを狙うのが当然の流れ。

 パワーとスピードは彼女に分があるので、タイミングを外して組み技に持ち込む作戦。


 会長は魔力を高めると、前屈みの姿勢になり、指を広げた右手を伸ばす。

 俺は左足を半歩だけ後ろに引くことで、身体を90度回転させる。

 タオルを狙っていた彼女の右腕が空を掴む。

 その手首を俺の右手が捕らえる。


 手首を掴んだ右腕を強引に正面へと伸ばすことで、彼女を強引に押し戻し、間合いを離す。

 会長は次の攻撃に迷う。

 向かい合う俺との間に、交差するように右腕同士が繋がっているので、残る左を出しにくい。


 このまま膠着こうちゃく状態が続けば、触れている間に魔力を吸うことできる俺の方が有利になる。

 身体強化が最大になれば、彼女をシャワールームから追い出すことも無理ではない。

 だから掴んだ彼女の手首を放してはならない。

 次は左の拳か、足元からの蹴りか、それとも繋がった右腕を利用してからの投げか。

 さすがに屋内で無属性の魔弾による砲撃は使わないはず。


 どの攻撃が来ても対処できるように、視野を広く保つ。

 だけどなかなか次の攻撃が来ない。

 会長の魔力を吸って強化された肉体が、彼女の手首をより強く締め付ける。


「んつっ、ちょっ、ちょっと。後輩君! 痛いわ!」


 さっきまでのじゃれ合いではなく、本気の声色。

 握力を少しだけ緩める。

 会長から苦痛の表情が和らぐ。


 改めて状況を確認すると、彼女の魔力はまだ高い水準を保っており、吸い尽くしてはいない。

 しかしエネルギーが中心部に押し止まり、外部へと放出できていない。

 つまり彼女の身体強化が解除されているのだ。


 会長は右手の拘束を解こうとしているが、大した力が入っていないし、新たな魔法を発動する気配もない。

 どうやら彼女の魔法形成よりも、俺の分解効率の方が上回っているようだ。


 意図したことではないが、俺は魔法式が浮かび上がったままの右腕を彼女に接触させている。

 日中の検証実験で、魔力の吸収能力はそのまま変わらないが、魔法の分解能力が格段に向上していることが分かった。

 兎の魔獣相手の場合、5秒は要する身体強化の解除が瞬時に可能になった。

 それが会長相手でも同じだった。


 会長と俺は、本気で戦っているのではなく、今この場はただのじゃれ合いでしかない。

 彼女だって、ホテルを吹き飛ばさないように力を慎重に絞っている。

 まだ魔力を引き出せるはずだが、これ以上は暴発する危険もあるので、屋内では使えない。


 もし魔力を完全開放されていたら、対応できるか分からない。

 他の指輪の騎士の能力に対しても分解が有効なのか。

 この右腕の評価はまだ早いが、今後は会長の理不尽を拒否できるかもしれない。


 俺は会長の腹部を抱きかかえて、肩の上へと持ち上げる。

 そしてシャワールームの外へと投げ捨てるように追い出す。


「後輩君。レディーの扱い方が雑よ!」


 人をサンドバッグにしようとしたり、熱湯に入れようとしたり、男の股を隠すタオルを取ろうとしたりする女を、この国ではレディーとは呼ばない。


 ようやくリラックスすることができる。

 浴槽に水を加えながら、お湯をかき混ぜる。

 騒いでいる間に多少冷めたようで、素手を入れても少しの間ならば、問題なさそうだ。


 湯船へとゆっくり体を沈めていく。

 水の音以外には何もない世界で、疲れを流す。

 足元の方から、疲れた肉体をほぐすために自身でマッサージをする。

 筋肉だけでなく、関節も丁寧に処置しておく。

 まだ成長途上の身体なので、ケアを怠ってはならない。


 休憩を挟んで数度入浴したいが、夕食をまだ済ませていないので、十分に体が温まったところでお湯を抜く。

 シャワー横に置かれていたシャンプーの類が、昨晩よりも増えている。

 今日のフレイさんとの買い物で購入したものだろうか。

 とりあえず俺はホテルの備え付けの品を選んで使う。

 丁寧を心掛けながらも、手早く髪と体を洗い流した。


 そのまま同じシャワールームで体を拭き、部屋着になった。

 寮の部屋では動きやすいジャージやスウェットだが、ホテルのランクに合わせて長袖の襟付きパジャマ。

 袖に手を通す際に、衣類が肌にれる感覚がいつもより滑らかだった。

 ボディーソープひとつとっても、その辺のビジネスホテルの備品とは違うようだ。

 泡立ちや香りだけでなく、保湿力も高かった。

 ドライヤーで髪を乾かし、鏡を見ながらヘアブラシで軽く整えた。


 シャワールームを出て、リビングに入る。

 その部屋はとても静かで、暗かった。


 会長は寝室の方だろうか。


 それにしても間接照明すら点いていない。

 手探りに壁にあるはずのボタン探して、とりあえず全て押す。

 一気に蛍光灯が白色で部屋を照らす。


 軽く驚かされた。

 暗闇の中に会長がいた。


 L字型のソファーの上に座っている。

 彼女の周りだけ空気が停滞しているように感じる。

 さっきまで俺のことを熱湯風呂に入いれようとしたり、タオルを剥ぎ取ろうとしたりしていた人物とは思えない。

 浮き沈みが激しいのは彼女の特徴。


 どちらにしても機嫌が悪いことには変わりない。

 こういうときのケアは凛花先輩に任せたいところだが、この国に頼れる副会長はいない。

 やはりガス抜きは避けられないか。


 とりあえず会長の隣に座る。

 密着ではなく、拳ひとつ分の距離がある。


 俺の行動に対して、会長は気づいているのに何も反応を示さない。

 どうにか彼女を暴発させたいが、俺から求めるのは、これまでの2人の関係とは違う。


 とりあえず今日は別行動だったので、お互いに話題に事欠かないけど、それで正しいのだろうか。


「今日1日はどうでしたか。フレイさんとは上手く合いませんでしたか」


 当たり障りのない無難なところから切り出したつもり。

 だけど会長は返事をしない。


 塞ぎこまれてしまったら、俺の言葉ではどうにもできない。

 これまでの付き合いの中で、このような場面はあまりなかった。


 餌で釣ればいいのだろうか。

 彼女は日中買い物に出かけていたし、夕食も済んでいるので、この場で効果的なプレゼントが思いつかない。

 他に女性の機嫌を取る方法なんてあるのだろうか。


「……会長」


 彼女の肩に手を当てて、強引に体をこちらへと向ける。

 うつむいたままの彼女と目線が合わない。


 どうにか顔を合わせようと、下の方から会長のことを覗き込もうとする。

 だけどすぐに首を曲げて目を逸らされてしまった。


「今度はどうして落ち込んでいるのですか。俺のせいなら謝罪しますから。聞かせてください」


 ほとんどお手上げ状態なので、最後の手段として素直に思っていることを口にした。

 これで駄目ならば、もう放置するしかない。


 それなのに彼女は動かない。


 今の時間ならば、ニホンはお昼前のはず。

 凛花先輩の知恵を借りるとするか。

 テーブルの上に置いてあったスマートフォンに手を伸ばそうとする。


 姿勢を変えて、会長から目を離した瞬間を狙われた。

 ソファーの上で彼女に押し倒された。


 仰向けの状態の俺を逃がさないように、会長が馬乗りに座っている。

 必要性がないので抵抗はしない。

 むしろ彼女がソファーから落ちないように気を使う。


 魔力を解放していない会長はとても軽い。

 俺の胸元に、彼女のグーがトントンと何度も落ちるが大して痛くはない。


「もう、後輩君のばか。ばか。ばか」


 今にも泣き崩れそうな声。

 出会った当初には会長がこのような姿を見せるとは思わなかった。

 だけど今の彼女の方が本質に近い。


 今ならば俺の言葉は届くだろうか。

 選ぶのはもちろん謝罪の言葉。


「俺が悪かったです。ごめんなさい」


 だけど会長は俺の胸元を叩きつけるの。


「ばか。ばか。どうしてすぐに謝ろうとするの。後輩君は別に悪くないのに」


 これまでに何度も会長の理不尽に巻き込まれて、こちらに非がなくても謝ったり、罰を受けたりしてきた。

 今回だって俺自身は悪いと思っていない。

 彼女の中でも同じ認識ならば、やはり日中に何か問題があったのか。


「フレイさんですか?」

「それはもういいの。後輩君は何も分かっていないわ。今日のお出かけでは上手く丸め込まれて、さっきまで怒っていたけど、今はそんなことどうでもいいのよ」


 たしかに俺が部屋に戻ったとき、彼女の感情は怒りの方に傾いていた。

 フレイさんと何かがあって、ストレスが溜まっていたことは間違いないが、今は違うようだ。


「お風呂で後輩君に簡単に追い出されたから……もう、後輩君が慌てふためいてくれない思うと。もう、私に付き合ってくれなくなると思うと……急に悲しくなって」


 想像力豊かというか、思い込みが激しいというか。

 俺が会長との関係に自信を持てないように、彼女も俺との信頼に不安を抱いていたのか。


 俺達は所詮、東高と第5公社での先輩後輩でしかなく、いつ立場を違えるのか分からない細い繋がり。

 そしてお互いにこの関係に言及したことはあまりなかった。

 必要ないと思い込んでいた。


 全てを晒すこと無理でも、芙蓉個人としての感情ならばここで口にできる。


「俺はまだ答えを見つけられておりません。今は先の見えない旅の途中。この国も、そして東高も止まり木でしかありません……でも、いずれは自分の足元を定めます。そのときは……1番に聞いていただけますか。旅路の話を。俺の答えを」


 言葉が進むたびに会長と目が合いだした。

 これが俺の精一杯。

 届いているようだが、想いはどこまで伝わっているだろうか。


「それと、たしかに口では嫌だと言っておりますが、会長のわがままに付き合うのは結構楽しいですよ。だから、これからも俺のことを困らせてください。あっ、でも少し無茶を控えていただけると助かります」


 上に乗っていた会長から力が抜けていく。

 彼女はそのまま俺の胸元へと倒れ込む。


「やっぱり、後輩君はズルいわ」


 いや、ズルいのはいつも会長の方だろ。

 毎回折れるのは俺じゃないか。


「後輩君、今度買い物に付き合ってくれる」

「そのくらいいいですよ」


「ニホンに帰ったら、また手作りケーキをやってくれる」

「もちろん。リクエストを考えておいてくださいね。なんなら一緒に作りますか」


「ラーメン屋さんにも一緒に行ってくれる」

「普通のお店にしてくださいね。前みたく大食いチャレンジは勘弁です」


「じゃあ、じゃあ、むしゃくしゃしたら、定期的に投げ飛ばしてもいい」

「……お手柔らかにお願いします」


 約束を交わす度に、会長の顔が明るくなる。

 大分不利な言質を取られたな。

 ニホンに帰ってからも大変そうだが、内心楽しみでもある。


「後輩君」

「今度は何ですか」


「ほっとしたら、ストレス解消がまだだったことを思いだしたわ」


 まだ終わりじゃなかったのか。

 日中のフラストレーションについて、さっき『それはもういいの』と言った舌の根の乾かぬ内に。

 彼女の二枚舌にはもう慣れている。


「熱湯はもう勘弁してくださいね」


 せっかくここまで会長の機嫌を取り戻したので、もう最後まで付き合うつもり。

 しかし1度回避した無茶振りを受け入れるのは茶番でしかない。

 同じ熱湯だと芸がない。


「うーん。おうまさん。そうね。お馬さんごっこにしましょ」


 いきなり俺はソファーから転げ落とされ、床にうつ伏せになる。

 その背中に人間1人分の体重が加わる。


「ほら。後輩君は早く馬になる」


 お馬さんごっこってそういうことだよな。

 熱湯よりは大分マシか。


「嫌ですよ。どうして俺が馬をしなければならないのですか」


 嫌がるのは、もはや様式美。


 命令を拒む俺の腰の辺りを強めに掴まれた。

 俺はすぐに四つん這いになり、会長を背中に乗せる。

 すると彼女は力を緩めた。

 それでも俺の脇の少し下付近を、彼女の両手で挟まれたまま。


「お姉さんは、後輩君がツンデレなことくらい、ちゃんとお見通しなのよ」


 たしかに会長と一緒にいると、自己矛盾が大きく浮き彫りにされる。

 しかしさっきまで落ち込んで泣きそうだったのに、良くそんなことを言えるな。


「しゅっぱーつ」

「はい、はい」


 気だるげな返事は、俺なりの小さな抵抗。

 そして人間だった頃は腕だった前脚を上げて進みだす。


 ソファーとテーブルの外側を大きく回り始める。

 ゆっくりした動作で着実に前へと進む。

 日々のトレーニングで体幹を鍛えてあるので、騎手の揺れは少ない。


「後輩君、スピードアップよ。ほら」


『ぺちん』と尻が叩かれた。

 普通の馬ならば、驚いて委縮いしゅくしてしまう威力。

 だけど俺は背中に乗せる女帝の要望に応えて歩くペースを上げる。


 俺の筋力は同年代の平均よりは高くても、器としての限界がある。

 しかし会長と接触しているおかげで、魔力が補充されて、運動補助が働いている。

 そして俺だけでなく、命令を下す彼女も身体強化を発動している。


 せっかく分解能力が強化された右腕だが、今は前に進むのに忙しい。

 今の態勢だと、予備動作なしで彼女の魔法を解除するのは不可能。

 隙を狙えばできなくはないが、それはお互いに望む展開ではない。


「私の後輩君なら、まだまだできるでしょ」


 ここまで来たら、やけだ。

 徹底的に会長に付き合ってやる。


「任せておけぇ!」


 身体強化のギアを入れ替えて、馬力を上げる。

 さらに方向転換では、小ジャンプからの着地後に、前脚だけブレーキを掛けてドリフト走行を決める。


「後輩君、さいっこおぉ! 次は大ジャンプよ」

「了解!」


 キッチンから助走を加えて、ソファーにぶつかる直前に、立ち上がるくらいの角度で跳ぶ。

 会長も両手を離して大きく広げる。

 前脚で着地したところで、急ブレーキへと切り替える。

 壁に激突する擦れ擦れで急停止。


「フォー!」


 会長様も絶好調でご満悦。

 下のフロアに響かないか多少気になったが、このクラスのホテルならば防音はしっかりしている。

 現に今も聴覚を強化してみても、真上の住人の物音はとても微か。


 会長の要望に答えて、俺は四輪駆動では不可能な立体的な走行を披露する。


「こんな狭い場所じゃあ、後輩君の馬力を発揮できないわ。廊下に出るわよ。直線走行こそ真理」

「合点承知」


 リビングから玄関に向かう。

 ドアの破り方だってスタイリッシュに決めてみせる。

 普通に止まっていたら、せっかくのテンションがだだ下がり。


 後ろ脚で跳んだ俺は空中でカードキーを抜き取り、胴体が水平になる姿勢で1度ドアに張り付く。

 すぐにドアノブを回し、四肢の屈伸運動だけで入口を開く。

 そして重力による落下を待たずに、自ら地面へと降りる。


「よーし。直線コースで風になるわよ。全速前進」

「Hi! 突風ブラスト!」


 体を伸ばして、大きな歩幅ストライドを見せる。

 回転率も限界まで挑戦する。

 脚で地面を蹴り上げたときの瞬間最高速度はもちろんのこと、平均速度も2足走行を超える。

 会長からの魔力が供給あるからこそ可能な曲芸だな。


 ホテルの長い廊下を一気に駆け抜け、非常口のある行き止まりまでたどり着いたので、1度停止する。

 肉体の静止に引きずられて、思考も1度停止する。


 あれっ。

 これって、かなりまずいな。


 ステイツのホテル。

 廊下にいるのはニホン人の若い男女。

 男性は四つん這いになり、女性はその上にまたがっている。


 誰かに見られたら、社会的に有罪だな。


 後ろの片脚を軸に回れ右をして、その勢いでスタートダッシュを決める。

 目指すは自分達の部屋。


「いいね。後輩君。なんだかジェットコースターみたーい」


 あまり大声を出さないでもらいたい。


「無駄口を叩くと舌を噛みますよ」


 リミットを解除する。

 騎手の姿勢安定装置を強制停止。


 ただ1秒でも早く前に進むことを優先する。

 乗馬というよりロデオ状態だけど、会長は足だけでなく手も使ってしがみつく。


 部屋の前に戻るとカードキーで開錠して、すぐ中に戻る。


 幸い誰とも会わなかったが、監視カメラには映ったはず。

 特に何事もなければ、広まることはないだろう。

 残りの期間はもう大人しくしておこう。


「後輩君。もう1回。アンコール。アンコール」


 大分荒い走りだったが、会長は普段からリルを乗り回していることもあって、随分と元気だ。


 この後、ホテルの部屋の中で30分ほど暴れまわった。

 せっかく風呂に入ったのに、汗だくは免れなかった。


 2度目のシャワーを浴びた頃、会長が夕食を用意してくれていた。

 ご飯と味噌汁、魚そして漬物。

 3日ぶりのニホン食はとても優しくて身に染みた。


 どうやら俺の帰宅前に仕込みを済ませていたようだ。

 こういうところがあるので、どうしても彼女のことを憎めない。


 たしか会長はフレイさんと夕食を済ませていたはずなので、俺のためとしか考えられない。

 風呂と食事とサンドバッグの3択は、食事が正解として用意されていたのか。

 次回からは食事を選ぶとするか。


 ***

『あとがき』

いつもありがとうございます。

今回の話がステイツ編のメインでした。

今までで1番長い回で、単純に文字数だと7話分くらいでしょうか。

1話辺りの量が増しているので、更新が遅れても許してください。

通知を受け取れるように“作品フォロー”をしていただけると嬉しいです。


さてステイツ編も残り2話です。

次回は会長様がカジノに行きたいと騒ぎ出します。

そして5話目はナイアガラの滝観光です。

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